◎イスラーム 8 六信 1
★六信は、ムスリムがその存在を信じることが義務であるとされているものである
1、神(アッラー)
2、天使
3、啓典
4、使徒(預言者)
5、最後の審判の日および来世
6、定命(神の予定)
1、アッラー
世界と人間の創造主、唯一絶対の神、人格神
1)絶対的、超越的存在
他のいっさいのものを必要としない存在、世界がなくとも存在する
2)創造者
世界を創造し、その運行をつかさどる
人間の運命を決定する神
3)啓示を通して、人間に語りかけ、預言者を励まし、信徒を導く人格神
クルアーンの中でのアッラーの呼びかけ
・ムハンマドに語りかける
・人類全体への「人びとよ」という呼びかけ
・ムスリムを対象とする「信仰する者よ」という呼びかけ
4)「主」
アッラーは「主」と呼ばれ、人間は「僕」と呼ばれる
アッラーは、ムスリムにとっては「わが主」である
自分がアッラーの僕(しもべ)であると認めて帰依することが「イスラーム」の意味である
○アッラーは、病をいやす方、すべてをゆるす方、糧を与える方、人間の祈りに応える方などとなる
アッラーの多面性をあらわす「神の99の美称」が指定されている(99は無限を象徴している)
「慈悲深き者」「王者」「平安者」「保護者」「制圧者」「創造者」「赦す者」「糧を与える者」「全知者」「裁定者」「監視者」「応答者」「復活者」「生を与える者」「死を与える者」「永生者」「全能者」「超越者」「復讐者」「導き手」など(「岩波 イスラーム辞典」)
○偶像崇拝の禁止
偶像とは、神仏の彫像や画像など、崇拝の対象となる像である
イスラームで偶像とは、本来イスラームが布教される以前の時代の部族の守護神の像をさす
イスラームへ改宗することは部族神や祖先の崇拝をすてることを意味する
イスラームでは、「神の似姿」という考えはなく、偶像崇拝を拒否する
アッラーの彫像・画像の作成を禁止する
神仏の像に拝礼するだけで偶像崇拝にあたるとする
・神の存在を視覚的に感じるのではなく、クルアーンの読誦が聴覚的に神を実感させるとする
○音楽
・クルアーンには音楽の合法・非合法についての明文はない
・1979年のイラン革命直後、ホメイニは音楽をハラーム(禁止されるべきもの)とし、テレビ放送から音楽番組を排斥し、公開演奏会を禁じた(「岩波 イスラーム辞典」)
・イランでは、女性歌手のテレビ出演は禁止されている
イランでは、女性歌手のカセットテープやCDを合法的に販売することはできない
イランでは、観客がいすから立ち上がることが禁止されているという
・歴史的には音楽はイスラーム世界の重要な芸術だった
アンダルシアのムスリムが生み出した音楽はヨーロッパのクラシック音楽の発展に影響を与えた(「イスラーム世界の基礎知識」ジョン・L・エスポジト、原書房)
○安息日
・ユダヤ教、キリスト教で週の第7日をさす
ユダヤ教では土曜日、キリスト教では日曜日
イスラームでは安息日という概念はない(アッラーが休息することはない)
ただし、金曜日が集団で礼拝を行う日とされ、多くのムスリム国では公休日とされる
2、天使
・天使は神によってつくられ、神と人間の中間的存在で、神の言葉や意図を伝えるといった役割をはたす
・イスラームの4大天使
ジブリール(キリスト教ではガブリエル)
ミーカーイール(キリスト教ではミカエル)
イスラーフィール
最後の審判の日にらっぱを鳴らす
イズラーイール(死の天使)
死後40日後に魂を身体から引き離す
3、啓典
・アッラーがさずけた啓示の書物、神の言葉の記録
・イスラームに先行して啓典をもつ宗教を信仰する人びとを「啓典の民」と呼ぶ
ユダヤ教徒やキリスト教徒などは啓典の民である
○クルアーンおよび以下もふくむ
・ユダヤ教の聖書(トーラー…ムーサー(モーセ)にさずけた)
詩篇…ユダヤ教の聖書のなかの1書、ダーウード(ダビデ)にさずけた
キリスト教の福音書(キリスト教の聖書の意味で用いる)
「福音」の語源はギリシア語の「エヴァンゲリオン」とされる
・トーラーは一般にユダヤ教の律法や(モーセ)五書を指す
・五書は創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5文書の総称である
五書の著者はモーセであるとは言えない
著者は誰か、結論は出ていないが、ひとりの宗教的天才の作品であるとの主張がある(「聖書百科全書」ジョン・ボウカー、三省堂)
○ユダヤ教の聖書「ヘブライ語聖書」をキリスト教徒は「旧約聖書」と呼ぶ
ユダヤ教徒は「旧約聖書」とは言わない
「旧約聖書」、「新約聖書」とかいう言い方はキリスト教徒側の主張である
・この「約」は翻訳の「訳」ではなくて、人間と神との約束の「約」である
○イスラームはクルアーンのみが神の言葉を正しく伝えていると考える
○クルアーンの教えがキリスト教の聖書の教えと異なる場合は、ムスリムはイスラームの解釈をとることを求められる
●クルアーンではキリスト教の「三位一体説」は否定される
「決して「三」などと言うてはならぬぞ。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない、神に息子があるとは何事ぞ。」(4章169節)
●クルアーンではイエスは十字架では亡くなっていないと述べる
「彼らは信仰に背きマルヤム(マリア)についても大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサー(イエス)を殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。もともと(啓典の民の中で)この点について論争している人々は彼(イエス)について(本当にイエスが殺され十字架にかけられたかどうかについて)疑問をもっている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけではなし、ただいいかげんに臆測しているだけのこと。いや、彼らは断じて彼を殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍(そば)に引き上げ給うたのじゃ。」(4章155節)
・イエスに似た人が自ら志願して代わりに処刑されたという伝承がある
●イエスの復活について
○死人が生き返ることは、生物学的にありえない
それならば、イエスの復活の説明に関して、どのような可能性が考えられるだろうか
1 十字架にかけられたのはイエスとは別人だった
2 イエスは十字架にかけられたが、完全には死ななかったので、蘇生した
3 イエスは十字架にかけられ死亡したが、イエスの幻覚を見た人が復活したと主張した
4 イエスが十字架にかけられて死んだあと復活したというストーリーは、福音書記者の創作だった
・私は、4の可能性があるように思います
○イエスが生きた時代、イエスは無名の人物であり、ギリシャやローマの史料には何も書かれていない
イエスの生涯については、4つの福音書に頼るほかない
4つの福音書のうち、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」では、イエスは自分が神であるとは言っていない
イエスの神性に言及しているのは、最も新しい福音書の「ヨハネによる福音書」だけである
イエスが神であるという思想は、イエス自身の教えではなく、ヨハネ神学の教義である
・イエスが「神の子」になったのは、「復活」したときである
●キリスト教の創設者はイエスではない
・キリスト教の創設者は後世のイエスの弟子たちである
イエスはユダヤ教徒であったし、ユダヤ教とは別の新しい宗教を創設する意図はなかった
「キリスト」はイエスの苗字ではなく、「イエス・キリスト」とは「救世主イエス」という意味である
イエスの死後、弟子たちが、イエスがキリスト(救世主)であるという神話を作り、「キリスト派」という集団を形成した
ユダヤ教の一派のキリスト派がその後分離して、キリスト教になった
○新約聖書に収められている4つの福音書はもともと匿名で書かれており「○○福音書」などというタイトルはつけなかった
福音書記者は、イエスに直接会ったことはなく、誰ひとり目撃者だと言っていない
福音書は目撃証言ではない
また、福音書を書いたのはイエスの時代の弟子ではない
福音書はギリシャ語で書かれ、イエスの弟子はアラム語をしゃべっていたはずで、ギリシャ語の知識はほぼ無かっただろう
イエスの弟子は文字を書くことはおろか、読むこともできなかっただろう
福音書はイエスの死後何十年もあとのギリシャ語に堪能な高度な教育を受けたキリスト教徒によって書かれた
福音書記者は、史実に忠実なイエスの伝記を書こうとしたのではなく、それぞれのイエス像をもとに、独自の視点、独自の神学をもとに、ときには意図的に改ざんして書いた
(「旧約聖書と新約聖書」上村静、新教出版社 「キリスト教成立の謎を解く」バート・D・アーマン、柏書房 「捏造された聖書」バート・D・アーマン、柏書房 など)
★六信は、ムスリムがその存在を信じることが義務であるとされているものである
1、神(アッラー)
2、天使
3、啓典
4、使徒(預言者)
5、最後の審判の日および来世
6、定命(神の予定)
1、アッラー
世界と人間の創造主、唯一絶対の神、人格神
1)絶対的、超越的存在
他のいっさいのものを必要としない存在、世界がなくとも存在する
2)創造者
世界を創造し、その運行をつかさどる
人間の運命を決定する神
3)啓示を通して、人間に語りかけ、預言者を励まし、信徒を導く人格神
クルアーンの中でのアッラーの呼びかけ
・ムハンマドに語りかける
・人類全体への「人びとよ」という呼びかけ
・ムスリムを対象とする「信仰する者よ」という呼びかけ
4)「主」
アッラーは「主」と呼ばれ、人間は「僕」と呼ばれる
アッラーは、ムスリムにとっては「わが主」である
自分がアッラーの僕(しもべ)であると認めて帰依することが「イスラーム」の意味である
○アッラーは、病をいやす方、すべてをゆるす方、糧を与える方、人間の祈りに応える方などとなる
アッラーの多面性をあらわす「神の99の美称」が指定されている(99は無限を象徴している)
「慈悲深き者」「王者」「平安者」「保護者」「制圧者」「創造者」「赦す者」「糧を与える者」「全知者」「裁定者」「監視者」「応答者」「復活者」「生を与える者」「死を与える者」「永生者」「全能者」「超越者」「復讐者」「導き手」など(「岩波 イスラーム辞典」)
○偶像崇拝の禁止
偶像とは、神仏の彫像や画像など、崇拝の対象となる像である
イスラームで偶像とは、本来イスラームが布教される以前の時代の部族の守護神の像をさす
イスラームへ改宗することは部族神や祖先の崇拝をすてることを意味する
イスラームでは、「神の似姿」という考えはなく、偶像崇拝を拒否する
アッラーの彫像・画像の作成を禁止する
神仏の像に拝礼するだけで偶像崇拝にあたるとする
・神の存在を視覚的に感じるのではなく、クルアーンの読誦が聴覚的に神を実感させるとする
○音楽
・クルアーンには音楽の合法・非合法についての明文はない
・1979年のイラン革命直後、ホメイニは音楽をハラーム(禁止されるべきもの)とし、テレビ放送から音楽番組を排斥し、公開演奏会を禁じた(「岩波 イスラーム辞典」)
・イランでは、女性歌手のテレビ出演は禁止されている
イランでは、女性歌手のカセットテープやCDを合法的に販売することはできない
イランでは、観客がいすから立ち上がることが禁止されているという
・歴史的には音楽はイスラーム世界の重要な芸術だった
アンダルシアのムスリムが生み出した音楽はヨーロッパのクラシック音楽の発展に影響を与えた(「イスラーム世界の基礎知識」ジョン・L・エスポジト、原書房)
○安息日
・ユダヤ教、キリスト教で週の第7日をさす
ユダヤ教では土曜日、キリスト教では日曜日
イスラームでは安息日という概念はない(アッラーが休息することはない)
ただし、金曜日が集団で礼拝を行う日とされ、多くのムスリム国では公休日とされる
2、天使
・天使は神によってつくられ、神と人間の中間的存在で、神の言葉や意図を伝えるといった役割をはたす
・イスラームの4大天使
ジブリール(キリスト教ではガブリエル)
ミーカーイール(キリスト教ではミカエル)
イスラーフィール
最後の審判の日にらっぱを鳴らす
イズラーイール(死の天使)
死後40日後に魂を身体から引き離す
3、啓典
・アッラーがさずけた啓示の書物、神の言葉の記録
・イスラームに先行して啓典をもつ宗教を信仰する人びとを「啓典の民」と呼ぶ
ユダヤ教徒やキリスト教徒などは啓典の民である
○クルアーンおよび以下もふくむ
・ユダヤ教の聖書(トーラー…ムーサー(モーセ)にさずけた)
詩篇…ユダヤ教の聖書のなかの1書、ダーウード(ダビデ)にさずけた
キリスト教の福音書(キリスト教の聖書の意味で用いる)
「福音」の語源はギリシア語の「エヴァンゲリオン」とされる
・トーラーは一般にユダヤ教の律法や(モーセ)五書を指す
・五書は創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5文書の総称である
五書の著者はモーセであるとは言えない
著者は誰か、結論は出ていないが、ひとりの宗教的天才の作品であるとの主張がある(「聖書百科全書」ジョン・ボウカー、三省堂)
○ユダヤ教の聖書「ヘブライ語聖書」をキリスト教徒は「旧約聖書」と呼ぶ
ユダヤ教徒は「旧約聖書」とは言わない
「旧約聖書」、「新約聖書」とかいう言い方はキリスト教徒側の主張である
・この「約」は翻訳の「訳」ではなくて、人間と神との約束の「約」である
○イスラームはクルアーンのみが神の言葉を正しく伝えていると考える
○クルアーンの教えがキリスト教の聖書の教えと異なる場合は、ムスリムはイスラームの解釈をとることを求められる
●クルアーンではキリスト教の「三位一体説」は否定される
「決して「三」などと言うてはならぬぞ。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない、神に息子があるとは何事ぞ。」(4章169節)
●クルアーンではイエスは十字架では亡くなっていないと述べる
「彼らは信仰に背きマルヤム(マリア)についても大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサー(イエス)を殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。もともと(啓典の民の中で)この点について論争している人々は彼(イエス)について(本当にイエスが殺され十字架にかけられたかどうかについて)疑問をもっている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけではなし、ただいいかげんに臆測しているだけのこと。いや、彼らは断じて彼を殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍(そば)に引き上げ給うたのじゃ。」(4章155節)
・イエスに似た人が自ら志願して代わりに処刑されたという伝承がある
●イエスの復活について
○死人が生き返ることは、生物学的にありえない
それならば、イエスの復活の説明に関して、どのような可能性が考えられるだろうか
1 十字架にかけられたのはイエスとは別人だった
2 イエスは十字架にかけられたが、完全には死ななかったので、蘇生した
3 イエスは十字架にかけられ死亡したが、イエスの幻覚を見た人が復活したと主張した
4 イエスが十字架にかけられて死んだあと復活したというストーリーは、福音書記者の創作だった
・私は、4の可能性があるように思います
○イエスが生きた時代、イエスは無名の人物であり、ギリシャやローマの史料には何も書かれていない
イエスの生涯については、4つの福音書に頼るほかない
4つの福音書のうち、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」では、イエスは自分が神であるとは言っていない
イエスの神性に言及しているのは、最も新しい福音書の「ヨハネによる福音書」だけである
イエスが神であるという思想は、イエス自身の教えではなく、ヨハネ神学の教義である
・イエスが「神の子」になったのは、「復活」したときである
●キリスト教の創設者はイエスではない
・キリスト教の創設者は後世のイエスの弟子たちである
イエスはユダヤ教徒であったし、ユダヤ教とは別の新しい宗教を創設する意図はなかった
「キリスト」はイエスの苗字ではなく、「イエス・キリスト」とは「救世主イエス」という意味である
イエスの死後、弟子たちが、イエスがキリスト(救世主)であるという神話を作り、「キリスト派」という集団を形成した
ユダヤ教の一派のキリスト派がその後分離して、キリスト教になった
○新約聖書に収められている4つの福音書はもともと匿名で書かれており「○○福音書」などというタイトルはつけなかった
福音書記者は、イエスに直接会ったことはなく、誰ひとり目撃者だと言っていない
福音書は目撃証言ではない
また、福音書を書いたのはイエスの時代の弟子ではない
福音書はギリシャ語で書かれ、イエスの弟子はアラム語をしゃべっていたはずで、ギリシャ語の知識はほぼ無かっただろう
イエスの弟子は文字を書くことはおろか、読むこともできなかっただろう
福音書はイエスの死後何十年もあとのギリシャ語に堪能な高度な教育を受けたキリスト教徒によって書かれた
福音書記者は、史実に忠実なイエスの伝記を書こうとしたのではなく、それぞれのイエス像をもとに、独自の視点、独自の神学をもとに、ときには意図的に改ざんして書いた
(「旧約聖書と新約聖書」上村静、新教出版社 「キリスト教成立の謎を解く」バート・D・アーマン、柏書房 「捏造された聖書」バート・D・アーマン、柏書房 など)