小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×ジョナサン・ノット『エレクトラ』演奏会形式(5/12)

2023-05-15 12:51:40 | オペラ
公演前から話題沸騰だった東響とノットの『エレクトラ』(演奏会形式)のミューザ川崎での初日を鑑賞。R・シュトラウスの『エレクトラ』はずっと「よくわからない」オペラだった。昔、輸入盤でCDを買ったが音源だけ聴いてもちんぷんかんぷんで、音質も悪かったのでそのまま放置していた。(同時に買ったのはストラヴィンスキーの『オイディプス王』だったが、こちらも途中で挫折)
『サロメ』から3年後の作。素材としては似ているが、『エレクトラ』の実演からはそれ以上の過激さが感じられた。『サロメ』のほうが演劇的な筆致が明解で『エレクトラ』はもっとカオス的。声とオーケストラが大きくうねりながら星雲のような巨大な模様を創り出している。台本(ホフマンスタール)はテキストの一節一節が過激で情報量過多という印象。作曲家のほうでも論理的な演劇を見せるというよりも、宇宙の動力ともいうべき「女」の強度を女性歌手たちによって表し、血で血を洗うような音のアクションペインティングを展開していく。演出はシリーズ前作の『サロメ』に続いてサー・トーマス・アレンが監修。

標題役のソプラノ、クリスティーン・ガーキーが只者ではなかった。グラミー賞を何度も受賞し、デトロイト・オペラ副芸術監督も務めるガーキーは、『エレクトラ』を得意とする稀代のスーパー・ソプラノ。そのガーキーが歌うエレクトラは、つむじ風のようなパワーに溢れた女性で、身体がバラバラになるような怒りと悲しみに満ち溢れていて、冒頭の侍女たちの陰口を隠れて聴いている場面には、生まれながらの脆弱性も感じさせた。105分間のオペラで、エレクトラ=ガーキーはほぼ出づっぱりで歌い続けていた印象。うねる金髪はメデューサのようで、哀し気な瞳は驚くほど透き通っている。
メインの女性歌手たち、ガーキー、妹クリソテミス役のシネイド・キャンベル=ウォレス、不貞の母クリテムネストラ役のハンナ・シュヴァルツが全身から放つのは、女の苦痛と苛立ちの悲鳴だ。一番不幸なのは誰か。父親の仇を打つため母とその愛人を殺そうとするエレクトラは地獄の底にいるが、夫を殺し愛人をとったクリテムネストラも罪悪感と恐怖感で息絶え絶えとしている。この役を歌ったハンナ・シュヴァルツは80歳近いベテランだという。メゾ・ソプラノの声が深すぎて、存在感がありすぎて、ガーキーに続いて「凄いものを聴いた」という感慨。ショッキングピンクのドレスを着たクリソテミス役のキャンベル=ウォレスは、お姫様のような恰好をしていながら左腕の内側にはタトゥーが入っている。姉妹は罵り合っているようで、運命共同体としての結束が固く、二人の歌手は物語が進むにつれてどんどん輝きを増し「本物の」エレクトラとクリソテミスに見えてくるのだった。

5人の侍女役は日本が誇る名歌手たちが固めた。全員が主役級の歌手で、金子美香さん、谷口睦美さん、池田香織さん、髙橋絵理さん、田崎尚美さんという豪華な顔ぶれ。「監視の女」は増田のり子さん。一幕オペラだが登場人物が大変多く、髙橋さんと田崎さんはクリテムネストラの側近も兼ねる。エレクトラを罵る侍女たちの中で、一人だけ「高貴なあの方」とエレクトラを庇う侍女役の田崎さんが印象に残った。
女性たちは黒のそれぞれデザインの異なるカクテルドレスを着ていて目にも楽しかったが、男性陣は典型的な「演奏会形式」風のコスチュームで、温度差を感じた。だからといって何を着せるか、ということになると悩むところでもあり、衣装でオペラの迫真性が薄まるのは何とも勿体なかった。
男性歌手では狼狽しつつ滑稽な殺され方をするエギスト役のフランク・ファン・アーケン、オレスト役のジェームス・ストキンソンがいい演技をしていた。演奏会形式では「死んだ弟が生きていた。それこそが自分」という状況が唐突にも見えたが、細部に関しては音楽のカタルシスがすべてを覆っていた。

ノットと東響は歌手たちに遠慮する気配もなく、大音響で嵐のオーケストラを鳴らす。ガーキーは決して音の波に飲み込まれず、特権的な声量でエレクトラの怒りを歌い尽くしていたのが圧巻だった。芸術的にかくあるべき演奏とはどんなものなのか、評論家によっては評価がさまざまだろう。
自分は「女が非常によく描けているオペラで、そのことを知悉している指揮」だと思った。オペラが截然としていないのは、この作品の内容が、フレームを破壊してくるような女たちの情念であり、情欲であり、欲求不満だからで、そんなものが理路整然としているわけがない。歌手たちはプロで、理知的にスコアを読む。ガーキーの暗譜力は神業で、全部が身体の中に入っているので、もはや彼女自身が作品といっていい水準にある。ハンナ・シュヴァルツも素晴らしいオペラの化身だ。
R・シュトラウスのこの独自の視点、「怖い女が一番可愛い女」という哲学は一貫している。女が少しでも喚いたり泣いたりすると異常者扱いする男性がこの世の大部分を占めると思うと、その器の巨大さは破格といっていいほどだ。悪妻として名高いパウリーネとはこのオペラが完成する14年前にバイロイトで出会って結婚しているが、妻によって達観したという解釈も出来るし、もともと好きなタイプが叫んだり泣いたりしている女性なのかも知れない。
エレクトラが置かれた状況は複雑だ。母が象徴する「月」に、破壊を示す「冥王星」が重なっているようなもので、日常の安息は滅茶滅茶に破壊され、「官能という罠にはまった」母への憎しみと、幸せな結婚をする妹へのジェラシーで、自分自身は狼少女のような異様な風貌になっていくのだ。
ガーキーはそうした役を、オペラごと丸呑みしていて、身体の中に収めていた。ノットが彼女を呼んでくれなければ見られなかった奇跡であり、貴重な宝石のような公演だった。

字幕が大きな助けになったが、心理と情景の描写に脳がついていけず、イメージすることが間に合わなかった箇所がいくつかあった。二日後サントリーホールでも観たかったが、早々に売り切れていたので二度見られた人は幸せ。ガーキーの「独り踊り」の場面と、ラストの息絶えるシーンまで、心臓が止まりそうなハイライトがたくさんあった。暗転後の喝采の大きさに、日本の聴衆もこんなにワイルドな声を上げるようになったか…と軽い驚きを感じた。
エレクトラがいるのは古代か、未来なのか…凄い場所まで連れていかれた川崎の夜。






東京・春・音楽祭『トスカ』(演奏会形式)

2023-04-16 11:43:01 | オペラ
東京・春・音楽祭2023の豪華なオペラ・シリーズ、ムーティ『仮面舞踏会』、ヤノフスキ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に続いて、バス・バリトンの大スター、ブリン・ターフェルが登場する『トスカ』が上演された。指揮はフレデリック・シャスラン。オーケストラは読響。

『仮面舞踏会』では春祭オーケストラ、『マイスタージンガー』ではN響、ブリン・ターフェルのソロコンサートでは東響、『ドイツ・レクイエム』では都響と、今年も在京オーケストラのオールスター合戦が繰り広げられたが、ラストの読響も流石だった。『トスカ』のもう一人の主役はオーケストラだと思う。プッチーニのオーケストレーションは水に溶かした絵具のように舞台に登場する人間の心理を映し出し、二つの色や三つの色が溶け合って、次々と新しい色彩を浮かび上がらせる。ピットではなく、舞台上で『トスカ』のオケが始まる音を聴けたことが、今更ながら衝撃的だった。脱獄したアンジェロッティの狼狽が長閑な堂守の登場へと続いていく。オケは登場人物の影であり、オーラなのだ。

アンジェロッティ甲斐栄次郎さんの素晴らしい声、堂守の志村文彦さんのベテランの歌唱に初っ端から恍惚とした。志村さんの堂守は世界一だと思う。演奏会形式なのが勿体ないほど、お芝居もしたくてうずうずしているのではないかと思われた。堂守は演出によっては過度に喜劇的に描かれることもあるが、声楽的にはシリアスで、本当にうまくなくては納得できない。プッチーニは堂守を重要な役として描いていて、オーケストラの緩急を作るときのインスピレーションにしている。個人的にもこの役が大好きだ。

カヴァラドッシは急遽代役として歌うことになったイタリア出身のテノール、イヴァン・マグリ。色男風のプロフィール写真とずいぶん違うルックスで、イブ・サンローランのような大きな眼鏡をかけている。経歴ではカラフ、ラダメス、カヴァラドッシは得意役のはずなのだが、『トスカ』はしばらく歌っていなかったのか彼だけ譜面台つきだった。声は大変立派で「妙なる調和」では大喝采が巻き起こった。

トスカのクラッシミア・ストヤノヴァは流石の大貫禄で、カヴァラドッシは恐縮しながら相手をしていたようにも見えたが、ディーバはお構いなしのマイペースでヒロインを演じていく。
「いよいよ」のスカルピア登場では、客席も大いに湧いた。先日のコンサートでも絶好調だったブリン・ターフェルが、空間を埋め尽くすような存在感で悪役の演技をする。バス・バリトンはこんな役も出来るんだぞ、いいだろう、と言わんばかりで嬉々としていたのが最高だった。『テ・デウム』では合唱も増え、ブリンの素晴らしい声が悪徳の栄えを朗々と歌い上げて、プッチーニの名作オペラを祝福した。ブリンの百面相も見ごたえがあった。

『トスカ』は確かにひどい話だが、この内容でなければ作れなかった音楽で、演劇と音楽の融合としてのある種の究極の姿だと思う。2幕のシャルネーゼ宮での拷問場面は、何度聞いても凄い緊張感で、ソプラノは何度も叫ばなければならない。それを望んでいるのは相手役のバス・バリトンで、女と男の決死のバトルが繰り広げられる。スカルピアは最初は余裕の表情だが、トスカがパニックに陥っていく姿に興奮して、どんどん「ただの男」になっていく。「お前はとうとう俺のもの!」というときのピーヒョロロという管楽器は、ワーグナーのパロディかなとも思うが、あれは発情した男性が(心理的に)パンツ一枚になったときの表現で、その丸腰の一瞬の隙をついて、トスカはナイフで刺す。
 殺人シーンは暗示的で、実際に二人の歌手がからむことはなかったが、ベテラン歌手たちによるハイライトはハイカロリーで豪華だった。

三幕冒頭の牧童は制服姿の少女が歌ったが、真剣に準備してきたのだろう。クレジットに個人名はないが、この牧童役に感謝したい。確実にこなすために大人の歌手が歌うことが多いが、若い人の純真な声で歌ってこその表現というものがある。
カヴァラドッシのマグリは結局最後まで譜面をともなっていたが、美声で声量もあり、もっと聴いてみたいと思わせてくれた。サンローラン風の眼鏡をとるとまた違った印象で、メイクと衣装つきだとさらに本物らしくなるはずだ。

指揮者のシャスランはよく知らない人だったが、「ピアニストで作家」でもあるそうで、とても興味をひかれる。ドラマ作りが秀逸で、歌手を引き立てる音楽作りをする。轟音の場面も音が混濁せず、読響のデラックスで知的なサウンドが冴えていた。劇場での経験が豊富な指揮者なのだろう。演奏会形式では、毎回指揮者の背中にも目がついているのだろうと思ってしまうが『トスカ』でも達人の芸に恐縮した。

三幕には登場しないスカルピアだが、この上演ではスカルピアが主役だった。音楽もある意味、そのように書かれているのかも知れない。ブリン・ターフェルは数日前のコンサートでもイヤーゴやメフィストフェレやメッキメッサーなどの悪役をたくさん歌ったが、「闇」というものがオペラでは必須で、物語を動かす支点となっていることを熟知している。ブリン・ターフェルが全幕もののオペラで来日する機会がまたあることを願うが、今年の春祭は奇跡のキャスティングで、後々にまで記憶に残る上演となった。
16日にも公演が行われる。













東京二期会『トゥーランドット』

2023-02-28 03:04:19 | オペラ
二期会創立70周年記念公演『トゥーランドット』(ジュネーヴ大劇場との共同制作)の初日と楽日を鑑賞。エンディングは比較的上演機会の少ないベリオ補筆版で、指揮者はエル・システマ出身のディエゴ・マテウス。オケは新日本フィル。演出はイングリッシュ・ナショナル・オペラ支配人ダニエル・クレーマー。ステージ・デザイン、ライトアートにチームラボアーキテクツ。

開演前からホールに立ち込めたスモークが一種異様な緊張感を掻き立てていた。幕が開くと、合唱とともにダンサーたちの狂気に満ちた声とドタドタという足音が舞台に飛び交う。舞台となる中国の古代都市は悪徳の栄えで、残酷趣味のトゥーランドットの「さかしまさ」が民全体に感染している。パゾリーニ的な退廃感が蔓延していて、姫の問いに答えられなかったペルシアの王子が、黒い羽根をつけたマッチョな憲兵(?)たちから衣類をむしられ、髪を削がれ、辱めを受ける。紫禁城はソドムの市のようだ。ペルシアの王子は、字幕にならって首を斬られるのかと思いきや、股間に咲く花房を切り取られ、そこから血が溢れる。頭の着いた死体は兵士たちによって運ばれるが、その瞬間から兵士たちの股間にも同じような花飾りがつけられているのだ。

これは凄い演出だと思った。兵士たちは愚かしくも誇らしげにミモザやガーベラや藤や薔薇の花を股間にぶら下げ、狼藉の限りを尽くす。と同時に、先ほどまで残酷な姫を罵っていたカラフは、「なんと美しい!」と求婚の決意をする。彼の股間にも(象徴的に)花が芽生えたのだ。カラフはペルシアの王子と正反対のマッチョな風貌で、弁髪のような独特のヘアスタイル。初日には樋口達哉さんが、楽日には城宏憲さんが見事なタタールの王子を演じた。

シリアスな王子の決意を遮るように、宦官のピン・パン・ポンが説得の歌を歌い始めるのだが、彼らは完全にコミカルな道化で、ピエロのメイクアップでストリップをしたり(歌手たちは体当たりの見事な演技)、女装じみた衣装でクネクネ踊ったりする。股間には他の男子のように花がついておらず、裾をめくって性器をもがれた跡のようなものを見せ、そこに木の枝や角や巨大なきのこをつけて遊ぶ(首斬り人のマンダリンの股間も同様に描かれる)。恋に狂ったカラフを説得できるのは、ピン・パン・ポンには性器がないからで、彼らは欲情もしなければ恋もしないが故に一生安全なのだ。ピン・パン・ポンはエリートで冷血漢だから女性を求めないのではなく、男根がないから欲情しないのである。

リューは舞台の上半分を占める大きな箱型の不透明な(わずかに人影が見える)幕の中にいて、修道女たちの一人としてカラフとやりとりをする。ティムールの「リューはわしのために物乞いまでしてくれた」という歌詞と矛盾なく感じられるのは、リューの善意が高次元のもので、肉体を超えた天使のような波動で寄り添っていたからだろう。ティムールはリューの高次元の善意に護られてここまでたどり着いた。ティムールとカラフの父子の再会で、お互い殴る蹴るの激しい動きを見せていたが、ここは最後まで謎であった。

リューは「お聴きください、王子様」のアリアでは地上に降りて姿を見せて歌うが、それ以外の場面ではほとんど地上におらず、修道女アンジェリカのように尼のような群衆とともに上空にいる。初日は竹田倫子さん、楽日は谷原めぐみさんで鑑賞したが、このリューの描き方は全く新しいものだと思った。

チームラボアーキテクツの美術、ライティングのアートは美しく、観客を魅了していた。ホールの天井までいっぱいに使い、空間はプラネタリウムのようになり、オペラでこのようなことが可能になるのは素晴らしいと感動した。驚きは二回目にはやや薄れてしまったが、演出とよく合っていた。ヴィジュアル面はすべてが革命的で、衣裳には最後まで度肝を抜かれた。トゥーランドットの老いた父である皇帝アルトゥムは、中国風というより日本風に見える翁の着物を着ているのだが、股間にはドライフラワーのような砂色の花が付けられている。この花を見て「そうなのか」と泣きそうになった。

トゥーランドットは歌手にとって過酷な役で、「この宮殿で」のアリアから休まずに三つの問いをパワフルに歌わなければならない。田崎尚美さんは待ち望まれたトゥーランドットで、可愛さもあり、声量も素晴らしく、存在そのものに引き込まれるような巨大な魅力があった。三つの問いの三つ目を歌う頃には、既にカラフの勝利を望んでいる。のちの歌詞にもそのことが打ち明けられているのだから、これは正しい演出である。樋口達哉さんは特にこの場面で、勇壮で華やかだった。三つ目の問いが正解した瞬間、光アートも最大限に派手になった。

少女合唱はロングヘアに白いノースリーブのドレスを着ており、カラフの名を知りたい民たちの拷問にかけられるときのリューも同じヘアスタイルで同じドレスを着ている。天井から吊る下げられたガラスの鳥籠のような箱の中で「氷のような姫君の心も」を歌わなくてはならないので、足元がゆらゆらしていて歌いづらかったはず。それでも、この演出にも強力な意味が感じられた。リューは奴隷の恰好をしておらず、誰からも直接触れられず、カラフへの愛を歌って高い場所で死ぬ。そのあとにトゥーランドットは「私は地にはいない。魂は天上に」と悔し紛れに歌うのだが、それは彼女ではなく、まさにリューのことなのだ。カラフにとって女奴隷リューの愛は崇高すぎて、逆に触れられないものであった…という逆説である。

この演出は凄すぎるのではないか? 歌手が空間のどこにいて、どんな衣裳をつけているかで、すべてのことが語られてしまう。「あなたが冷たい女性だなんて嘘だ」とカラフがトゥーランドットの鎧のような黒いマントを脱がせると、さっき死んだばかりのリューと同じドレスを着ている。ピン・パン・ポンが歌った「女は足が二本、股がひとつ、皆同じ」という歌詞の通りの崇高な事実(?)が明らかになるのだ。

ベリオ補筆版は何度も聴いたアルファーノ補筆版より洗練されていて、プッチーニのスケッチを同じように参照していると思われる箇所もあれば、思い切り現代音楽に近づけて接ぎ木している箇所もあった。プッチーニが聴いたら、ベリオ版のほうを気に入るのではないか。合唱の霊力、神秘性、トゥーランドットの強靭さがよく聴こえ、物語が無限の宇宙に向かって広がっていく気配が感じられた。二期会合唱団の表現力が卓越しており、冒頭の拷問を見守る北京の民から、最後の皇帝の崩御の場面まで見事な声だった。宗教音楽家の家系に生まれたプッチーニのDNAを強く感じさせた。

チームラボのライティングは、最後まで粘り強く、男性器の暗示がたくさん登場した演出で、最後の光アートは子宮孔のような小さな穴の文様を創り出し、それは一瞬だけハートの形になった。トスカニーニは「マエストロはここまで書きました」と「リューの死」で指揮棒を置いたが、プッチーニはそこまでオペラをナルシスティックなものとして捉えていなかったと思う。カラフとトゥーランドットは結ばれなければならない。千年前に先祖のロウ・リン姫を凌辱した蛮族についていた花房は、カラフにもぶら下がっていて、花々はトゥーランドットの中にも咲き乱れる。万華鏡のような背景にピンクの花々が次々と咲いていくラストに、演出家の「幹が太い」才能を感じた。

4日連続でゴージャスなプッチーニのオーケストラを響かせた新日本フィルは見事だった。楽日も一切疲れを見せず、すべてのパートがハイセンスで注意深く、最高のパフォーマンスだった。ディエゴ・マテウスの才能にも注目。指揮者はこの演出に特別思うところがあったのだろう。カーテンコールで大変幸福そうな表情だった。




Arts Mix『リゴレット』飛行船シアター(11/23)

2022-11-25 14:09:41 | オペラ
オペラ歌手の藤井麻美さんと宮地江奈さんが主宰するArts Mixの旗揚げ公演『リゴレット』を上野の飛行船シアター(旧石橋メモリアルホール)で鑑賞。寒い雨の降る休日のマチネ公演だったが、オペラは熱かった。当初演奏会形式として上演される予定だったのが、演出と映像がついた本格的な公演となり、合唱がカットされる代わりに「語り」が入ることになった。二期会の宮本亞門版『蝶々夫人』で成長したピンカートンの息子役(黙役)を演じていた俳優の牧田哲也さんが、リゴレットとマントヴァに恨みを抱くチェプラーノ伯爵を日本語の台詞つきで演じた。

この公演の4日前に、通し稽古の見学とキャストインタビューを行ったが、若手歌手全員がとても穏やかで、これからこんなえぐい話(!)を演じるのか…とオペラの世界との断絶感を感じたほどだった。タイトルロールの小林啓倫さんは37歳で、フルでリゴレットを演じるのはこれが初めてだという。幕が開けてみると…凄いリゴレットだった。メイクで37歳が73歳くらいに見えるのも驚いたが、苦痛に満ちた道化の役を陰影のある歌唱で歌いきっている。ヴェルディ・バリトンの極意が感じられた。マントヴァ公爵の宮里直樹さんは稽古のときから素晴らしい声量で、泉のようにこんこんと湧きだす美声に「これは奇跡か」と驚いたが、本番のホールでも空間の狭さを感じるほどだった。あの声は世界の宝だろう。マルッロ倍田大生さんもメイクで別人になっていて、歌唱も稽古の倍増しに良くなっていた。スパラフチーレ松中哲平さんは、ただ立っているだけで迫力満点で(すでに100人は殺した後のように、という演出が入っていたとか)、有名な低音もさりげなく決めてみせる。Ⅰ幕から歌手たちのエンジン全開で、非の打ちどころがなかった。今の日本の若手歌手のクオリティは凄いことになっている。

ジルダの宮地江奈さんはこの役に全身全霊を捧げていると思った。『慕わしき御名』では、コロラトゥーラ・ソプラノの技巧と表現力をフルに使って、究極のアリアを歌いきっていた。こうした感想は大袈裟ではなく、何度もこのオペラを観て初めて感じたことだった。恩師のアンドレア・ロストがこの役を歌うのに憧れ、ハンガリー国立歌劇場の来日公演で日本に滞在していたロストから指導を受けたという。
 ジルダという役については、演出の奥村啓吾さんから「純粋で、母のような大きな愛を持つ女性」という言葉が返ってきた。ジルダはずっと被害者だと思っていたから、奥村さんの深い考えに興味を持った。ピアニストの篠宮久徳さんも「このオペラは『リゴレット』というタイトルだけど、自分にとっては『ジルダ』というオペラなんです。ジルダは愛そのもの」と語ってくれた。

その意味が、この上演でわかりすぎて泣けた。マントヴァ公爵は、目の前にいる女性なら誰でも夢中になる。身分の高い女性でも、殺し屋の妹でも、道化の娘でも。生まれつき幸運を約束された存在で、彼の厄をよけるために道化のリゴレットがいる。リゴレットはマントヴァの厄(神からの嫉妬)の身代わりになる役で生きていられるので、マントヴァを呪うことは鏡に映った自分を呪うことになる。

待て…この演出を観るまで、自分は『リゴレット』を全く理解していなかった。マントヴァとジルダは、どこまで行っても平行線で、矛盾がありすぎて結ばれない。身分の違いもあるけれど、本質的には男と女ということの深すぎる溝で、男は勝手に生きているけど、女は愛する人を母のように守りたい。ジルダはマントヴァが口説いているマッダレーナにさえ「彼女も彼を愛している…」と同情する。女の辛さをわかっている。男を憎みたいが、憎めない。馬鹿な男なのに愛しか感じられない。そうしたときに、現実で起こる葛藤を全部省略して、オペラでは「愛してもどうしようもない男を、母のように包み込んで身代わりになって死ぬ」のである。

マントヴァ公爵は、か弱い女性が母親のような巨大な愛で自分の命を救ってくれたのに、そんなことも知らずに「女心の歌」みたいなあほな歌を歌っている。そんなのどう考えたっておかしいのだが、生まれつき幸運なのも彼の宿命で、リゴレットが道化として生きるしかなかったのも、ジルダが死ぬしかなかったのも宿命なのだ。ヴェルディは、オペラの中にそうした運命論者としての残酷な冷静さを持ち込む。

マントヴァはジルダの犠牲など気づかずに、その後の人生も女たらしとして楽しく生きるのかも知れない。宮里さんが素晴らしい演技で、ピンカートンの何倍も罪深い公爵を余裕で演じていた。しかし、そんな不平等も神は天からすべて観ている。神と同じ視点はどこにあるのか。客席だ。『リゴレット』を観ている人全員が、神の視点を共有しているのだ。

歌手たちは素晴らしく、イタリア語も美しく、ディクションについて詳しく言える耳を持っていない私でも、素晴らしいことは理解できた。イタリア語を日常会話にしているからイタリアのオペラ歌手だけが凄いなんてことはない。イタリア語とはいわば運転免許みたいなもので、日本人も免許をとっている人はイタリアオペラを完璧に歌える。小林さん、宮里さん、宮地さん、藤井さん、倍田さんはイタリア人だってこんなふうに歌えるかどうかわからない、というくらいの歌を歌っていた。

稽古では歌手たちと全く違うことをやっているように見えた牧田さんが、本番では完全に歌手たちに溶け込んでいた。演出の奥村さんのカンの良さが並外れている。牧田さんの純粋さが嬉しかった。マッダレーナとジョヴァンナの二役を演じた藤井麻美さんの、演劇的な幅の凄さにも驚愕した。藤井さんのマッダレーナの妖艶さを見て、カルメンも行けるのではないかと思った。魅力の塊だった。

藤井さんと宮地さんがこのプロジェクトを立ち上げたことを思うと、オペラも予想外の進化を遂げているのではないかと思ってしまう。公演は大成功だった。字幕の大きさも、衣装もメイクも(メイクさんの仕事に感動)最高だった。
稽古場でのインタビューで、若い歌手の皆さんがあまりに和気あいあいとしているので「もはや、歌手が意地悪だったり、映画『ブラックスワン』のように演じ手に汚さを求める時代は終わったのですね」と余計なことを聞いてしまった。
お稽古のときから全体をしっかり見まわしていた藤井さんが「歌手は自分が楽器なので、誰かに対して嫌なことを言ってしまったら、必ず声の色にあらわれるんです」と答えてくれて「ああそうなんだ」と納得した。それくらい、若い世代は新しい心で芸事に取り組んでいる。
オペラが人生に教えてくれることはあまりに深い。稽古場で演出助手の方に温かい言葉をかけていた奥村さんの姿も忘れられない。すべての瞬間が目からウロコの『リゴレット』だった。


(稽古場で)



















東京二期会『蝶々夫人』(9/8)

2022-09-16 06:49:43 | オペラ
9月上旬、新国立劇場で4回行われた二期会『蝶々夫人』の初日を鑑賞した。二期会の公演を新国で観るのは、上野の東京文化会館が改装中だった2013年の『ホフマン物語』以来。2022年の蝶々さんは東京二期会・新国立劇場・日本オペラ振興会(藤原歌劇団)の三団体共催公演で、合唱も三団体からの歌手が乗った。指揮はアンドレア・バッティストーニ、東京フィル。

二期会の蝶々さんは2019年に宮本亞門演出が上演され、それ以前の栗山昌良演出の装置はなくなってしまったと思っていたが、きちんと保存されており、和風屏風と枝垂れ桜のセットを久々に観た。バッティストーニは亞門版も振っているが、演出の新しさに注目せずにはいられなかった前回より全体がオーソドックスな分、音楽作りの丁寧さが際立って聞こえた。バッティストーニが新国のピットで振るのは初めてのことだと思う。

『蝶々夫人』は外側から聴くか、内側から聴くかで話が違ってくる。日本に対する由々しい誤解と偏見、浅薄なエキゾティシズム、あるいは男尊女卑という批判は、プッチーニの「中に入れば」全く聞こえないノイズになる。たくさんのマエストロが新国や東京文化のピットでプッチーニの愛を聴かせてくれた。三幕の美しいトリオが貴重なものだと教えてくれたのは、女性の指揮者ケリー・リン・ウィルソンで、あのトリオの美しさに気づいたとき、今までまるきり蝶々さんを「聴いていなかった」自分にはっとさせられた。「よくある話で、男が女に惚れて、男友達が『やめろよ、彼女は本気だぞ』と諭す…」と語ってくれたドナート・レンツェッティは私にとっての恩人で、「プッチーニは泣きながらこのオペラを書いたに違いない」というマエストロの言葉を何度も思い出す。

バッティストーニは巨大な愛の指揮者で、プッチーニが日本の小さくて美しいものを描写するために描いた音を慈しむように鳴らし、蝶々さんが登場する前のピンカートンとシャープレスのやり取りから情感に溢れていた。まだ舞台に現れていない蝶々さんは本当に愛らしい、妖精のような声をしている…それをピンカートンは胸を高鳴らせて歌うのだが、「amore o grillo…」から蝶々さん登場までのピンカートンとシャープレスのやり取りは示唆に富み、ピンカートンが老いぼれ扱いするシャープレスは、すでに悲劇を予感させる旋律を歌う。「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」を足して割ったら出てくるようなメロディで、プッチーニの天才性が思わず書いてしまった「双方の気持ちを汲んだ」節だ。

ピンカートン宮里直樹さんは輝かしく完璧な歌唱で、シャープレス今井俊輔さんとの声量のバランスも良かった。今井さんのシャープレスは思慮深く、三幕では神々しささえ感じられたが、オペラのバリトンの役の中でこれほどいい役はないのではないか。ピンカートンの軽率さをたしなめる音楽さえ美しく、すべての人々に対して愛情深い。『蝶々夫人』は内側から見ようとすれば、たくさんの愛に溢れている。スズキの蝶々さんを思いやる愛、シャープレスの人間愛、息子はただそこにいるだけで愛の象徴で、子役が今回も素晴らしい存在感だった。

不幸を呼び起こすのは、ピンカートンと蝶々さんの間の一番強い愛で、この愛が雷に打たれた塔のように真っ二つになるのを、穏やかな人々は見ていられない。主役の二人の愛だけが、悪い愛で、熾烈なエロティシズムが渦巻いている。一幕の愛の二重唱は強烈な愛の陶酔感で、コロナ演出もあって歌手たちはある程度の距離をとっているが、オペラに書かれた性愛のデュエットだと思う。悪魔の前で、裸の男女が鎖でつながれている「悪魔」のタロットカードを思い出した。ピンカートンだけが悪者ではなく、蝶々さんも「悪い娘」なのであり、それに激怒するのがボンゾで、「慎ましく穏やかな」神のもとで暮らしている日本の宗教を捨て、勝手に改宗する蝶々さんは、異端者でありあばずれ娘なのだ。

トスカは信心深く、ミミはお祈りを欠かさないように、プッチーニのヒロインはつねに十字架を手放さない。蝶々さんまでもが十字架を握りしめるのだから、プッチーニの好みのタイプには一貫性がある。蝶々さんは、恋愛のために日本の神仏を捨てたのだから、孤立して当然で、それに怒りを表すボンゾは「エキセントリックな坊主」であるはずがない。バッティストーニはボンゾ登場のときに、多くの指揮者が大きな音で驚かせるところを、遠くから神が雲に乗ってやってくるような表現にした。バッティストーニが見せた日本の宗教や文化に対しての敬愛の念だ。ボンゾ斉木健詞さんの歌唱も、宗教的な「長」の厳かさがあった。

蝶々さんの大村博美さんはすべてが自然で、「15歳から18歳までの役を演じる」という作られた若さを見せるのではなく、内側からの愛の歌を聴かせてくれた。愛の炎が点火した段階で、15歳であってもひとりの女なのだ。愛の二重唱は対等な男と女の歌で、男だけが支配的になって女をものにしようとしているのではなく、エロティックな炎に包まれた罪深い二人のデュエットなのだ。蝶々さんが大尽のヤマドリを拒絶してピンカートンを待つのは、彼とまた愛し合いたいからで、心身ともにヤマドリが入り込む隙はない。
「ある晴れた日に」は、女の官能の記憶が蘇る、ただひとりの男を求める歌で、立派なハイライトなんかじゃない、その瞬間の溢れ出るものを表した大村さんは素晴らしかった。

スズキ山下牧子さんは献身的で、花の二重唱も見事だった。「可哀そうな蝶々さん…」をオウム返しに歌い、蝶々さんが眠りについた後、シャープレスとピンカートンとケイトがやってくる場面は毎回凄いと思う。あの場面で、悲劇を最初に受け入れるスズキの存在が何度見ても素晴らしいのだ。

東フィルのプッチーニは世界で一番なのではないかと思う。海外のオペラハウスの引っ越し公演などでわざわざ上演される演目ではないから、他と比べる機会もないのだが、東フィルは一番多く蝶々さんを上演しているし、イタリアの指揮者が驚くような「イタリアの音」も持っている。コンマスの依田さんが鳴らすソロのフレーズは、どこか20世紀初頭の録音のようなノスタルジーを感じさせ、甘く切ない気分にさせられた。オペラのことが少しずつ分かりかけてきた自分にとって、バッティストーニから学ぶことはあまりに多く、こうした「受難の」名作に関して、いかに内側の真実を引き出せるかが重要なのだと思った。どんな奇抜な設定であれ、自分がどのように愛を感じているかという内面の対話なしには、オペラは振ることができない。マエストロの大きな愛に呆然としてしまった。