◎イスラーム 21 シーア派とスンナ派
★ウマイヤ朝(661年~750年)
ムアーウィアは、アリーがまだ存命中の660年に、エルサレムで自らカリフたることを宣言した
661年、アリーが暗殺されると、ムアーウィアはダマスカスでムスリムから忠誠の誓いをうけ、第5代カリフとして認められた
661年7月、ムアーウィアはカリフ職の世襲制を宣言し、シリアのダマスカスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)を打ち立てた
ウマイヤ家の出身者が世襲的にカリフ位を独占したため、ウマイヤ朝と呼ばれる
・ムアーウィアはムスリムの指導者としてではなく、イスラーム史上最初の君主としてふるまった
ムアーウィアはイスラーム史上はじめて見張り、警察、門番をおいた
○征服戦争を再開
・669年 シチリア遠征
・674年 クレタ島征服
・679年 コンスタンティノープル攻撃
○カルバラーの悲劇
680年、ムアーウィアが没し、息子のヤズィードがウマイヤ朝第2代カリフとなった
アリーの一党はアリーの遺児フサイン(ムハンマドの孫)を擁して兵をあげようとした
イラクの都市クーファはアリーの一党の本拠地だった
クーファの不穏な動きを察知したカリフ ヤズィードは軍を派遣し、ウマイヤ朝軍はクーファ西北部のカルバラーに布陣して、フサインの到着を待ちかまえた
680年10月10日(ヒジュラ暦61年ムハッラム月(第1月)10日)、70余名のフサイン軍と4000名のウマイヤ朝軍が戦った
フサインとその従者は、女・子供を残して全員殺された
フサインの遺体は首実検がすんでからカルバラーにもどされ葬られた
やがて、そこにはモスクが建ち、シーア派の聖なる墓所として伝えられている
○アーシュラーの行事
アーシュラーはヒジュラ暦ムハッラム月10日のことをさす
ヒジュラ暦61年のこの日、フサインが殺害されたことから、シーア派の信徒はフサインの殉教を哀悼する行事を行う
フサインの痛みや苦しみを追体験するために、自らの身を棒で叩いたり鎖やナイフで傷つけたりする
★シーア派とスンナ派
●シーア派
アリーへの忠誠を守りぬいた人びとをシーア・アリー(アリーの党派)という
「シーア」は「党派」を意味する
アリーとムアーウィアが戦っている頃は、それぞれ「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」であった
しかし、アリーの死後、ウマイヤ朝の成立によってムアーウィア派は体制派となった
体制派となったムアーウィア派はもはや派ではなく、反体制派として残ったアリー派がたんにシーア派と呼ばれるようになった
ムハンマドの家系を重視し、イスラーム共同体の指導者(イマーム)の地位はムハンマドの男性の子孫(アリーの子孫)に引継がれるべきだと主張する人びとがシーア派を形成した
現在、シーア派が多いのはイランであり、国民の90%近くがシーア派であるという
○シーア派の礼拝
1日5回の礼拝のうち、2回目と3回目、4回目と5回目をくっつけて行うので、見た目には1日3回しか礼拝しないように見える
○シーア派はイスラームの異端ではない
スンナ派はシーア派がムスリムであることは認めている
○シーア派は過激派ではない
●スンナ派
「スンナ」とはムハンマドの言行、あるいは規範のことである
スンナ派は多数派を構成しているが、ムハンマドによって示された規範に忠実に生きようとする人びとのことであり、もともと「正統派」とか「多数派」の意味は含まれていない
シーア・アリーが結成されたとき、彼らと一線を画したグループがスンナ派である
スンナ派は、指導者の地位は、世襲ではなく、もっとも適格な人物が受け継ぐべきだと考えた
ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフたちをイマームとして認めるのがスンナ派である
現在、スンナ派がとくに多いのはサウジアラビアで、国民の90%がスンナ派であるという
●ウマイヤ朝第5代カリフ アブド・アルマリク(646~705年)
○アラブ式貨幣の発行
・アブド・アルマリクは695年、アラブ式貨幣を鋳造、発行した
このとき、アラビア文字だけの刻銘をもつ、イスラーム独自の金貨(ディーナール)と銀貨(ディルハム)に統一した
表にはクルアーンの「告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、」(第112章1節)を刻み、裏にはアブド・アルマリク自身の名を刻んだ
これによって、現代と同じように官僚や軍隊への俸給が現金で支払われるようになった
○行政用語のアラビア語化
中央と地方の行政を円滑に行うために、地方ごとに、部署ごとに異なる行政用語、文書用語をアラビア語に統一した
697年にイラクの租税文書がペルシア語からアラビア語へ書き改められた
700年にはシリアの行政用語がギリシア語からアラビア語に改められた
705年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語に改められた
742年にはイランの行政用語がペルシア語からアラビア語に改められた
改革後、官庁で働く書記もアラブ人の官吏が重用されるようになった
●ジュンディーシャープール
・ササン朝ペルシアのシャープール1世がイラン南西部に建設した都市
ホスロー1世アヌーシーラワーンはここにアレクサンドリアの研究所ムーセイオンに似せた研究所をつくり、付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学などの研究が行われた
ギリシアの学術書(ガレノスの医学書、アリストテレスの論理学など)がネストリウス派キリスト教徒たちなどによって、シリア語に翻訳された
●ウマイヤ朝時代には、シリア語訳書をアラビア語に翻訳する作業が開始された
★ウマイヤ朝(661年~750年)
ムアーウィアは、アリーがまだ存命中の660年に、エルサレムで自らカリフたることを宣言した
661年、アリーが暗殺されると、ムアーウィアはダマスカスでムスリムから忠誠の誓いをうけ、第5代カリフとして認められた
661年7月、ムアーウィアはカリフ職の世襲制を宣言し、シリアのダマスカスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)を打ち立てた
ウマイヤ家の出身者が世襲的にカリフ位を独占したため、ウマイヤ朝と呼ばれる
・ムアーウィアはムスリムの指導者としてではなく、イスラーム史上最初の君主としてふるまった
ムアーウィアはイスラーム史上はじめて見張り、警察、門番をおいた
○征服戦争を再開
・669年 シチリア遠征
・674年 クレタ島征服
・679年 コンスタンティノープル攻撃
○カルバラーの悲劇
680年、ムアーウィアが没し、息子のヤズィードがウマイヤ朝第2代カリフとなった
アリーの一党はアリーの遺児フサイン(ムハンマドの孫)を擁して兵をあげようとした
イラクの都市クーファはアリーの一党の本拠地だった
クーファの不穏な動きを察知したカリフ ヤズィードは軍を派遣し、ウマイヤ朝軍はクーファ西北部のカルバラーに布陣して、フサインの到着を待ちかまえた
680年10月10日(ヒジュラ暦61年ムハッラム月(第1月)10日)、70余名のフサイン軍と4000名のウマイヤ朝軍が戦った
フサインとその従者は、女・子供を残して全員殺された
フサインの遺体は首実検がすんでからカルバラーにもどされ葬られた
やがて、そこにはモスクが建ち、シーア派の聖なる墓所として伝えられている
○アーシュラーの行事
アーシュラーはヒジュラ暦ムハッラム月10日のことをさす
ヒジュラ暦61年のこの日、フサインが殺害されたことから、シーア派の信徒はフサインの殉教を哀悼する行事を行う
フサインの痛みや苦しみを追体験するために、自らの身を棒で叩いたり鎖やナイフで傷つけたりする
★シーア派とスンナ派
●シーア派
アリーへの忠誠を守りぬいた人びとをシーア・アリー(アリーの党派)という
「シーア」は「党派」を意味する
アリーとムアーウィアが戦っている頃は、それぞれ「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」であった
しかし、アリーの死後、ウマイヤ朝の成立によってムアーウィア派は体制派となった
体制派となったムアーウィア派はもはや派ではなく、反体制派として残ったアリー派がたんにシーア派と呼ばれるようになった
ムハンマドの家系を重視し、イスラーム共同体の指導者(イマーム)の地位はムハンマドの男性の子孫(アリーの子孫)に引継がれるべきだと主張する人びとがシーア派を形成した
現在、シーア派が多いのはイランであり、国民の90%近くがシーア派であるという
○シーア派の礼拝
1日5回の礼拝のうち、2回目と3回目、4回目と5回目をくっつけて行うので、見た目には1日3回しか礼拝しないように見える
○シーア派はイスラームの異端ではない
スンナ派はシーア派がムスリムであることは認めている
○シーア派は過激派ではない
●スンナ派
「スンナ」とはムハンマドの言行、あるいは規範のことである
スンナ派は多数派を構成しているが、ムハンマドによって示された規範に忠実に生きようとする人びとのことであり、もともと「正統派」とか「多数派」の意味は含まれていない
シーア・アリーが結成されたとき、彼らと一線を画したグループがスンナ派である
スンナ派は、指導者の地位は、世襲ではなく、もっとも適格な人物が受け継ぐべきだと考えた
ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフたちをイマームとして認めるのがスンナ派である
現在、スンナ派がとくに多いのはサウジアラビアで、国民の90%がスンナ派であるという
●ウマイヤ朝第5代カリフ アブド・アルマリク(646~705年)
○アラブ式貨幣の発行
・アブド・アルマリクは695年、アラブ式貨幣を鋳造、発行した
このとき、アラビア文字だけの刻銘をもつ、イスラーム独自の金貨(ディーナール)と銀貨(ディルハム)に統一した
表にはクルアーンの「告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、」(第112章1節)を刻み、裏にはアブド・アルマリク自身の名を刻んだ
これによって、現代と同じように官僚や軍隊への俸給が現金で支払われるようになった
○行政用語のアラビア語化
中央と地方の行政を円滑に行うために、地方ごとに、部署ごとに異なる行政用語、文書用語をアラビア語に統一した
697年にイラクの租税文書がペルシア語からアラビア語へ書き改められた
700年にはシリアの行政用語がギリシア語からアラビア語に改められた
705年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語に改められた
742年にはイランの行政用語がペルシア語からアラビア語に改められた
改革後、官庁で働く書記もアラブ人の官吏が重用されるようになった
●ジュンディーシャープール
・ササン朝ペルシアのシャープール1世がイラン南西部に建設した都市
ホスロー1世アヌーシーラワーンはここにアレクサンドリアの研究所ムーセイオンに似せた研究所をつくり、付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学などの研究が行われた
ギリシアの学術書(ガレノスの医学書、アリストテレスの論理学など)がネストリウス派キリスト教徒たちなどによって、シリア語に翻訳された
●ウマイヤ朝時代には、シリア語訳書をアラビア語に翻訳する作業が開始された