小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

二期会『パルジファル』(7/13)

2022-07-15 16:37:39 | オペラ
二期会『パルジファル』のプレミエを東京文化会館で鑑賞。宮本亞門演出・フランス国立ラン歌劇場との共同制作。
歌手、合唱、演出、オーケストラすべてが最初から最後まで完璧で、奇跡的な上演だった。不安定な天候のせいで体調が今一つだったこの日、パルジファル全幕を最後まで観られるかどうか不安もあったが、歌と音楽と演劇に全細胞を癒され、涙し、浄化されてホールを後にした。この酷い現実に平気なふりをして生きていかなければならない現代人は、すべて今回の『パルジファル』を観るべきだと思う。

亞門さんの最近のオペラ演出では定番の、登場人物の分身としての黙役が登場し、パルジファルの(さらに若い)少年時代を演じる子役がたくさんのことを演じる。7/13のパルジファルは福井敬さんで、福井さんも10代の少年のように若く見えた。ワーグナーを歌うとは、威嚇的に張り上げて歌うことではなく、演劇的な内容をともなった歌唱を聴かせることだと福井さんからまたしても学ぶ。美術館を思わせる装置、たくさんのキリストやマグダラのマリアの絵画、類人猿の大きな標本など、最初は「これらは何を示しているの?」と違和感があったものの、すぐに心が納得した。パルジファルは、どこかの秘密結社のやばいオペラなんかではない。頭で理解しようとすればするほど、本筋から外れる。心で感じるべき楽劇なのだと思った。

アムフォルタス黒田博さんは、10年前の二期会の上演でも同役で、10年前にもこんな痛々しい「存在」がオペラの世界にはあるのかと驚愕したが、亞門演出ではいよいよ殉教者かいまわの際の重病人のようで、元々美しい面立ちの方なので、本物のキリストのように見えた。先日の「フィルスタッフ」はヴェルディの最後の作だが、「パルジファル」はワーグナーの最後の作。想像界の最終的な姿を演じることが出来るすごい歌手であり役者であると再認識した。そこにいるだけで、深い。歌手としての器が果てしなく大きいのだ。

クンドリ田崎尚美さんは、こんなに美しいクンドリがいるのだろうかと世界中の歌劇場に自慢したくなるような輝かしさで、重く沈痛な役を観たことのない妖艶な姿で歌った。以前演じられたゼンタやエリーザベトの面影をクンドリに投影してしまうという、不思議な見方をしてしまったが、田崎さんがクンドリを演じることは、運命にセットされていたことだと思う。ものすごく「選ばれて」舞台の上にいた。クンドリという存在は謎であり、自然霊の一部のようでもあり、クリングゾルの傀儡として登場するが、アムフォルタスの分身のようでもある。
クンドリがパルジファルに母を思い出せつつ、誘惑に失敗する場面は、観ていてかつてないほど滂沱の涙に溢れた。「お前に逃げ道はない。すべての道を封じてやる」というクンドリの歌詞が、呪詛というより自己崩壊すれすれの嘆きに聴こえたのは衝撃的だった。

現代の子供のようなパルジファルの姿と、タロットカードの図案のような古代の人々との装束が不思議と自然に共存していた。
3幕はもう、目を開けていることが出来なかった。荒地のような姿で現れたパルジファルの足をクンドリが洗う。アロマの精油を垂らすような仕草。歌手のマドンナが「本名のミドルネームのヴェロニクは、キリストの足を洗った女性の名前」と語っていたことを思い出した。救世主として選ばれたパルジファルの背後には、ゴリラがいる。黙ってゴリラがそこにいるだけで、涙腺が決壊した。何が嘘で何が茶番なのか、ゴリラがすべてを語っていて、このゴリラは天に指をさして洗礼者ヨハネのポーズまでとる。着ぐるみの中の人にお礼を言いたくなった。

クンドリは宙に浮かんで消えていくのだが、この場面は演出の離れ業で、ワーグナーのスコアをただ崇拝しているだけでは出てこない。
亞門さんは、ワーグナーを友達のように感じ、生きてオペラに関係している人たちの痛みや苦しみと、ワーグナーの生きた苦しみをつなげてループにする。オペラは人間の痛みで、愛の痛みで、その傷口を押し広げることで価値が生まれる。演出の正解とは、自分の愛を信じることにのみよって出せるものではないのだろうか。知識や知恵の力比べを超えて、巨大な愛は立ち現れる。

福井さん、田崎さん、黒田さん、全員が「これは果たして演じているということなのだろうか」と思えるほど、破壊的で衝撃的な歌声を聴かせる箇所があり、それぞれが抱えている人生の痛みのようなものを感じた。自分は奇跡を見ているのだ。大きく映し出される地球の映像に飲み込まれるように、彼らと同じ星にいる一体感に包まれた。
ワーグナーの音楽が、これほどまでに魅力的であることも驚きで、一秒一秒の響きに溺れそうなほど陶酔的だった。
ヴァイグレと読響は、夏至の前に二回の素晴らしいコンサートを聴かせ、ドヴォルザークの『交響曲第8番』の最終楽章では、愛のような恋のような祝福の響きに「夏の夜の夢のようだ」と思わずにはいられなかった。歌劇場のマスターであるヴァイグレは、自分の評価や建前なんかどうでもいい、オペラとシンフォニーの愛を伝えることこそが指揮者の使命だと知っている。
パルジファルが宇宙的な愛のオペラであり、未来に向かって開かれている物語だと知った貴重な初日だった。

グルネマンツ役の加藤宏隆さんの実力を改めて知る上演でもあった。バス・バリトンでいくつもの上演を拝見してきたが、貴重な屋台骨であり、根強い存在感がある。『パルジファル』の濃い登場人物の中で、渋い優しさを発揮されていて、初日組のアンサンブルを完璧なものにしていたと思う。16日にも同キャストで公演が行われる。




東京二期会 プッチーニ『エドガール』(セミ・ステージ形式)

2022-04-25 01:08:44 | オペラ
プッチーニのオペラ『エドガール』(セミ・ステージ形式)をオーチャードホールで観る。二期会と指揮者のアンドレア・バッティストーニは、ヴェルディ『ナブッコ』以来共演を重ねているが、ヴェルディはバッティストーニと東フィル、プッチーニはルスティオーニと都響、という暗黙のローテーション(?)が、前回の『蝶々夫人』から変わってきていて、ヴェルディ担当(!)だったバッティストーニも、プッチーニを続けて振っている。2012年頃、バッティストーニに「本当はどっちの作曲家が好きなの?」と聞いたことがあり「プッチーニは昔から大好きで、ヴェルディは学びながら好きになってきている」という返事だった。今回の『エドガール』は指揮する姿から、心底プッチーニが好きなのだと実感した。

2008年にプッチーニのメモリアルイヤー(生誕150周年)を記念してリリースされたBOXでも、『エドガール』は音源だけではよく分からないところが多かった。出世作『マノン・レスコー』の4年前、30歳のときに完成している。フォンターナの台本はミュッセの詩劇をもとにしたもので、あらすじを読んでもわかりづらい。プッチーニは何度も改訂を繰り返し、3幕版が決定稿となったが、2008年にはトリノ王立歌劇場で初演4幕版がホセ・クーラ主演で初めて上演されている。イタリアでも上演機会が少ないので、日本ではバッティストーニとの縁がなければ聴くチャンスがなかったかも知れない。

始まってすぐ、先日の春祭のモランディ指揮・読響で聴いたばかりの『トゥーランドット』を思い出した。二つの作品の間には36年の開きがあるが、合唱とオーケストラの響きには既に『トゥーランドット』のすべての要素があり、音楽的には劣ったところがなかった。もしかしたら、プッチーニは遺作で先祖帰りをしたのかも知れない。『エドガール』は14世紀のフランドルが舞台で、既に異国の物語に素材を得ようとするプッチーニの姿勢が反映されている。ドニゼッティ=ヴェルディの流れを汲もうとする視点は一切なく、むしろ音楽の流れはビゼーを強く思い出させた。妖艶なメゾ・ソプラノが活躍するところなど、『カルメン』を意識しているのではないか。聖歌を思わせる荘厳な合唱から、突然エキゾティックなメゾの歌が始まる強烈さからも、『カルメン』を思い出さずにはいられなかった。『エドガール』の完成は1888年で、『カルメン』の初演が1875年。

誘惑に弱く、情動的に不安定な主人公エドガールを福井敬さんが演じた。酔いどれの役として登場するが、福井さんの誠実なオーラは隠しようもなく、それが表面的ではないエドガールの「魂」を表しているように感じられた。エドガールの清楚な恋人フィデーリアを髙橋絵理さんが演じ、プッチーニのライバルだったレオンカヴァッロの『道化師』で高橋さんが素晴らしいネッダを歌ったときから、10年が経っていることに気づき、光陰矢の如しと思った。どこまでも澄み切った美声で、全身から清らかな光を放っている。プッチーニは生涯、フィデーリアのような女性を理想としていたのではないか。一方で、実生活では清楚な小間使いの娘を自殺に追い込んだエルヴィーラを妻にしている。『エドガール』では、ムーア人の娘・ティグラーナが妖艶な悪女として登場し、中島郁子さんが圧倒的な歌唱と演技で魅了してきた。とても強い女性の役で、ティグラーナの音楽には平和を乱すような性格が感じられた。

東フィルはバッティストーニの歌心とプッチーニへの愛を汲み取り、粘り強くハイセンスな熱演を繰り広げた。エドガールは愛の矛先がコロコロ変わり、兵役に出て戦死したかと思うと実は生きていたりして、台本から一つらなりのドラマを感じようとするのは難しいところが多かったが、未完成なドラマの内側で、作曲家のマグマのようなパッションは猛威を揮っていた。バッティストーニも作曲家だから、プッチーニのフラストレーションがよくわかるのだ。『エドガール』の初演は、スカラ座で三回で打ち切りになった。以後プッチーニが台本のクオリティにこだわり、結果的に極端な寡作になってしまったのはこのオペラが原因だと推測する。『マノン・レスコー』はすべてがうまくいった。台本が良かったからだ(それでも極端な場面転換は多い)。

二期会合唱団とTOKYO FM合唱団が素晴らしかった。プッチーニは合唱に多くを語らせ、彼の家系が18世紀から続く宗教音楽家の一族であることを思い出させた。オルガンも効果的に使われ、見事なミサ曲に聴こえるくだりが多くあった。連綿と続く家系のDNAの突然変異として、ただ一人のオペラ作曲家となったプッチーニには、血族の宿命のままに宗教音楽の作曲家になる道もあったのだ。イタリアのカトリック権力に対する疑念は、『エドガール』での少年合唱団と同じ装束の合唱隊が登場する『トスカ』ではっきりと描かれている。

福井さんをはじめ歌手たちには、もしかしたらこの先上演機会がないかも知れない『エドガール』という作品への責任感もあったかも知れない。ティグラーナを愛するフランク役の清水勇麿さん、フィデーリアの父グァルティエーロ役の北川辰彦さんも真摯な歌唱と演技で舞台を特別なものにしていた。バッティストーニは貴重な「大使」であり、東フィルは見事な友情で応えた。物語のカタルシスは、リニアな時間軸の先にあるものではなく、あらゆる瞬間に、唐突に何度も訪れた。

演出面では、少年合唱がエドガールの(空の)棺にウクライナ国旗色の旗を掲げる場面があり、その「祈り」の部分はスライド映像とともに現在の世界の異様な状況を反映していた。歌手たちが演技をする空間には余裕があり、オーケストラはだいぶ後ろに引っ込んでいたように見えた。段差がなくオケは後方に退いているので、音響のバランスを取るのに試行錯誤したのではないか。
プッチーニに駄作なし…と強く思う。コンチェルタンテ形式での上演は冒険的な試みであり、貴重な時間を経験した。作曲家の宗教的な魂が、オペラという「毒」に飛び込んでいく、変身の瞬間の奇跡が詰め込まれていた。


1幕の冒頭の歌詞に現れる「アーモンドの木」








































東京・春・音楽祭 『トゥーランドット』(4/15)

2022-04-17 11:29:40 | オペラ
3/18の感動的なムーティ指揮・東京春祭オーケストラによるオープニングから約1か月、終盤に入ったハルサイでまた凄い名演を聴いた。ピエール・ジョルジョ・モランディ指揮によるプッチーニ『トゥーランドット』(演奏会形式)は、2022年の音楽祭のハイライトのひとつで、読響と東京オペラシンガーズの実力を鮮やかに聴かせる奇跡的な上演となった。
冒頭の合唱から、ブッチーニが遺作で描こうとした巨大なオペラのパノラマスコープが突然現れ、残酷なトゥーランドット姫のもとで求婚者を処刑する首切り人たちのクレイジーな狂気が溢れ出した。オーケストラも異常なほどの恐怖を掻き立て、打楽器群の衝撃が凄まじい。指揮者はある意味、この冒頭場面をジャーナリスティックに表現していると思った。ある異常な統治下においては、凶器を持った者たちはこのようにおかしな狂騒状態に入ってしまう。もちろん、演奏家たちは譜面通りのことをやっている。設定はおとぎ話の世界だが、オペラはこのように聴く側の心に衝撃を与えてくる。現実と演劇の境界は薄い。

カラフのステファノ・ラ・コッラの声は英雄的で、大変な努力をともなって出すタイプの声ではなく、こういう凄い声は天性のものに違いないと咄嗟に思った。カラフやラダメスを歌うために生まれてきた人で、実際2015年にはシャイー指揮のカラフ役でスカラデビューを飾っている。現代にはこういう貴重な歌手がいるのだ…と驚きながら聴いた。ティムール役のシム・インスンも温かみのある声で、全員が譜面なしで演技していた。リューのセレーネ・ゼネッティの清純で繊細な「お聞きください、王子様」は、アドレナリンが充溢していた空気を一瞬で変え、太陽の光で反射する宝石のように輝いた。多くの聴衆は3幕でのリューの最期を知っているので胸を打たれたのではないかと思う。原作にはない役で、プッチーニ家の小間使いドーリア・マンフレーディがモデルという説がある。プッチーニの妻エルヴィーラが不倫を疑い、ドーリアを中傷したため彼女は自殺を図り、解剖の結果「処女であった」というエピソードは有名だ。プッチーニはドーリアの遺族に多額の慰謝料を支払った。

なかなか登場しないトゥーランドットは、2幕でようやく現れる。ブルーのアイシャドウで凄味を出したリカルダ・メルベートが、尋常でない「この宮殿で…」を歌った。先祖のロウ・リン姫の悲劇を語り、異国の男どもに辱められた姫の屈辱を怨念を込めて歌いつづるのだが、指先まで爬虫類のようにわななわなさせて怒りの高音を出すメルベートは、悪霊そのものを表現していた。トゥーランドットは凄い役なのだ…と改めて思った。千年前の先祖の怨念が乗り移っている存在なので、この世のものではない(彼女自身もそう歌う)。恐ろしいトゥーランドットから、愛情深いメルベートが透けて見えた。先日新国で観た『ばらの騎士』の、前回の上演では元帥夫人を演じていた歌手だ。トゥーランドットの「異形さ」が強力であればあるほど、カラフの勇敢さとリューの可憐さが引き立つ。そして当然のように、氷の姫君の心境は某国の暴君を連想させた。

コミカルな宦官のピン・パン・ポンは、萩原潤さん(ピン)、児玉和弘さん(パン)、糸賀修平さん(ポン)が歌った。それぞれカラフルな違う色の蝶ネクタイをつけて、息の合った演技を見せてくれた。バリトンがテノールより高い音域を歌ったり面白い工夫が凝らされていて、彼らが故郷を懐かしむ歌はどこかもの悲しさも漂う。毎回ピン・パン・ポンの「トゥーランドットなど裸になればただの肉」という歌詞には痛く共鳴する。原作では4人の道化的な存在をプッチーニは3人にしたが、音楽的にも正解だった。

ピエール・ジョルジョ・モランディはプッチーニのスペシャリストだが、過去に来日したことはあっただろうか? 親しい名前に感じられたのは、この指揮者の録音を聴いていたからだと思う。スカラ座で10年間オーボエ奏者として活動し、その間にムーティやパターネのアシスタント指揮者になったという。スカラ座のピットの「中の人」として、色々なスター歌手や色々な指揮を迎え、劇場で起こる様々なトラブルや困難も経験してきたと思う。指揮をする背中から、苦労を厭わず働いてきた人なのだろうなと想像した。音楽はドラマティックで、読響からは底力のあるサウンドが次々と溢れ出したが、『トゥーランドット』特有のグロテスクな不協和音や、現代音楽に踏み込んだ解釈は強調されなかった。グロテスクな音を強調した『トゥーランドット』を聴いた後では、しばらく鬱が続くという経験を過去にしたが、指揮者はどのようにでも物語を作ることが出来る。モランディの「節度」が有難かった。

3幕の緊張感も素晴らしい。『リューの死』までを書いたプッチーニは、癌で亡くなる直前まで創造力は衰えていなかったのだ。『マノン・レスコー』から綺羅星のごとくはじまるヒット作の、さまざまな名旋律の破片が聴こえたが、さらに新しい冒険に踏み出しているプッチーニの若々しさが遺作には漲っていて、60代の早すぎる死がなければ、どんなオペラを書いていたのか惜しく感じられた。「リューの死」以降のアルファーノによる補筆部分は、勢いで聴いてしまうこともあるが、モランディは正直すぎるのか、補筆部分はやや通俗的で薄い音楽に聴こえないこともなかった。ベリオによる補筆版はあまりに「不思議すぎ」なので、物語としてのカタルシスを感じるにはこちらを選ぶしかない。ラストでは、メルベートが一瞬のうちに悪霊を取り払い、可愛い姫になっていたのにびっくりした。

ムーティ、ヤノフスキ、モランディと名指揮者の演奏を聴き、見事なキャスティングの歌手たちを堪能した18年目の音楽祭はいつも以上に有難かった。コロナや戦争で来日できなかった演奏家もいて、全体をコーディネートしている音楽祭側の苦労は想像を絶する。ハルサイが行われるのは一年のうち1か月だが、運営は365日続いていて、春に咲く桜の花のように普段は「見えない」のだ。感極まる公演を多く聴いた今年、東京・春・音楽祭が行われることの幸福を噛み締め、感謝の念を新たにした。音楽祭の「親心」に甘えて、幸せの上塗りを満喫するばかりの自分だった。

名指揮者モランディと読響による『トゥーランドット』は4/17にも上演される。
読響によるプッチーニ・シリーズは来年以降も予定されている。





新国立劇場『椿姫』(3/16)

2022-03-20 14:51:16 | オペラ
新国立劇場で『椿姫』の3回目の公演を鑑賞。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、3月16日は朝から不穏なニュースが報道されていた。とうとうキエフで爆撃が起こり、キエフ市民に外出禁止令が出された。連日ハリコフの惨状も映像で流され、2月にはじまったこの戦争が長期化するのではないかという不安が立ち込めていた。日本で流されるニュースのすべてを信じていいものか分からないこともあるし、誰に対して憤ったらいいのかかも分からない。分かるのは、ウクライナから他国への移民の数が爆発的に増え、子供たちや高齢者や妊婦までが危険に晒されているということ。核の脅威がチラつかされているということ。どちらも21世紀のこととは思えない。

劇場と現実はどれほど関係があるのか。先日の新国の記者向けのシーズン発表会でもデリケートな対話が行われた。レパートリー作品である『椿姫』の2022年の初日は3月11日で、指揮者のアンドリー・ユルケヴィチが来日したのは2月後半。一週間の待期期間中に戦争が起こった。ユルケヴィチはウクライナ出身で、爆撃を受けたリビウにも家があるという。待期期間中はほぼ外界との接触がないため、指揮者は孤独の中でこの一連の出来事を受け止めていた。

そうした場合、指揮者は待期期間中に帰国してもよいのかどうか、前例がないので分からない。ユルケヴィチは帰国せず、日本でオペラを上演するという選択をした。初日はどんな雰囲気だったのだろう? 16日の公演は、幕が開いた瞬間「お葬式のようだ」と思った。演出そのものがヴィオレッタのモデルになったデュプレシの追悼のような形で始まるのだが、その次のヴィオレッタの館での全員の宴が、ひどく沈んだ雰囲気だった。

ソリストも合唱もオーケストラも言葉にならない不安を抱えている。反射的に「Darkest Hour」という単語が浮かんだ。1940年を舞台にしたゲイリー・オールドマン主演のチャーチルの伝記映画の原題だが、防空壕の中で役者たちがあれやこれやの芝居をするチャーチル映画の背景と、現代が急につながったような感覚だった。若きテノール、マッテオ・デソーレもたくさんの迷いを抱えてアルフレートを演じていて、「乾杯の歌」の歌唱にも思い切りがなく、日本人の脇役の歌手たちも腹に力が入っていない。「無理もないのだ」と思った。ロシアやウクライナに友達がいる人もいるだろう。こんなときに「プロだからちゃんとやれ」なんて言えない。

ヴィオレッタ役の中村恵理さんはこの公演で座長的な役を引き受けていたように見えた。一幕ラストの長く粘り強いヴィオレッタのアリアは「みんな負けるな! この公演を成功させるのだ」という歌に聴こえた。音程もディクションも演技もパーフェクトで、いくつもの境地を乗り越えてきた世界的な日本人歌手の精神が伝わってきた。長丁場のアリアの前まで、指揮者とオーケストラ(東響)も探りながらの合奏だったが、あのシーンで何かが変わった。

ブサール演出では一幕と二幕の間に休憩はなく、照明が落された中で舞台の転換が行われる。耐えかねたような声が舞台の奥から男性の聴こえた。あのとき「No War!」と悲し気な声を上げたのはテノールだと思う。ロシアのテレビの生放送でプラカードを上げた女性のニュースも報道された後で、「あっ」と思った。あの声について、誰とも話していないが、「No More War!」の叫びだったに違いないと認識している。
 二幕ではテノールが蘇った。一幕のソプラノの熱唱がカンフル剤になってか、デソーレは持って生まれた美声を揮い、強靭な高音が圧倒的だった。もともと素晴らしい歌手なのだろう。そしてとても優しい心を持っている。
 ジェルモンのゲジム・ミシュケタは82年生まれの若い歌手だが、貫禄のある姿で、中村恵理さんとは共演経験も多いという。ジェルモンは正義をふりかざしてヴィオレッタを説得し、息子の心を改めようとするが、その演技に既に罪悪感のようなものが感じられた。「力で組み伏せようとしてすまない」という心情を込めた歌で、こんな辛そうな表情のジェルモンは初めて見た。「プロヴァンスの海と陸」が、別の意味の曲に聴こえた。

休憩の後、二幕二場のフローラの夜会の場面から後半がはじまった。後半は前半ほど暗い雰囲気はなく、やっと『椿姫』を観ているという感覚が湧いてきた。新国立劇場合唱団も生気のある歌を聴かせ、オーケストラにも安定感が出てきている。デソーレは正義感の塊のような直情的な声を出し、まったくの演技であったとしても胸を打つものだった。コロナ演出で歌手同士の距離が悩ましい箇所もあったが、歌の説得力がカバーしていた。

三幕のヴィオレッタのいまわの際の演技は鬼気迫るものがあった。色々な歌手がこの場面を歌うのを聴いてきたが、中村さんはこの役から究極のものを引き出し、オペラの奥深い存在意義を見せてくれた。歌手というのは究極的に、こういう時代の、こういう状況のために存在している。芸術は生命そのものであり、道徳性そのもので、オペラは「人間とは本来素晴らしいものだ」ということを何度でも思い出させてくれるアートだ。悪魔崇拝や暴力は、オペラには要らない。シンプルに物語を追うだけの上演でも感動的だったと思うが、この日の音楽には何重もの意味があった。

カーテンコールでは、普段は口数もあまり多くなく物静かだというマエストロが、穏やかな笑顔で歓声に応えていた。胸元からウクライナカラーのポケットチーフが少しだけ見えた。劇場は世界と繋がっている。これほど「世界全体」と近い場所はないのではないか。このチームで既に4回の公演を終えているが、3月21日の千秋楽公演ではさらに素晴らしいものが生まれるような気がする。







ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』サントリーホール(10/7)

2021-10-08 12:12:44 | オペラ

ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』初日を鑑賞。葡萄畑スタイルのコンサートホールを、オーケストラと歌手が一緒に乗る「目からウロコ」の舞台仕立てで上演するサントリーホールの名プロジェクトも、5年ぶりの開催となる。指揮は、過去にホール・オペラでダ・ポンテ三部作を振り、愉快なチェンバロも弾いた二コラ・ルイゾッティ。オーケストラは東京交響楽団。合唱はサントリーホール・オペラ・アカデミー&新国立劇場合唱団。

マエストロ・ルイゾッティのお姿を見るのも久しぶり。エレガントなたたずまいは変わらず、前奏曲からヒロインの嗚咽のような切ない弦の震えを聴かせた。歌が始まる前から、すべての歌があるといった感じの前奏曲で、これを安易に赤ワインや食べ物に譬えてはいけないが、一滴一滴が神の奇蹟であるような貴重なシャトーワインの味わいを思い出した。

舞台はP席の中央部分をメインに、オケの上段にオペラ空間を作る形になっていたが、映像や美術をうまく使っていたことで、ほとんど物理的な「狭さ」や「小ささ」は感じなかった。トラヴィアータの本質は、スペクタクルではないことを実感。ヴィオレッタのズザンナ・マルコヴァは菫色の豪奢なドレスをまとい、女神のオーラで、背中から見てもどのアングルから見ても完璧に美しい。バレリーナのロパートキナに少し似ている。アルフレードは実力派テノール フランチェスコ・デムーロ。初めて聴いたときから10年くらい経っているが、声質は輝かしくキープされていた。

マルコヴァは最初はためらいがちな気配があったが、1幕の途中からどんどん思い切りが良くなっていく。ルイゾッティの指揮は奔放に思えるほど伸縮自在で、予想外のアクセントもつけられ、歌手に「なんでもやっていいんだよ」という寛いだ心地を与える。オーケストラの音楽にオペラの豊かな素地があるので、歌手は余計な力を出す必要がなかった。マルコヴァはどんどん凄みと迫力を増し、1幕のラストの大変な高音も見事に表現した。あの音を歌わないヴィオレッタは結構いるので、貴重な声を聴いた思い。

2幕は長丁場だが、見応えがあった。ジェルモンのアルトゥール・ルチンスキーが登場して空気感がさっと変わった。声量があり、バリトンの声のキャラクターが破壊的(?)で、総じて威圧的な表現。ヴィオレッタが「私は女で、ここは私の家です」と警戒を示すのも無理はない乱入者ぶりだった。ジェルモンは息子と娼婦の仲を壊しに来たのであって、それ以外のことは考えていない。「ヴィオレッタはジェルモンに説得され、去ることを決めた」という物語ではなく、生殺与奪の暴君がやってきたので、組み伏せられたという物語になった。これは果たして演出なのか歌手の意図なのか…絶体絶命の境地にあって「娘のように抱きしめてください…」とヴィオレッタが抱き着いてきたとき、ジェルモンは「汚らわしい」と言わんばかりに、自分の上着の襟を整えるのである。ルチンスキーがエンリーコを演じたペレチャッコの「ルチア」(新国立劇場)を思い出した。冷酷で強引なバリトンをやらせたら、右に出る者はない演技力だ。

面白かったのは、ヴィオレッタが去った後のアルフレートとジェルモンの掛け合いで「プロヴァンス…」が、強い父と弱い息子の出口のないデュエットに聴こえた。強い父は「世間というものは…」と世界全体を代弁するかのように息子を諭すのだが、こんなに威圧的では説得というより、おしおきである。「私はこういう父に育てられなかったから、能天気に育ってしまったのか…」とつくづく自分の人生を反省した。

ルチンスキーのキャラクター作りは、オペラそのものを鮮烈に、立体的にした。演劇人として桁外れの天才で、こんな人は見たことがない。父と息子のやりとりの後、アルフレートはヴィオレッタ宛てのパリからの招待状を見つけて「そうはさせないぞ!」と激昂して走り去るのだが、まさにその短気な様子がジェルモンそっくりなのだ。サロンでヴィオレッタに札束を投げつける姿も、父の気性を表現している。それを高みから見ていたジェルモンが「お前は本当にわしの息子か。わしの片鱗もない」というのは、腸がよじれるほど凄い皮肉なのだ。札束を女性に投げる失礼で強引な男とは、ジェルモンそのものなのである。

マルコヴァのヴィオレッタは3幕でも胸かきむしられるようで、声楽的にも素晴らしいが、それよりも歌のある演劇における「女優の力」が並外れていた。作曲家の心の中に入り込んでいるような姿で、大きな無念と悔しさを抱えながらも、わが身の混濁した感情が祈りによって浄化されることを祈っている。一幕から優しく女主人を支えていた小間使いのアンニーナを、オペラアカデミー卒業生のソプラノ三戸はるなさんが演じた。三戸さんに照明が当たらないときも、ずっと彼女を見ていたが、どの瞬間もアンニーナでいたのは素晴らしいことだった。

ヴェルディのオペラのほとんどは、男女の愛の挫折を描いている。『ラ・トラヴィアータ』もそうだが、『アイーダ』も『ドン・カルロ』も『仮面舞踏会』も『オテロ』も『リゴレット』も皆、主役たちは愛することで不名誉な存在になり、貧しくなり、友や信頼や肉親の愛を失って、孤独に死んでいくのである。『ファルスタッフ』でさえ、愛は嘲笑され、洗濯籠に入れられて川に投げ込まれる。こうしたオペラを、執拗に書き続けた根拠に、ヴェルディの中で「この愛という不条理をどうしたらいいか」という苦悩がつねにあったからだと推測する。

愛が自分を不名誉にする…パヴァロッティのドキュメンタリー映画を思い出した。パヴァロッティがヴェルディをよく歌えたのは、同じ運命を背負っていたからなのではないか。世界を魅了し、通り過がりの人にさえ楽しい気分にさせ、舞台ではあれほど愛を軽やかに表現できる人が、愛のために苦悩し社会から叩かれた。

ヴェルディが素晴らしいオペラを書いたのも、パヴァロッティが素晴らしい歌を歌ったのも、愛に苦悩していたからで、現実では正論を言うことが出来ない窮地に追い込まれて、芸術の次元で凄い達成を見せる。

ラストシーン。蒼白な顔で死に絶えたマルコヴァは、「歌う女優」という言葉では軽すぎるほど、ヴェルディの魂を理解していたように見えた。カーテンコールでは、ルイゾッティがマルコヴァに薔薇の花を一輪捧げ、東響がハッピーバースデーを奏でた。10月7日はマルコヴァの誕生日だったのだ。10月10日のヴェルディの誕生日と、10月12日のサントリーホールの「誕生日」を思い出しながら、この夜のトラヴィアータにもたらされた祝福について考えた。主要歌手、指揮者の至芸は世界有数のオペラハウス鑑賞後の幸福感を凌駕するほど。10月9日に二回目の公演が行われる。