◎マリー・アントワネットとルイ16世 2
★政略結婚
・ルイ15世のところの大臣ショワズールとハプスブルク家のマリア・テレジアのところの政治顧問のカウニッツが、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の同盟を血縁で結びつけて強めようと提案した
それは、フランスの王太子とマリア・テレジアの娘のひとりを結婚させる考えである
結婚の話は、1764年にショワズールとオーストリア大使のシュタクベルヘルク公爵とのあいだではじまり、1766年にルイ15世が口頭で同意した
1766年5月24日の時点で、オーストリア大使が「陛下は今この時より、フランス王太子とマリア・アントーニア皇女との結婚は決定され、確実なものになったとお考えになることができる」とマリア・テレジアに書簡で報告している
・1769年6月、ルイ15世は最終的の結婚の許可を与え、ルイ15世の書簡がマリア・テレジアにとどき、「自分の孫である未来のルイ16世のために、若いプリンセスをいただきたい」との結婚の申し込みがあった
・結婚式は翌1770年の5月と決められた
・4月16日、大臣のデュルフォールは主人の国王の名において、正式にアントワーヌにベリー公との結婚を申し込み、ベリー公の肖像画が入ったロケットをアントワーヌに渡した
・4月17日、婚姻契約において、アントワーヌはオーストリアの皇位継承権、およびハプスブルク家の財産相続権を放棄すること、20万フロリンの持参金と同額の宝石類を持ち込むこと、寡婦になったときの給与財産として、2万エキュの金貨と10万エキュの宝石類を年金として受け取ることが取り決められた
その夜、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿で晩餐会が開かれた
・4月18日の夜はウィーン郊外のリヒテンシュタイン宮殿で晩餐会が開かれた
花火が上がり、トルコ音楽が奏でられた
・4月19日、ウィーンのアウグスティヌス教会で代理人を立てて代理結婚式が挙げられた
アントワーヌの代理花婿は3番目の兄のフェルディナント大公だった
・アントワーヌの出発は4月21日の朝9時と決められていた
輿入れの行列には、侍女、秘書官、美容師、衣装係、医者、従僕、女官、近衛兵、料理人、パン焼き職人、蹄鉄工など少なくとも132人にのぼり、57台の馬車と376頭の馬が必要になった
376頭の馬は4時間ごとに交代する必要があり、のべ2万頭の馬をルートに沿って配置しておかなければならなかった
・14歳のアントワーヌは人目も気にせず泣きじゃくり、馬車の窓から何度も首を出して故国を最後に見ようとしていたという(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー、早川書房 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク、角川文庫 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン、祥伝社 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス、中央公論新社)
★マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの往復書簡
・1770年からマリア・テレジアが亡くなる(1780年11月29日)少し前まで11年間にわたる、マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの秘密の往復書簡(直筆のものと写し)が残っている
母は娘が嫁いでからも、手紙によって警告や助言を与え、指示を出し、さとしたり娘を正しい道へ導こうとした
母は娘の出発にあたって、書簡を与え、今後定期的に手紙で連絡を取り合うように、しかもそれを秘密にするように言い含めた
書簡のやりとり自体を秘密にするということではなく、定期的に書簡を通して意思を通じ合っていることを秘密にするという意味である
手紙を読んだあとはすぐに破棄されることになっていた
娘はこれを守ったようだが、母のほうは娘からの手紙を書き写させて保管させた
こうして、母と娘の書簡の写しと、破棄されなかった直筆の書簡が後世に残ったのである
母と娘の秘密の文通は月1度ぐらいの頻度で続けられた
現在なら、携帯電話もありネットもあり毎日連絡をとれて便利だけれど、手紙というのは貴重な資料である
◎1770年4月21日 マリア・テレジアから娘へ(書簡1) より一部
「毎月読むこと
毎朝、目を覚ましたらすぐさまベッドを離れ、跪いて朝のお祈りを唱えて、神の教えを説く書物を読みなさい…すべては1日の良き始まりに関わること、1日の始まりにあたっての心構えに関わることであり、これさえ間違いなく行なえば、取るに足りぬ事柄ですら功徳のあるよう立派に行なうことができます。…しかしこれにより、この世であなたが魂の平安を得られるか否かが決まるのです。また、1日の終わりにあたってあなたが行なう夕べの祈りと反省についても、同じことが言えます…ところで、あなたが読んでいる本のことを、そのつど私に知らせてください。毎日できるかぎり時間を見つけて、自省と黙祷に励み、特に聖なるミサのあいだは一心不乱にそれを行なうように…あなたがフランスのしきたりに反することを導入したり試みたりすることは、いささかも願ってはなりません…あなたは無条件に、フランスの宮廷でいつも行なわれているとおりにしなければいけません…すべての目があなたに注がれています。ですから、悪評が立つようなきっかけをあたえてはなりません…
特に注意すべきこと
誰それを推薦してくださいと頼まれても引き受けてはなりません…好奇心を抱いてはいけません…どのようなこともノワイエ夫妻に尋ねなさい…何をするべきかについても、おふたりに教えを乞いなさい…何ごとであれ、あなたの一存で行なってはいけません…これからは毎月の初めに、ウィーンからパリに使いの者を送ることにします。その者が着くまでに手紙を書いておき、到着後ただちに手渡して出立させなさい…私の手紙は、読んだら破り捨てなさい…」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」パウル・クリストフ編 岩波書店)
★政略結婚
・ルイ15世のところの大臣ショワズールとハプスブルク家のマリア・テレジアのところの政治顧問のカウニッツが、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の同盟を血縁で結びつけて強めようと提案した
それは、フランスの王太子とマリア・テレジアの娘のひとりを結婚させる考えである
結婚の話は、1764年にショワズールとオーストリア大使のシュタクベルヘルク公爵とのあいだではじまり、1766年にルイ15世が口頭で同意した
1766年5月24日の時点で、オーストリア大使が「陛下は今この時より、フランス王太子とマリア・アントーニア皇女との結婚は決定され、確実なものになったとお考えになることができる」とマリア・テレジアに書簡で報告している
・1769年6月、ルイ15世は最終的の結婚の許可を与え、ルイ15世の書簡がマリア・テレジアにとどき、「自分の孫である未来のルイ16世のために、若いプリンセスをいただきたい」との結婚の申し込みがあった
・結婚式は翌1770年の5月と決められた
・4月16日、大臣のデュルフォールは主人の国王の名において、正式にアントワーヌにベリー公との結婚を申し込み、ベリー公の肖像画が入ったロケットをアントワーヌに渡した
・4月17日、婚姻契約において、アントワーヌはオーストリアの皇位継承権、およびハプスブルク家の財産相続権を放棄すること、20万フロリンの持参金と同額の宝石類を持ち込むこと、寡婦になったときの給与財産として、2万エキュの金貨と10万エキュの宝石類を年金として受け取ることが取り決められた
その夜、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿で晩餐会が開かれた
・4月18日の夜はウィーン郊外のリヒテンシュタイン宮殿で晩餐会が開かれた
花火が上がり、トルコ音楽が奏でられた
・4月19日、ウィーンのアウグスティヌス教会で代理人を立てて代理結婚式が挙げられた
アントワーヌの代理花婿は3番目の兄のフェルディナント大公だった
・アントワーヌの出発は4月21日の朝9時と決められていた
輿入れの行列には、侍女、秘書官、美容師、衣装係、医者、従僕、女官、近衛兵、料理人、パン焼き職人、蹄鉄工など少なくとも132人にのぼり、57台の馬車と376頭の馬が必要になった
376頭の馬は4時間ごとに交代する必要があり、のべ2万頭の馬をルートに沿って配置しておかなければならなかった
・14歳のアントワーヌは人目も気にせず泣きじゃくり、馬車の窓から何度も首を出して故国を最後に見ようとしていたという(「マリー・アントワネット」アントニア・フレイザー、早川書房 「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク、角川文庫 「ルイ16世」ベルナール・ヴァンサン、祥伝社 「ルイ十六世」ジャン=クリスチャン・プティフィス、中央公論新社)
★マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの往復書簡
・1770年からマリア・テレジアが亡くなる(1780年11月29日)少し前まで11年間にわたる、マリー・アントワネットとマリア・テレジアとの秘密の往復書簡(直筆のものと写し)が残っている
母は娘が嫁いでからも、手紙によって警告や助言を与え、指示を出し、さとしたり娘を正しい道へ導こうとした
母は娘の出発にあたって、書簡を与え、今後定期的に手紙で連絡を取り合うように、しかもそれを秘密にするように言い含めた
書簡のやりとり自体を秘密にするということではなく、定期的に書簡を通して意思を通じ合っていることを秘密にするという意味である
手紙を読んだあとはすぐに破棄されることになっていた
娘はこれを守ったようだが、母のほうは娘からの手紙を書き写させて保管させた
こうして、母と娘の書簡の写しと、破棄されなかった直筆の書簡が後世に残ったのである
母と娘の秘密の文通は月1度ぐらいの頻度で続けられた
現在なら、携帯電話もありネットもあり毎日連絡をとれて便利だけれど、手紙というのは貴重な資料である
◎1770年4月21日 マリア・テレジアから娘へ(書簡1) より一部
「毎月読むこと
毎朝、目を覚ましたらすぐさまベッドを離れ、跪いて朝のお祈りを唱えて、神の教えを説く書物を読みなさい…すべては1日の良き始まりに関わること、1日の始まりにあたっての心構えに関わることであり、これさえ間違いなく行なえば、取るに足りぬ事柄ですら功徳のあるよう立派に行なうことができます。…しかしこれにより、この世であなたが魂の平安を得られるか否かが決まるのです。また、1日の終わりにあたってあなたが行なう夕べの祈りと反省についても、同じことが言えます…ところで、あなたが読んでいる本のことを、そのつど私に知らせてください。毎日できるかぎり時間を見つけて、自省と黙祷に励み、特に聖なるミサのあいだは一心不乱にそれを行なうように…あなたがフランスのしきたりに反することを導入したり試みたりすることは、いささかも願ってはなりません…あなたは無条件に、フランスの宮廷でいつも行なわれているとおりにしなければいけません…すべての目があなたに注がれています。ですから、悪評が立つようなきっかけをあたえてはなりません…
特に注意すべきこと
誰それを推薦してくださいと頼まれても引き受けてはなりません…好奇心を抱いてはいけません…どのようなこともノワイエ夫妻に尋ねなさい…何をするべきかについても、おふたりに教えを乞いなさい…何ごとであれ、あなたの一存で行なってはいけません…これからは毎月の初めに、ウィーンからパリに使いの者を送ることにします。その者が着くまでに手紙を書いておき、到着後ただちに手渡して出立させなさい…私の手紙は、読んだら破り捨てなさい…」(「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」パウル・クリストフ編 岩波書店)