公演前から話題沸騰だった東響とノットの『エレクトラ』(演奏会形式)のミューザ川崎での初日を鑑賞。R・シュトラウスの『エレクトラ』はずっと「よくわからない」オペラだった。昔、輸入盤でCDを買ったが音源だけ聴いてもちんぷんかんぷんで、音質も悪かったのでそのまま放置していた。(同時に買ったのはストラヴィンスキーの『オイディプス王』だったが、こちらも途中で挫折)
『サロメ』から3年後の作。素材としては似ているが、『エレクトラ』の実演からはそれ以上の過激さが感じられた。『サロメ』のほうが演劇的な筆致が明解で『エレクトラ』はもっとカオス的。声とオーケストラが大きくうねりながら星雲のような巨大な模様を創り出している。台本(ホフマンスタール)はテキストの一節一節が過激で情報量過多という印象。作曲家のほうでも論理的な演劇を見せるというよりも、宇宙の動力ともいうべき「女」の強度を女性歌手たちによって表し、血で血を洗うような音のアクションペインティングを展開していく。演出はシリーズ前作の『サロメ』に続いてサー・トーマス・アレンが監修。
標題役のソプラノ、クリスティーン・ガーキーが只者ではなかった。グラミー賞を何度も受賞し、デトロイト・オペラ副芸術監督も務めるガーキーは、『エレクトラ』を得意とする稀代のスーパー・ソプラノ。そのガーキーが歌うエレクトラは、つむじ風のようなパワーに溢れた女性で、身体がバラバラになるような怒りと悲しみに満ち溢れていて、冒頭の侍女たちの陰口を隠れて聴いている場面には、生まれながらの脆弱性も感じさせた。105分間のオペラで、エレクトラ=ガーキーはほぼ出づっぱりで歌い続けていた印象。うねる金髪はメデューサのようで、哀し気な瞳は驚くほど透き通っている。
メインの女性歌手たち、ガーキー、妹クリソテミス役のシネイド・キャンベル=ウォレス、不貞の母クリテムネストラ役のハンナ・シュヴァルツが全身から放つのは、女の苦痛と苛立ちの悲鳴だ。一番不幸なのは誰か。父親の仇を打つため母とその愛人を殺そうとするエレクトラは地獄の底にいるが、夫を殺し愛人をとったクリテムネストラも罪悪感と恐怖感で息絶え絶えとしている。この役を歌ったハンナ・シュヴァルツは80歳近いベテランだという。メゾ・ソプラノの声が深すぎて、存在感がありすぎて、ガーキーに続いて「凄いものを聴いた」という感慨。ショッキングピンクのドレスを着たクリソテミス役のキャンベル=ウォレスは、お姫様のような恰好をしていながら左腕の内側にはタトゥーが入っている。姉妹は罵り合っているようで、運命共同体としての結束が固く、二人の歌手は物語が進むにつれてどんどん輝きを増し「本物の」エレクトラとクリソテミスに見えてくるのだった。
5人の侍女役は日本が誇る名歌手たちが固めた。全員が主役級の歌手で、金子美香さん、谷口睦美さん、池田香織さん、髙橋絵理さん、田崎尚美さんという豪華な顔ぶれ。「監視の女」は増田のり子さん。一幕オペラだが登場人物が大変多く、髙橋さんと田崎さんはクリテムネストラの側近も兼ねる。エレクトラを罵る侍女たちの中で、一人だけ「高貴なあの方」とエレクトラを庇う侍女役の田崎さんが印象に残った。
女性たちは黒のそれぞれデザインの異なるカクテルドレスを着ていて目にも楽しかったが、男性陣は典型的な「演奏会形式」風のコスチュームで、温度差を感じた。だからといって何を着せるか、ということになると悩むところでもあり、衣装でオペラの迫真性が薄まるのは何とも勿体なかった。
男性歌手では狼狽しつつ滑稽な殺され方をするエギスト役のフランク・ファン・アーケン、オレスト役のジェームス・ストキンソンがいい演技をしていた。演奏会形式では「死んだ弟が生きていた。それこそが自分」という状況が唐突にも見えたが、細部に関しては音楽のカタルシスがすべてを覆っていた。
ノットと東響は歌手たちに遠慮する気配もなく、大音響で嵐のオーケストラを鳴らす。ガーキーは決して音の波に飲み込まれず、特権的な声量でエレクトラの怒りを歌い尽くしていたのが圧巻だった。芸術的にかくあるべき演奏とはどんなものなのか、評論家によっては評価がさまざまだろう。
自分は「女が非常によく描けているオペラで、そのことを知悉している指揮」だと思った。オペラが截然としていないのは、この作品の内容が、フレームを破壊してくるような女たちの情念であり、情欲であり、欲求不満だからで、そんなものが理路整然としているわけがない。歌手たちはプロで、理知的にスコアを読む。ガーキーの暗譜力は神業で、全部が身体の中に入っているので、もはや彼女自身が作品といっていい水準にある。ハンナ・シュヴァルツも素晴らしいオペラの化身だ。
R・シュトラウスのこの独自の視点、「怖い女が一番可愛い女」という哲学は一貫している。女が少しでも喚いたり泣いたりすると異常者扱いする男性がこの世の大部分を占めると思うと、その器の巨大さは破格といっていいほどだ。悪妻として名高いパウリーネとはこのオペラが完成する14年前にバイロイトで出会って結婚しているが、妻によって達観したという解釈も出来るし、もともと好きなタイプが叫んだり泣いたりしている女性なのかも知れない。
エレクトラが置かれた状況は複雑だ。母が象徴する「月」に、破壊を示す「冥王星」が重なっているようなもので、日常の安息は滅茶滅茶に破壊され、「官能という罠にはまった」母への憎しみと、幸せな結婚をする妹へのジェラシーで、自分自身は狼少女のような異様な風貌になっていくのだ。
ガーキーはそうした役を、オペラごと丸呑みしていて、身体の中に収めていた。ノットが彼女を呼んでくれなければ見られなかった奇跡であり、貴重な宝石のような公演だった。
字幕が大きな助けになったが、心理と情景の描写に脳がついていけず、イメージすることが間に合わなかった箇所がいくつかあった。二日後サントリーホールでも観たかったが、早々に売り切れていたので二度見られた人は幸せ。ガーキーの「独り踊り」の場面と、ラストの息絶えるシーンまで、心臓が止まりそうなハイライトがたくさんあった。暗転後の喝采の大きさに、日本の聴衆もこんなにワイルドな声を上げるようになったか…と軽い驚きを感じた。
エレクトラがいるのは古代か、未来なのか…凄い場所まで連れていかれた川崎の夜。
『サロメ』から3年後の作。素材としては似ているが、『エレクトラ』の実演からはそれ以上の過激さが感じられた。『サロメ』のほうが演劇的な筆致が明解で『エレクトラ』はもっとカオス的。声とオーケストラが大きくうねりながら星雲のような巨大な模様を創り出している。台本(ホフマンスタール)はテキストの一節一節が過激で情報量過多という印象。作曲家のほうでも論理的な演劇を見せるというよりも、宇宙の動力ともいうべき「女」の強度を女性歌手たちによって表し、血で血を洗うような音のアクションペインティングを展開していく。演出はシリーズ前作の『サロメ』に続いてサー・トーマス・アレンが監修。
標題役のソプラノ、クリスティーン・ガーキーが只者ではなかった。グラミー賞を何度も受賞し、デトロイト・オペラ副芸術監督も務めるガーキーは、『エレクトラ』を得意とする稀代のスーパー・ソプラノ。そのガーキーが歌うエレクトラは、つむじ風のようなパワーに溢れた女性で、身体がバラバラになるような怒りと悲しみに満ち溢れていて、冒頭の侍女たちの陰口を隠れて聴いている場面には、生まれながらの脆弱性も感じさせた。105分間のオペラで、エレクトラ=ガーキーはほぼ出づっぱりで歌い続けていた印象。うねる金髪はメデューサのようで、哀し気な瞳は驚くほど透き通っている。
メインの女性歌手たち、ガーキー、妹クリソテミス役のシネイド・キャンベル=ウォレス、不貞の母クリテムネストラ役のハンナ・シュヴァルツが全身から放つのは、女の苦痛と苛立ちの悲鳴だ。一番不幸なのは誰か。父親の仇を打つため母とその愛人を殺そうとするエレクトラは地獄の底にいるが、夫を殺し愛人をとったクリテムネストラも罪悪感と恐怖感で息絶え絶えとしている。この役を歌ったハンナ・シュヴァルツは80歳近いベテランだという。メゾ・ソプラノの声が深すぎて、存在感がありすぎて、ガーキーに続いて「凄いものを聴いた」という感慨。ショッキングピンクのドレスを着たクリソテミス役のキャンベル=ウォレスは、お姫様のような恰好をしていながら左腕の内側にはタトゥーが入っている。姉妹は罵り合っているようで、運命共同体としての結束が固く、二人の歌手は物語が進むにつれてどんどん輝きを増し「本物の」エレクトラとクリソテミスに見えてくるのだった。
5人の侍女役は日本が誇る名歌手たちが固めた。全員が主役級の歌手で、金子美香さん、谷口睦美さん、池田香織さん、髙橋絵理さん、田崎尚美さんという豪華な顔ぶれ。「監視の女」は増田のり子さん。一幕オペラだが登場人物が大変多く、髙橋さんと田崎さんはクリテムネストラの側近も兼ねる。エレクトラを罵る侍女たちの中で、一人だけ「高貴なあの方」とエレクトラを庇う侍女役の田崎さんが印象に残った。
女性たちは黒のそれぞれデザインの異なるカクテルドレスを着ていて目にも楽しかったが、男性陣は典型的な「演奏会形式」風のコスチュームで、温度差を感じた。だからといって何を着せるか、ということになると悩むところでもあり、衣装でオペラの迫真性が薄まるのは何とも勿体なかった。
男性歌手では狼狽しつつ滑稽な殺され方をするエギスト役のフランク・ファン・アーケン、オレスト役のジェームス・ストキンソンがいい演技をしていた。演奏会形式では「死んだ弟が生きていた。それこそが自分」という状況が唐突にも見えたが、細部に関しては音楽のカタルシスがすべてを覆っていた。
ノットと東響は歌手たちに遠慮する気配もなく、大音響で嵐のオーケストラを鳴らす。ガーキーは決して音の波に飲み込まれず、特権的な声量でエレクトラの怒りを歌い尽くしていたのが圧巻だった。芸術的にかくあるべき演奏とはどんなものなのか、評論家によっては評価がさまざまだろう。
自分は「女が非常によく描けているオペラで、そのことを知悉している指揮」だと思った。オペラが截然としていないのは、この作品の内容が、フレームを破壊してくるような女たちの情念であり、情欲であり、欲求不満だからで、そんなものが理路整然としているわけがない。歌手たちはプロで、理知的にスコアを読む。ガーキーの暗譜力は神業で、全部が身体の中に入っているので、もはや彼女自身が作品といっていい水準にある。ハンナ・シュヴァルツも素晴らしいオペラの化身だ。
R・シュトラウスのこの独自の視点、「怖い女が一番可愛い女」という哲学は一貫している。女が少しでも喚いたり泣いたりすると異常者扱いする男性がこの世の大部分を占めると思うと、その器の巨大さは破格といっていいほどだ。悪妻として名高いパウリーネとはこのオペラが完成する14年前にバイロイトで出会って結婚しているが、妻によって達観したという解釈も出来るし、もともと好きなタイプが叫んだり泣いたりしている女性なのかも知れない。
エレクトラが置かれた状況は複雑だ。母が象徴する「月」に、破壊を示す「冥王星」が重なっているようなもので、日常の安息は滅茶滅茶に破壊され、「官能という罠にはまった」母への憎しみと、幸せな結婚をする妹へのジェラシーで、自分自身は狼少女のような異様な風貌になっていくのだ。
ガーキーはそうした役を、オペラごと丸呑みしていて、身体の中に収めていた。ノットが彼女を呼んでくれなければ見られなかった奇跡であり、貴重な宝石のような公演だった。
字幕が大きな助けになったが、心理と情景の描写に脳がついていけず、イメージすることが間に合わなかった箇所がいくつかあった。二日後サントリーホールでも観たかったが、早々に売り切れていたので二度見られた人は幸せ。ガーキーの「独り踊り」の場面と、ラストの息絶えるシーンまで、心臓が止まりそうなハイライトがたくさんあった。暗転後の喝采の大きさに、日本の聴衆もこんなにワイルドな声を上げるようになったか…と軽い驚きを感じた。
エレクトラがいるのは古代か、未来なのか…凄い場所まで連れていかれた川崎の夜。