小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『チェネレントラ』(10/1)

2021-10-03 10:58:18 | オペラ

新国『チェネレントラ』(新制作)の初日を鑑賞。主役アンジェリーナの脇園彩さんのスケールの大きな歌唱と演技、王子役(ドン・ラミーロ)のルネ・バルベラの素晴らしい高音、脇を支えるダンディーニ役の上江隼人さん、継父ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリ、姉たちクロリンダ高橋薫子さん、ティーズべ齊藤純子さん、王子の教育係にして哲学者のアリドーロ、ガブリエーレ・サゴーナと歌手たちの演技が素晴らしい。19時スタートで一幕だけで2時間近いボリュームだったが、フルパワーで完走したキャスト陣のスタミナには驚いた。城谷正博マエストロと東京フィルによる機微に溢れたサウンドも、色とりどりの歌を引き立てた。

序曲からたくさんのことが始まる。チェネレントラの物語は劇中劇なのか、映画監督やカメラクルーがことの次第を見守っている。『ラ・ラ・ランド』のセットを思い出したが、ノスタルジックな雰囲気はハリウッドではなくチネチッタで、フェリーニの87年の映画『インテルビスタ』が脳裏に浮かんだ。姉たちの花のような衣裳も、どこかフェリーニ風である。

華美に着飾った姉たちは、家を訪れた物乞いを足蹴にするが、チェネレントラは彼を温かく迎えてもてなす。物乞いの正体は変装した王子の教育係アリドーロなのだが、粟國版では大物映画監督で、王子ドン・ラミーロは映画プロデューサーである。アリドーロは、王妃にふさわしい娘を「キャスティングしに」やってきた。その設定に「やられた!」と思った。神の視線をもつアリドーロは、カメラごしに世界を公平に見て、誰に幸運をもたらすかを決める。「審判」の役なのだ。

脇園彩さんの深みのある声が、ロッシーニの大変な旋律をごく自然に歌い、それは語る台詞のように劇場に響いた。ステージの上での脇園さんのオーラは、ちょっと特別なのではないかと思った。感情豊かで愛嬌があり、悲劇的な設定だが確実にハッピーエンドが待っていると、登場の瞬間から確信させる。ロッシーニという作曲家についても、脇園さんが歌手として様々なことを翻訳してくれた。作曲家にまつわる喜劇的なエピソードに惑わされて、シリアスな感情が奪われてい人だという誤解があるかも知れない。ロッシーニはベルカントオペラの軽やかな「文体」をまといつつ、人間の世界の真・善・美を心底信じていた。そこには、宗教的でさえある信念も感じられた。

王子ドン・ラミーロのバルベラは『セビリアの理髪師』(2020年)でもアルマヴィーヴァ伯爵として登場したが、超高音のアリアも含め、快調な初日の演技で、「替え玉」(?)役のダンディーニの上江隼人さんと背格好が双子のようだったのも良かった。上江さんのロッシーニは新鮮で、歌手の新しい可能性を感じさせた。ドン・ラミーロが目も眩むようなアリアを歌った後、チェロとコントラバスが飄々と「♪♪♪♪」と八分音符を刻むのは、拍子抜けして面白い。ドニゼッティも時々そういうことをやる。東フィルのエスプリが心地よかった。

「チェネレントラ」は童話やアニメのシンデレラと違って、かぼちゃの馬車も魔法使いのおばあさんも登場しない。アンジェリーナの魔法の瞬間は、まばゆいドレスがすべてを担っていた。蜜蜂の女王のようなイエローと黒のクチュールドレスが、有無を言わさぬヒロインの勝利を証明した。アレッサンドロ・チャンマルーギによるデザインの衣装で変身した瞬間、脇園さんは静かな威厳を讃える王妃になった。

チェネレントラはオペラの中で、戦わない。このことが、後からじわじわきた。自立した女性として何かに異議申し立ているわけでも、剣をとって鎧を着るわけでもない。「舞踏会に行きたい」と願うだけである。小さな小さな願いである。

それを、ディレクターズ・チェアに座った映画監督アリドーロは見逃さない。監視カメラが行き渡って、犯罪がすぐに見つかる現代の「視線」にも通じるが、もっと詩的にとらえたほうがいいだろう。幸せになる娘は、キャスティングされる。ありのままで、正直な心を失わなければそれでいいのだ。

粟國さんの演出家としての「文体」に畏れ入った。セットの愛らしさ、カラフルな色彩感、人物描写、すべてが気に入った。初めてオペラを見る人にもぜひ勧めたいと思ったとき、後方の客席の会話というのは、よく聞こえてくる。ツウの観客らしき人々の「序曲で色々芝居をつけるのは、少し前までの流行りなんだよ。歌を聞かせればいいオペラなんだから、色々うるさいことをしなくてもいいんだよ」という会話が聴こえた。なるほど。とても批評家的な会話で、自分はそのような文体を拒絶したので、批評家的な威厳というものが身につかなかった。

文体とは、何度も心が通る道であり、愛に導かれた形式であり、人類の未来のために光をまとおうとする意志ではないか…ロッシーニは、ずぶずぶの悲劇としても語れる設定を、楽しく華やかな文体で描いた。チェンバロの根本卓也さんはゴルトベルク変奏曲のアリアを、時々短調で奏でた。長調と短調は表裏一体だ。

大切なことは、一枚布をめくったところに隠れている。脇園さんは、ロッシーニの心とともに生きていた。人間なら悲しみも怒りもあるが、芸術家は文体という魔法を使って真実を表現する。演出の善意、歌手の誠意、指揮者とオーケストラのエスプリが詰まった名演だった。宝石箱のような『チェネレントラ』は、あと5回公演が行われる。

 

 

 


二期会『ルル』

2021-08-30 14:01:55 | オペラ

3幕版の日本初演から18年ぶりの上演となった二期会『ルル』。カロリーネ・グルーバー演出による新制作では2幕版が採用され、日本で「最初から意図された形で」2幕版が上演されるのはこれが初めてのことになるという。2020年上演の予定が、2021年8月に延期となり、会場も上野の東京文化会館から新宿文化センターに変わった。

8月の残暑の厳しい3日間、8/27のBキャストのゲネプロ、8/28のAキャストによる初日、8/29のBキャストによる中日を鑑賞した。感染症対策として、ジャーナリストはゲネプロのみの招待であったが、カロリーネ・グルーバーとマキシム・パスカルというホットな芸術家ふたりが東京にいることに興奮し、本公演は当日券で入場した。ふだんジャーナリストが並ぶ2階席前方はまばらで、初日はS席(2階前方)、二日目はC席(2階席後方)で鑑賞したが、どちらもオーケストラピットの様子がよく見え、指揮台のマキシム・パスカル、指揮台のすぐ前に置かれたハープ、ハープから少し下手寄りに置かれたアップライトピアノ、右半分にずらりと並ぶ管楽器、左半分に並ぶ弦楽器、張り出した舞台下手に設置された打楽器群が壮観だった。オペラのピットであんなに管楽器が多いのは初めて見.るような気がする。オーケストラは東京フィル。

『ルル』は「ルル名手」のマルリース・ペーターセンが主演したMETのロシアアヴァンギャルド風の演出(W・ケントリッジ)が記憶に残っているが、ライヴで観るのは初めてだった。あの愛らしいパトリシア・プティボンが『ルル』のためにヘアヌードになったというニュースには興味があったが、それも観ていない。日本での上演が少ないのは、モラル的に刺激が多すぎる(!)ことと、膨大なドイツ語の台詞も含め体力面でも歌手にとって苛酷だからなのかも知れない。
 実際『ルル』を途中で降板してしまう歌手は少なくない。稽古の段階で自分に合っていない、と断念したということをインタビューで教えてくださったソプラノ歌手が二人いた。名前は出さないが、聴いているほうもどうなっているか分からないほど難解なスコアを肉体を使って表現するのだから無理もないと思う。

Aキャストの森谷真理さん、Bキャストの冨平安希子さんのルルは、どのように準備されたのか、歌手の個性がのびやかに表現された歌唱と演技で、「高水準」などという偉そうな言葉は使いたくないが、世界のどの都市に出しても恥ずかしくないルルだった。二人のルルがそれぞれ完全に別の個性を持っていたことにも興奮した。カロリーネ・グルーバーのルルは宿命の女でも悪女でもなく、旧態的な世界と男たちの欲望を映し出す鏡であり、彼女の魂は無垢で傷つきやすい。最初にゲネで観たとき、冨平さんの繊細で霊的な拡散力をもつ歌唱は、演出家の「新しいルル」のコンセプト通りだと思った。森谷さんのルルは、芯の強い現代的な女性で、あどけなさは共通しているが、自分の身に起こることすべてを肯定している、輪郭のはっきりとした存在だった。森谷さんの元帥夫人や喋々さんパミーナを思い出し、舞台とは「魂」が出る場所だと認識した。

ベルクは一時期音楽ライター(!)としても活動しており、文才があったのでヴェーデキントの原作をもとに台本も自分で書いた。その台詞回しが、慣れないととても難しい。それぞれの登場人物の人間関係と彼らの物語は予習していかなければ理解不可能だし、「ルル」を、暴力的人物が乱出する「三文オペラじみた退廃的な世界」と大雑把に記憶していた(!)自分は、ルルの庇護者で愛人であるシェーン博士がこれほど大きい役だということを認識していなかった。

ゲネでは正直なところ前衛的な音楽についていくのが精一杯で、公演初日には台詞を結構覚えているので歌手たちの精緻な歌唱に感服し、2日目には…演劇的にこれは、とんでもないプロダクションだと思った。日本人歌手によるドイツ語芝居のクオリティが高すぎるし、二幕版での芝居の多さを「日本人歌手たちはどう乗り越えるか」と事前インタビューで危惧していたカロリーネ・グルーバーの予想を、よい意味で裏切る結果になった。Bキャストは特に一日切りの公演だったが、芝居全体の密度が濃厚で「ドイツ人がこの舞台を観たら一体どう思うだろうか」とずっと考えていた。

マキシム・パスカルはオケを煽るということをせず、鳥の羽のような白い手首を動かして、始終空中を飛んでいるような姿だった。大きな音の渦を創り出しているときも、動作はオケを抑制しているように見える。譜面台の上のスコアは巨大で、それをめくるマキシムの動きも舞踏的だった。12音技法で作られたオペラは、時折マーラーのように芳醇にになったり、唐突に訪れるドラマ的な緊張の瞬間には、サイレンやアラームのようなサウンドが鳴り響く。

ルルは両キャストとも確信をもって、暗譜の不安など感じさせないほど演劇的な次元に入り込んでいた。とはいえ、トスカを暗譜するのとルルを暗譜するのとでは意味が違う。ベルクは歌手を苛めるためにオペラを書いたのではないかと思えたほど。予想外のところで、とんでもない高音が求められる。「もうルルじゃない、私は獣」というヒロインの声は確かに鳥獣のように鋭くなるが、それを歌う歌手には超絶的な技術が求められる。ベルクはルルを好きだったのだろうか? 3幕版ではルルは呆気なく切り裂きジャックに殺される。

そう思ったとき、ベルクの若い頃の写真を見つけ、大変な美男子であることに驚いた。有名な肖像画と目元は同じだが、10代20代の頃はさらに天使のようで、俳優のような風貌をしている。フランツ・リストは、16歳のとき死にゆく父親から「女には気を付けるように」という遺言を伝えられた。17歳のベルクは、別荘で働く女中を妊娠させ、ギムナジウムの卒業試験にも失敗して自殺をはかる。ヘッセの「車輪の下」よりひどい。

しかし、美少年を誘惑したのはもしかしたら女の方だったのではないか? と写真を見て思う。ルルはシェーン博士と婚約者(ルルと一歳違い)の結婚をぶち壊すために、博士に婚約破棄の手紙を強引に書かせるが(この演出ではレースのヴェールのような布に書かされる)、10代のベルクも、子供の父親であることを認める書類を無理矢理書かされた。頭の中がこんぐらかってしまう。ルルのように美しいベルクはシェーン博士と同じ屈辱を味わい、生まれた娘にはアルバンにちなんでアルビーネと名付けられた(が早逝した)。

シェーン博士は12歳の花売りのルルを保護し、やがて快楽の対象とし、二人の夫と結婚させ、夫たちは死に、ルルによって妻を毒殺され、結婚を迫られる。ルルがシェーン博士を「私が愛した唯一の人」と呼ぶのは、いわゆるストックホルム症候群なのではないか、とグルーバーは語る。この点は、まだ人間心理のミステリーが残っていると思う。
Bキャストのシェーン博士役の小森輝彦さんの悪役ぶりが凄まじかった。悪役としての発声で、すべてが憎いし調和していないし、もう何もかも破滅すればいいと思っている。登場シーンから最後まで、憎しみに溢れた声で、演技も破壊的だった。

小森さんのオペラ歌手としての究極の演技のひとつに、R・シュトラウスの『ダナエの愛』のユピテル役がある。終盤近くの、自分を愛さないダナエとの哲学的ともいえる長い対話は、ユピテル役の精神性に負うところが大きかった。「芸」と呼ぶことも憚られるほどの凄い次元を見せられたが、シェーン博士の無力、苛立ち、崩壊、といった姿も、決して忘れることの出来ない衝撃があった。

私生児にアルビーヌと名付けたのは誰か知らないが、シェーン博士の息子であるアルヴァは、まぎれもなくベルクが創造した自分の分身であり、原作では画家であるのを作曲家に変更され、ルルの人生をオペラに仕立てたり「踝はグラツィオーソ…」と歌ったりする。アルヴァは乱暴の限りを尽くすルルの周りの男性の中で、唯一優しく、ルルを心から崇拝する。ロマンティックで思い込みの強いアルヴァは、Bキャストの山本耕平さんが心に残った。Aキャストの前川健生さんと、芝居の面で色々異なるのが興味深い。2幕ラストで「そのソファはあなたのお父様が血を流した…」とルルが語り、アルヴァは自己崩壊を起こして倒れ込むのだが、前川さんはソファで倒れ、山本さんはルルが立つ円卓の乗り上げて倒れた。その後「ルル組曲」の後半がオーケストラのみで演奏される間、アルヴァは一ミリも動かないので、どこで倒れ込むかは結構重要なことだったと思う。円卓の上で生贄のようにうずくまる山本さんは、オーケストラを聴きながら何を思っていただろう。

ゲネプロではオペラグラスを忘れたので、一幕の冒頭からルルの内面として舞台に存在するダンサーの中村蓉さんをしっかり観ることが出来ず(前半は特にライティングが暗い)、本公演ではラストまで中村さんの姿を追った。ルルが男たちと激しいやり取りをしているときも、彼女の内面である中村さんは悲し気にうずくまったり、優しい表情で空気のように動いている。ラストのルル組曲の間、歌手のルルとダンサーのルルがお互いに触れ合うシーンはとても美しく、このプロダクションが、過去の「女性から憎まれ忌まわしく思われるルル」とは違う新しいルルの物語を創り出したということを実感させた。ルルとルルによる言葉のない場面でも、森谷さんと冨平さんは違う表情を見せたのが興味深かった。

舞台には「男たちの求めるルル」の表徴として、舞台にはバストが大きく足がほっそりとしたマネキン人形が並べられ、コスチュームも大変エロティックなので、人形でありながらかなり存在感があった。ショーケースのような小部屋に、それぞれの男たちの願望通りの半裸の「ルル人形」が並べられた場面では、演出家の容赦ない辛辣さに笑いそうになった。ルルが殺人の罪で逮捕されるシーンでは、無声映画が流れるのが慣例だが、ここでは映像作家の上田大樹さんが「ルル人形」を効果的にキャスティングした(!)ハイセンスな映像を作り上げていた。「重い」話にも傾きがちなルルが、お洒落でときに「笑い」まで引き出すモダンなオペラに仕上がっていたのは喜ばしい。脇役に至るまで粒ぞろいの歌手、1秒たりとも集中力が切れないオーケストラ、従来的なルル像に大胆なメスを入れた演出と、凝縮されたプロダクション。8/31に最後の公演が行われる。

 

 

 

 


東京二期会『ファルスタッフ』(7/17)

2021-07-17 21:33:04 | オペラ

出演者の一人に感染症の陽性反応が見られたため、初日(7/16)の公演が中止となり、二日目のキャストが実際の初日公演を務めることになった。タイトルロールは黒田博さん、フォード小森輝彦さん、フェントン山本耕平さん、アリーチェ大山亜紀子さん、ナンネッタ全詠玉さん、クイックリー夫人 塩崎めぐみさん、メグ金澤桃子さん、ピストーラ狩野賢一さん。レオナルド・シーニ指揮・東京フィルハーモニー交響楽団。ロラン・ペリー演出はテアトル・レアル、ベルギー王立モネ劇場、フランス国立ボルドー歌劇場との共同制作。ボルドー歌劇場の3月の上演は見送られたため、日本公演がフランスより先になった。

冒頭シーンは、狭くてさびれた英国のパプのような場所から始まる。バルドルフォはロカビリーヘアの若者だ。衣裳の中にたくさん詰め物をしたであろう黒田さんは球体状の大きな身体となって、酔いどれ顔のメイクで、不機嫌にパブの椅子にへばりついている。その様子を見て、何かひどく心が疼いた。黒田さんのファルスタッフは喜劇的というより、もっと違うのものを表しているようで、怒りを込めた鋭い歌唱の一語一句から「俺は男だ!」という厳粛な意志が感じられた。
カロリーネ・グルーバー演出の黒田さんの凄いドン・ジョヴァンニが思い出され、ファルスタッフの中にもドン・ジョヴァンニの面影を見つけた。「小姓だった頃の私は細くて蜃気楼のようで、指輪もすり抜けられた」という歌詞が、今までと別なふうに聴こえる。騎士ファルスタッフはケルビーノのような美少年で、やがてドン・ジョヴァンニとなり、今や時間という哀しみを身体に溜め込んで必死に人生の最後の楽しみを探している。

ファルスタッフが演劇性の強いオペラであるからだろうか。役者の魂の重さということを考えさせられた。黒田さんの魂の質量が、ファルスタッフをただの風船じいさんにさせていない。完璧な見た目のアンブロージョ・マエストリがスカラ座の来日公演でこれを歌ったとき、巨体の歌手はなんと身軽に楽しそうに役をこなすのかとワクワクしたが、黒田さんはそうではなかった。喜劇的な老人の讒言として解釈してきた歌詞が、人間の真実の訴えに思えた。

ロラン・ペリーの演出は冒頭から冴えていたが、ファルスタッフの役作りに関してだけは、演出家の意図通りだったかは分からない。ロラン・ペリーは黒田さんのことをそんなに知らないはずだ。私の方が詳しい。黒田さんのパパゲーノやフィガロ、ドン・ジョヴァンニにスカルピアにシャープレスに、フェレイラ神父や金閣寺の溝口のお父さんまで観てきた。
このファルスタッフを見て悲鳴をあげたくなった。自分が過去に見てきた黒田さんが一斉にフラッシュバックしたからだ。パパゲーノはパパゲーナに会えなくて首吊り自殺を試みるし、アムフォルタスは誘惑に愚弄されてわき腹から血を出し続ける。女たちから嘲笑されるファルスタッフの中に、パパゲーノやアムフォルタスの影を見た。

ベルトラン・ド・ビリーの代役としてピットに入ったレオナルド・シーニの指揮はモダンで精妙だった。イタリア出身の30歳で、パリ・オペラ座へのデビューも控えている新鋭だが、ヴェルディが最後のオペラでいかに新しいことをやろうとしていたかを教えてくれる音楽だった。
マエストロ・ゼッダは「ヴェルディはファルスタッフで偉大なるロッシーニの伝統に回帰した」と語ったが、オケも歌手のパートもロッシーニと似ているようで、そうでもなかった。3幕のはじまりのファルスタッフのぼやきは、極端にオケの音が少ない。アンサンブルが白熱する場面では、歌手もオケも拍をとるのが大変そうだ。ヴェルディは20世紀を肌で感じている。メンデルスゾーンへの敬意と、ワーグナーへの諧謔も感じられる。東フィルはカルメンチームも頑張っているが、二期会のほうも本気でやってる。木管セクションは神がかっていた。

若きシーニにとっても、日本に黒田さんのような歌手が存在するということは衝撃だったのではないか。もちろん、登場人物すべてが素晴らしい。妻を寝取られるかも知れないフォードの焦りは、舞台上に18人の「フォードの分身」を忍者ハットリ君のように登場させるというペリーの演出によって誇張されたが、フォードを演じる小森さんと黒田さんの本気の歌唱の応酬というのは見事だった。老人の成就しない恋を尻目に、思いきり若い愛を謳歌するフェントン(山本耕平さん)とナンネッタ(全詠玉さん)も鮮やか。ウィンザーの陽気な女房たち、アリーチェ大山亜紀子さん、メグ金澤桃子さん、クイックリー塩崎めぐみさんも素晴らしかった。9重唱では、奇跡が起こったかと思った。

これはヴェルディの貴重なアンサンブル・オペラの傑作であるには違いないのだが、オテロやリゴレットやマクベス同様に、ヴェルディ・バリトンの独断場の「英雄」物語で、ファルスタッフ以外の歌手たちは脇役として聴いた。それほどマエストロ黒田の存在感は圧倒的だった。

ファルスタッフはつねに雷神のように怒り狂っている。星の神話の中で、人間の70歳から84歳までを支配するのはウラヌス神で、ウラヌス(天王星)はジュピター(木星)より容赦なく好色な神である。サタン(土星)が支配していた56~69歳までの禁欲と謹厳さを突き破って、人生の終盤で大反乱を起こす。「名誉とはなんだ! 意味がない!」という神がウラヌスなのだ。これはびっくり神でもあり、ホルストが『惑星』書いた「魔術師」でもあり、雷神ドンナーでもある。黒田さんはドンナーも、ファルスタッフに込めていたかも知れない。

ファルスタッフが女たちを追いかけまわすのは、命のカンフル剤が欲しいからで、どんな英雄も身体が朽ちていくときに似たような反乱を起こすのかも知れない。真夜中の公園での逢引シーンでは、いきなり森が動き出した。『マクベス』の「バーナムの森が動いた!」という超常現象を、ペリーはファルスタッフで見せてくれた。この怪奇現象により、隠されていたことすべてが明らかになっていく。ファルスタッフを嘲笑していた人々はフリーザーの中で生きる冷凍人間となり、コケ色のガウンを着たファルスタッフだけが人間の体温を持っている。凍った姿のウィンザーの陽気な女房たちがハンドバッグでファルスタッフをぽこぽこ苛める場面でも、もうどちらがおかしいことをしているのか、歴然としていた。ロラン・ペリーは、ファルスタッフの滑稽な情熱の中に人間性の本質を見出し、貞淑や世間体や保護された立場に安住する人々を、硬直した冷凍人間として描いた。

黒田さんが舞台で見せてくれた頑迷な男、男、男たちがパノラマのように脳裏をめぐり、動いた森と凍った人間たちに囲まれて「みんな、だまされる!」と叫ぶファルスタッフの姿に号泣した。私は変態なのか。最後の10分はもう顔がずぶぬれになってしまった。ずっとだまされてきた。ファルスタッフは喜劇だと思い続けてきたのだ。かといって悲劇というのではないが、大笑いでは済まされない心をえぐるオペラだった。演出家も歌手も、本当に孤独を感じなければ真の表現を掴むことは出来ない。「裸の王様」が反転した見事な物語に、悲劇としてもその逆としても描かれうる「魂の孤独」を考えた。7/18にも上演あり。

 


新国立劇場『カルメン』(新演出)

2021-07-07 18:14:50 | オペラ

新しくなった新国カルメンの二回目の公演。初日には演技のみの出演だったドン・ホセ役の村上敏明さんが無事回復し、本格的なスタートを切った感のある舞台だった。カルメン役のステファニー・ドゥストラックは「ハバネラ」でこそ緊張気味だったが、「セギディーリャ」から調子をどんどん上げていき、ゲネプロのときよりかなり悪女っぽい仕上がりになっていた。ミカエラ砂川涼子さんは「神々しい」の一言に尽きる。スニガ妻屋秀和さんも毎回ハズレのない見事な演技で、フラスキータ森谷真理さん、メルセデス金子美香さんも細かい演技を魅惑的にこなしながら最高の歌を披露した。

オリエ演出に目が慣れたこともあり、この本公演ではピットの大野和士オペラ芸術監督の魔性の音楽作りに改めて惹きつけられた。どのフレーズにも意外性と驚きがあり、テンポは篭絡的で、オーケストラそのものが巨大な「悪の華」を表現していた。東フィルの変幻自在ぶりは本当に凄い。音楽が次から次へと新しい期待を呼び、新鮮で豊かな響きが泉のように湧き出してくる。こんなものを書いたビゼーは、天才を通り越して一種の超人ではないかと思った。ひとつの動機から音楽が無際限に発展していく成り行きが、尋常ではない。当たり前のように聴いていた「カルメン」のすべての曲が、全く当たり前には聞こえなかった。

フランス語の台詞も入るが、2011年にボローニャ歌劇場の来日公演で見た版よりはストレートな芝居は少ないという印象。レチタティーヴォ版とオペラ・コミック版の中間のような版だろうか。このオペラが失敗作とされ、3か月後にビゼーが死んでしまったことを考えると、そんな不条理があっていいものかと思う。大野さんはリヨン歌劇場との『ホフマン物語』のときもオッフェンバックの無念の魂と交信し、アンコールで作曲家に変装して出て来るほどの憑依ぶりだったが、ビゼーに関してもそれくらいの入れ込みようだったと思う。

欠点らしい欠点などなかった鵜山仁演出を新しくして、現代日本を舞台にした新演出にしたことには勿論大きな意義がある。以前のカルメンも素晴らしかったが、新演出では大きな緊張感が出る。ポネルのフィガロやゼッフィレッリのアイーダやトゥーランドットは伝説だとして、オペラは「劇場が生きている」ことを示すためにも新しくすることが望ましいのだ(こういう表現すると「劇場に媚びている」などと言い出す人もいるのを承知で言う)。ゲネプロでは、かなり多くのスペイン勢スタッフがテクニカルに入っていた。演出家の助手だけでなく、美術や照明の助手もいたはずだ。鉄製の巨大なケージが舞台全体を覆うこの演出では、事故がないように舞台を作り上げるだけでもかなりのストレスだったと想像する。

面白いのは、アレックス・オリエがコンセプトとして語っていた「男性による女性への暴力」という要素が、最終的にほとんど浮かび上がってこなかったことだ。ビゼーのオペラが、そのように書かれていない。ホセの村上さんはオリエの解釈ではかなり葛藤したと思うが、結果的に音楽そのものがコンセプトを凌駕した。

オリエがカルメンを自由の象徴として描き、ホセをマチズモの象徴として描きたかったのにも理由があるだろう。オリエは「善悪」ということに強くこだわり、自由(民衆)と体制(政権?)のコントラストにもこだわる。フランコ独裁政権後のスペインで自由の意味は重要であり、両親からも「自由の大切さ」を躾けられたと語る。スペインにおいてその精神は、むしろ芸術的にはマジョリティだったはずで、オリエはキャリア的にも全然マイノリティ側の演出家ではない。

一方、大野さんの音楽はつねに善悪の彼岸で鳴っていて、「紫苑物語」や「リトゥン・オン・スキン」では毒気が強すぎて個人的にはついていけなかった。善とか悪とかが問題ではなく、しかじかの魂の特性があるだけだ、という超=道徳的な価値観を大野さんの指揮からは感じる。カルメン解釈という点で、オリエとは対極の精神性だと思う。

このカルメンは「対極でありながら、なぜか調和してしまったコンセプト」の不思議な達成物であった。演出は骨っぽい装置をともないながら善悪を厳しく分けようとし、ピットの音楽は毒と優しさと妖艶さによって鉄骨を柔らかいレースにしてしまう。それが不調和ではなく、二つのベクトルをのみ込んだ巨大な次元を創り出していた。オリエはよく戦った。戦わなければオペラは生まれないし、ホセはカルメンに出会わなければ人生がどんなものかを理解しなかった。オリエの強靭さを、大野さんの寛大さが包み込み、さらにビゼーがその全体を祝福していたオペラだった。

ラスト近くで闘牛士エスカミーリョとカルメンが「愛しているよ」「愛しているわ」と歌う短い歌はモーツァルト・オペラのような天上の音楽で、モーツァルトならばハッピーエンドに終わるはずだが、永遠の平和は訪れない。エスカミーリョの王国に入城しかけたカルメンを、地を這うようなホセの歌が追いかける。ビゼーは本当にオペラの天才だった。散逸したものも含めて30作のオペラを書いたともいう。リストに未来の天才ピアニストと賞賛されながらも、オペラへの愛を貫いて突っ走り、沸騰する才能を賭けて書いた遺作がこれなのだ。偉大なる「ミスターB」の遺言が、21世紀の日本で再現された。若い人たちにも是非観てほしい。

 

 


カイヤ・サーリアホ Only the Sound Remains 余韻

2021-06-09 14:35:39 | オペラ

フィンランドの現代作曲家、カイヤ・サーリアホの幻想的なオペラ。東京文化会館大ホールが予想以上の客入りで、少なからず難解であるはずの現代オペラにこれだけの関心が向いていることに驚く。ゲネプロ見学の機会もあったが、結局本番のみを観ることになった。サーリアホが日本の能に魅了されて作った幽玄なオペラのダブル・ビル上演である。小編成のピットには民族楽器のような不思議な形の打楽器も見える。何年か前にナントの音楽祭で聴いた地中海音楽を奏でるカンパニーを思い出した。

題材となっている二つの能『経正』『羽衣』のオリジナルを、どちらも知らない。休憩を挟んで演じられた二つの物語は、まるっとひとつのことを語っているようにも思えた。日本の古典芸能が顕す「おもかげとうつろい」の世界にサーリアホが関心をもつのは、魂が懐かしさを感じているからだろう。何年か前にオペラシティで上演された『遥かなる愛』にも、日本の尺八や琴を思わせるサウンドが溢れていた。

能の「シテ」をカウンターテナーが担当し「ワキ」をバス・バリトンが担当する。カウンターテナーのミハウ・スワヴェツキはめざましい美声で、遠目から見るとフィリップ・ジャルスキーによく似ている。セラーズ演出のパリ国立オペラでの2018年の映像では、ジャルスキーが歌っていた。この世のものならぬ霊的な表現は、世界最高峰のカウンターテナーにしか歌えないのかも知れない。ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」を思い出す瞬間が何度かあった。

僧侶・行慶を演じるバス・バリトンのブライアン・マリーの温かみのある声、違う次元の存在としてのカウンターテナー、そこにダンサーの森山開次さんのダンスが加わり、3人の演者による凄い幻想空間が立ち現れた。森山さんの「何にでも変身できる」魔力が、鷺のような落武者のような女性のような「存在」となって舞台に舞い降りた。体格は違うが、バス・バリトン、カウンターテナー、ダンサーは背丈がだいたい同じで、それぞれ違う役割を担っているようで、ひとつの影を描いているように思われた。たゆたうような音の帯がホールになびき、時を越えた「無限」が立ち現れた。

ピットの中で歌うソプラノ、アルト、テノール、バスの多彩な歌声にも驚かされた。ひそひそ声や擦過音のような発音も聴こえ、譜面には色々な指示があるのだろうと思われた。彼らはある瞬間にピットから舞台に上がって歌い始める。オペラの時間が満ち、「いよいよ」という雰囲気が溢れ出す感じが良かった。

後半の「羽衣」では、サーリアホが抱えている独特の心の形のようなものを感じていた。見えないものを見ようとする好奇心、あるものだけがある、と断定することを嫌悪するような厳密な美意識、つねに愛の前には不可能性が置かれる掟…といったもの。「羽衣」では、すべての瞬間に星空が見えたような気がした。歌手もピットもPAを通し拡大したサウンドを鳴らす。
「羽衣」では歌手たちの見事さにも増して、ダンサーの負担が大きかったはずだ。ほぼ非現実的といっていい課題を与えられる。「人間界の新たな喜びとなる舞い」をこの世の置き土産にする、その舞いとはどのようなものか?
振付も担当した森山開次さんの変幻自在な乱舞が、ホログラムのように舞台を埋め尽くした。この世に「ない」(ありえない)ものを肉体であらわすことの魔法を、やってのけた。

舞台では、男性たちが矢鱈と妖艶だった。装置は可動式の障子のようなもののみでシンプルを究めていたが、照明と心霊写真のようにゆらめく曖昧な映像だけで、サーリアホ好みの世界観が現れていたと思う。「羽衣」では森山さんと一緒にカウンターテナーが軽やかに舞い、バス・バリトンも最後は舞い、オケピでは細身のダンサーのようなクレマン・マオ・タカスもずっと踊っていた。この指揮者、後姿が私の知っているベジャール・バレエのダンサーによく似ているのだ。

サーリアホのオペラはこのように、シンプルで親密に演じられるのがいいのだと思った。全体として彼女のひどく繊細で壊れやすい心、微妙なバランスで成立しているカラス細工のような脆さを感じた。この世に存在するオペラはどこか油彩画的なのだが、金糸のタペストリーか、淡い色のみで描かれた古いフレスコ画のような気配が、このオペラにはあった。ピットから溢れ出す音も、舞台にいる人々の姿からも、本当に優しい心が伝わってきた。オペラのタイトルが示す「余韻」とは、私にとって「優しさ」に他ならなかった。