◎ギリシャ神話 32 ピュラモスとティスベ
★ピュラモスとティスベ(おもに「変身物語(上)」岩波文庫 より)
無類の美青年ピュラモスと、『東方』だいいちの美女ティスベが隣りあわせの家に住んでいた
セミラミス女王が高い煉瓦の城壁で囲んだという、あのバビュロンの都での話
隣同士であることがこの若いふたりを近づけさせ、時とともに、この恋がつのってゆきました
ふたりは互いに、喜んで結婚したいと思いましたが、親たちはそれを許さなかったのです
しかし、いくら親たちでも禁じることのできないものがありました
ふたりは、同じように気もそぞろで、恋の炎に身を焼かれていたのです。なかに立ってくれるような、腹心の友もありません。ふたりはうなずきや目くばせで胸のうちを語りあいました。そして秘められれば秘められるほどますます恋の炎は激しく燃えあがっていきます
両家を隔てている壁に、細い裂け目がありました
この孔(あな)は、長い歳月のあいだに、誰の目にもつかなかったのですが、この恋人たちが、はじめてこれを見つけました
恋はどんなものでも探しださずにはおかないからです
ふたりは、この孔を声の通路にしたのです。いつも、うまいぐあいにこの孔から甘いささやきを送るのでした。ティスベがこちらに、ピュラモスがあちらに立って、たがいに相手のあえぎをとらえあってから、しばしばこんふうにいうのでした
「嫉妬ぶかい壁よ、どうして恋人たちの邪魔をするのだ? からだごと抱きあうことを許したとしても、いや、それがあんまりだというのなら、せめて口づけを交わせるほどの場所をあけてくれたとしても、それがどれほどのことだというのだろう? もっとも、わたしたちも感謝はしている。おまえのおかげで、愛する耳もとへの言葉を伝えることができるのだからね」
日暮れが近づくと、「さようなら!」といって、それぞれが自分の側の壁に、唇を押しつけるのでした
あくる朝、曙(アウロラ)が星々を追い散らし、霜に濡れた草の葉が日差しに乾いたころ、ふたりはいつもの場所に寄って来ました。つもる嘆きをか細いささやきに託したあと、ついにこんな取り決めを交わしました
夜のしじまが訪れたら、見張りの目をかわして、門の外へ抜け出すことにしよう。家を出たら、そのまま町はずれまで行こう。広い野原に出ることになろうが、はぐれたりしないように、ニノス王の墓で落ち合い、先についた方が後から来る者をそこに立っている1本の木の陰に隠れて待つことにしよう、そういうことにしたのです。その木は真っ白な実をいっぱい垂らした桑の木で、冷たい泉のそばに立っていました
やがて太陽が西の海に沈み、夜の闇が寄せて来ると、ティスベは門の蝶番(ちょうつがい)をはずし、家の者に気づかれないで、うまく外へ出てゆきました
ヴェールで顔を隠して、墓までやって来ると、いわれた木の下に坐りました
ただひとりぽつんと坐っていると、1頭の雌獅子がこちらへやって来るではありませんか。牛を食い殺したばかりで、口を血だらけにして、のどのかわきをいやそうと近くの泉に近づいてきたのです
遠くから、月の光でその姿を認めたティスベは、ふるえる足で、暗い洞穴に逃げこみました。ところが逃げるはずみに、かぶっていたヴェールを落としてしまった
獅子は、水で渇きをいやし、森へ帰ってゆく途中、たまたま落ちていたヴェールを見つけて、血だらけの口をでそれを引き裂いた
遅れて家を出たピュラモスは、積もった砂ぼこりのうえに、けものの足跡を認めて、顔一面が真っ青になりました
そのうえ、引き裂かれた血に染まったヴェールが見つかりました
「この同じ一夜に、恋人ふたりが死んでゆく。彼女のほうこそ、生きながらえるのにふさわしかったのに、悪いのはぼくだ。かわいそうに、ぼくがきみを死なせたのだ。こんな恐ろしい場所に来るように言っておきながら、本人が遅刻するなんて! ぼくのこのからだを、罪深いこのはらわたを、荒々しい牙で食い尽すのだ、おお、この崖下に住む獅子たちよ!」
ティスベのヴェールを取りあげ、約束の木のもとへ持ってゆきます
ヴェールに涙をそそぎ、口づけして
「今こそ、ぼくの血潮も吸ってくれるのだ!」
ピュラモスは、腰につけていた剣を、わき腹に突きたてました。そして、すぐに、焼けるように熱い傷口から、それを引き抜きました。あお向けに地上に倒れると、血が高く噴きあげます。そばの桑の実は、血しぶきを浴びて、どす黒い色に変わりました。根も血を吸って、垂れさがる実を赤く染めました
このとき、いまだに恐怖を捨てきれないでいるものの、恋人にはぐれてもいけないと思ったティスベが出てきました。懸命に若者を探すのですが、自分がどれほどの危険を避けていたのかを知らせたい一心です。場所をさぐり当て、木の姿にも見おぼえがあるのですが、桑の実の色が変わっているのを見ると、この木だったのかしらといぶかしく思いました。何やら人影がぴくぴくと、地上にうごめいているのが見えました
驚いて、あとじさりします
顔は、黄楊(つげ)の木よりも青白くなって、からだはがくがくと震えます
静かな水面に一陣の風が吹きわたるときに起こるあの漣(さざなみ)にも似ていました
しかし、それが自分の恋人だとわかると、腕を高らかに打ちたたいて、嘆きをほとばしらせます。髪を引きむしり、いとしいからだを抱いて、傷口を涙で埋めますと、その涙が血と混ざるのです
冷たい顔に口づけしながら、「ピュラモス」と叫びました
「ピュラモス、答えてちょうだい! あなたの最愛のティスベが、あなたの名を呼んでいるのよ。聞いてちょうだい!
うなだれた顔を起こして!」
ピュラモスは、ティスベの名を耳にすると、目をあけて彼女を見たが、やがてまた目を閉じてしまった
ティスベは血に染まった自分のヴェールと中身の抜かれているさやを見てとると
「あなたの手と、そして愛が、あなたの生命を奪ったのね
でも、わたしにも、その同じことをするための雄々しい手と、愛がありますわ
その愛が、みずからを傷つけるだけの力を与えてくれるのよ
あの世へおともをいたしましょう
死によってのみわたしから引き離されることのできたあなたが、もう、死によってさえも引き離されることはできないのです
おお、わたしのお父さま、それにこのかたのお父さまも、どんなにお可哀そうなことか!
でも、わたしたちふたりからのお願いがあるのです
愛と死がわたしたちを結びつけたのですから、わたしたちを同じお墓に葬っていただきたいのです
それに、この桑の木にもお願いが…
これからは、わたしたちの死の形見に、いつも、嘆きにふさわしい実をつけてほしいの
ふたりの血潮の思い出にね」
そう言ってティスベは胸の下に刃(やいば)をあてがうと、血のぬくもりがまだ残っている剣のうえに、うつ伏せになりました
彼女の願いは、神々によって、親たちによって、聞きいれられました
焼け残った彼らの骨は、ひとつの壺に眠っています
桑の木はそれからというもの、今日にいたるまで黒っぽい実をつけているのです
★この話には、さらに古い原形が伝えられている
これでは、ふたりは結婚前に愛し合って、子供ができたので、ティスベは自殺し、これを知ったピュラモスもあとを追った
神々はふたりを憐れみ、ピュラモスはキリキアの同名の河に、ティスベはこの河に注ぎこんでいる泉に変じたことになっている
★この物語とよく似た話は、どこかで聞いたことがある?
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は「ピュラモスとティスベ」の物語から端を発しているみたい
★ピュラモスとティスベ(おもに「変身物語(上)」岩波文庫 より)
無類の美青年ピュラモスと、『東方』だいいちの美女ティスベが隣りあわせの家に住んでいた
セミラミス女王が高い煉瓦の城壁で囲んだという、あのバビュロンの都での話
隣同士であることがこの若いふたりを近づけさせ、時とともに、この恋がつのってゆきました
ふたりは互いに、喜んで結婚したいと思いましたが、親たちはそれを許さなかったのです
しかし、いくら親たちでも禁じることのできないものがありました
ふたりは、同じように気もそぞろで、恋の炎に身を焼かれていたのです。なかに立ってくれるような、腹心の友もありません。ふたりはうなずきや目くばせで胸のうちを語りあいました。そして秘められれば秘められるほどますます恋の炎は激しく燃えあがっていきます
両家を隔てている壁に、細い裂け目がありました
この孔(あな)は、長い歳月のあいだに、誰の目にもつかなかったのですが、この恋人たちが、はじめてこれを見つけました
恋はどんなものでも探しださずにはおかないからです
ふたりは、この孔を声の通路にしたのです。いつも、うまいぐあいにこの孔から甘いささやきを送るのでした。ティスベがこちらに、ピュラモスがあちらに立って、たがいに相手のあえぎをとらえあってから、しばしばこんふうにいうのでした
「嫉妬ぶかい壁よ、どうして恋人たちの邪魔をするのだ? からだごと抱きあうことを許したとしても、いや、それがあんまりだというのなら、せめて口づけを交わせるほどの場所をあけてくれたとしても、それがどれほどのことだというのだろう? もっとも、わたしたちも感謝はしている。おまえのおかげで、愛する耳もとへの言葉を伝えることができるのだからね」
日暮れが近づくと、「さようなら!」といって、それぞれが自分の側の壁に、唇を押しつけるのでした
あくる朝、曙(アウロラ)が星々を追い散らし、霜に濡れた草の葉が日差しに乾いたころ、ふたりはいつもの場所に寄って来ました。つもる嘆きをか細いささやきに託したあと、ついにこんな取り決めを交わしました
夜のしじまが訪れたら、見張りの目をかわして、門の外へ抜け出すことにしよう。家を出たら、そのまま町はずれまで行こう。広い野原に出ることになろうが、はぐれたりしないように、ニノス王の墓で落ち合い、先についた方が後から来る者をそこに立っている1本の木の陰に隠れて待つことにしよう、そういうことにしたのです。その木は真っ白な実をいっぱい垂らした桑の木で、冷たい泉のそばに立っていました
やがて太陽が西の海に沈み、夜の闇が寄せて来ると、ティスベは門の蝶番(ちょうつがい)をはずし、家の者に気づかれないで、うまく外へ出てゆきました
ヴェールで顔を隠して、墓までやって来ると、いわれた木の下に坐りました
ただひとりぽつんと坐っていると、1頭の雌獅子がこちらへやって来るではありませんか。牛を食い殺したばかりで、口を血だらけにして、のどのかわきをいやそうと近くの泉に近づいてきたのです
遠くから、月の光でその姿を認めたティスベは、ふるえる足で、暗い洞穴に逃げこみました。ところが逃げるはずみに、かぶっていたヴェールを落としてしまった
獅子は、水で渇きをいやし、森へ帰ってゆく途中、たまたま落ちていたヴェールを見つけて、血だらけの口をでそれを引き裂いた
遅れて家を出たピュラモスは、積もった砂ぼこりのうえに、けものの足跡を認めて、顔一面が真っ青になりました
そのうえ、引き裂かれた血に染まったヴェールが見つかりました
「この同じ一夜に、恋人ふたりが死んでゆく。彼女のほうこそ、生きながらえるのにふさわしかったのに、悪いのはぼくだ。かわいそうに、ぼくがきみを死なせたのだ。こんな恐ろしい場所に来るように言っておきながら、本人が遅刻するなんて! ぼくのこのからだを、罪深いこのはらわたを、荒々しい牙で食い尽すのだ、おお、この崖下に住む獅子たちよ!」
ティスベのヴェールを取りあげ、約束の木のもとへ持ってゆきます
ヴェールに涙をそそぎ、口づけして
「今こそ、ぼくの血潮も吸ってくれるのだ!」
ピュラモスは、腰につけていた剣を、わき腹に突きたてました。そして、すぐに、焼けるように熱い傷口から、それを引き抜きました。あお向けに地上に倒れると、血が高く噴きあげます。そばの桑の実は、血しぶきを浴びて、どす黒い色に変わりました。根も血を吸って、垂れさがる実を赤く染めました
このとき、いまだに恐怖を捨てきれないでいるものの、恋人にはぐれてもいけないと思ったティスベが出てきました。懸命に若者を探すのですが、自分がどれほどの危険を避けていたのかを知らせたい一心です。場所をさぐり当て、木の姿にも見おぼえがあるのですが、桑の実の色が変わっているのを見ると、この木だったのかしらといぶかしく思いました。何やら人影がぴくぴくと、地上にうごめいているのが見えました
驚いて、あとじさりします
顔は、黄楊(つげ)の木よりも青白くなって、からだはがくがくと震えます
静かな水面に一陣の風が吹きわたるときに起こるあの漣(さざなみ)にも似ていました
しかし、それが自分の恋人だとわかると、腕を高らかに打ちたたいて、嘆きをほとばしらせます。髪を引きむしり、いとしいからだを抱いて、傷口を涙で埋めますと、その涙が血と混ざるのです
冷たい顔に口づけしながら、「ピュラモス」と叫びました
「ピュラモス、答えてちょうだい! あなたの最愛のティスベが、あなたの名を呼んでいるのよ。聞いてちょうだい!
うなだれた顔を起こして!」
ピュラモスは、ティスベの名を耳にすると、目をあけて彼女を見たが、やがてまた目を閉じてしまった
ティスベは血に染まった自分のヴェールと中身の抜かれているさやを見てとると
「あなたの手と、そして愛が、あなたの生命を奪ったのね
でも、わたしにも、その同じことをするための雄々しい手と、愛がありますわ
その愛が、みずからを傷つけるだけの力を与えてくれるのよ
あの世へおともをいたしましょう
死によってのみわたしから引き離されることのできたあなたが、もう、死によってさえも引き離されることはできないのです
おお、わたしのお父さま、それにこのかたのお父さまも、どんなにお可哀そうなことか!
でも、わたしたちふたりからのお願いがあるのです
愛と死がわたしたちを結びつけたのですから、わたしたちを同じお墓に葬っていただきたいのです
それに、この桑の木にもお願いが…
これからは、わたしたちの死の形見に、いつも、嘆きにふさわしい実をつけてほしいの
ふたりの血潮の思い出にね」
そう言ってティスベは胸の下に刃(やいば)をあてがうと、血のぬくもりがまだ残っている剣のうえに、うつ伏せになりました
彼女の願いは、神々によって、親たちによって、聞きいれられました
焼け残った彼らの骨は、ひとつの壺に眠っています
桑の木はそれからというもの、今日にいたるまで黒っぽい実をつけているのです
★この話には、さらに古い原形が伝えられている
これでは、ふたりは結婚前に愛し合って、子供ができたので、ティスベは自殺し、これを知ったピュラモスもあとを追った
神々はふたりを憐れみ、ピュラモスはキリキアの同名の河に、ティスベはこの河に注ぎこんでいる泉に変じたことになっている
★この物語とよく似た話は、どこかで聞いたことがある?
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は「ピュラモスとティスベ」の物語から端を発しているみたい