来日中のクリーヴランド管弦楽団の6/3(マチネ)の公演を聴く。プログラムは『エグモント』序曲、『交響曲第4番』『交響曲第7番』。5日間でベートーヴェンの交響曲全曲と序曲の名曲を演奏する「プロメテウス・プロジェクト」の二日目だが、このオーケストラの伝統と美質、ウェルザー=メストの指揮者としての直観の鋭さを深く認識するコンサートだった。
木管の馥郁としたしなやかさや金管の正確さ、低弦の温かみのある勇壮な響きなど、二日目にして発見する個性も多かったが、一番感銘を受けたのはクリーヴランドのオケの「節度の中の情熱」というか、決して派手になりすぎることのない気品だった。そこには秘かなる戦いの意志も感じられた。現代という時代に対して宣戦布告しているようなサウンドで、総体として聴こえてくる音に、彼らの真摯な日常と一朝一夕ではない鍛錬も感じる。圧倒的な基礎の上に成り立っている演奏だった。
ウェルザー=メストがクリーヴランド管の100周年にベートーヴェンを選び、音楽と哲学と「善」の結びつきを聴衆に聴かせようとしたことは見事な選択だった。モーツァルトやブルックナーやマーラーでもよかったかも知れないが、ベートーヴェンほど個人と時代の「渇望感」を見事に表現した作曲家はいないのだ。ブルックナーも光の音楽を書いたが、ベートーヴェンは聖なる直観をフレンドリーな性格の音楽として書く才能に恵まれていた。人間のハートの中には狭い聖堂があり、そこを開いた芸術家のみが優れた作品を創り上げることができる。歴史に名を遺す音楽家は、すべて心の中の聖堂を開けることができた。そこから先は、それぞれの流儀で前進していくことになる。
仄暗い雰囲気で始まる『交響曲第4番』が、一楽章の途中で何かに目覚めたように明るさを加えていくくだりはいかにもベートーヴェンだ。電撃的で、中間的なものが省略されている。闇を切り裂いて光が世界を驚かせていくようだった。それを、オーケストラは非常に「人文学的に」表現していた。クラシックの驚愕とは、花火や爆竹が鳴るわけでもなければ、ギターやピアノが破壊されるわけでもない。その衝撃性は暗喩的であり、神秘のヴェールをまとっているが、同時にとても明白なものだ。
ベートーヴェンのシンフォニーは崇高であると同時に、どんなハードロックよりも過激だと思う。精神の流れが、凄い。音楽が不安を帯びても、墜落せずに明るい方向へと突き進んでいく(内省的な弦楽四重奏曲となるとベートーヴェンはまた別のことをするのだが)。
4番では、ワーグナーが凄まじく多くのことをこの音楽からかすめとっていったことを知らされた。賢明なワーグナーは交響曲を書かなかったが、ベートーヴェンに憧れてやまなかったのだろう。
人間の潜在意識とは不思議なもので、顕在意識で聴いているつもりのこと以上のものを感じ取っている。ベートーヴェン・ツィクルスを聴くという行為が、高尚なものだとか知的なことだとかという以上に「肉体と霊性をアップデイトする」アクションに感じられる。吟味された演奏が人間の臓腑に与えるバイブレーションはすごい。小さな子供だって、何か感じるだろう。数年たって、十数年たって、あるいは何十年たってからこの日の演奏を思い出すこともあるだろう。脳と身体のどの部分がこの経験を覚えているかわからないのだ。
『交響曲第7番』は壮麗で、少しばかり鷹揚な雰囲気ではじまったが、オーケストラの秘められた情熱が3楽章からじわじわと爆発し、フィナーレ楽章では爆発的な音の饗宴となった。プロメテウス・プロジェクトは「人間が叡智によって火をつかうこと」のメタファーが込められているとプログラムにあったが、このフィナーレの狂騒はまさに炎の祝宴だった。
そしてその爆発に至るまでの厳しいコントロール、「逆境」に近いストイックなオケの鍛錬を思わずにはいられなかった。ベートーヴェンはそこまでいって初めて本質を明らかにするのだろう。
名門オーケストラのメモリアル・イヤーの引っ越し公演というのは、これを逃すと聴けないもので、連日行われているこの貴重な人間的営為を一人でも多くの人に聴いてほしいと思った。ただ生きるだけの人生では見えない、もっと凄くて素敵なことがサントリーホールで起こっている。
ⒸSuntoryHall
木管の馥郁としたしなやかさや金管の正確さ、低弦の温かみのある勇壮な響きなど、二日目にして発見する個性も多かったが、一番感銘を受けたのはクリーヴランドのオケの「節度の中の情熱」というか、決して派手になりすぎることのない気品だった。そこには秘かなる戦いの意志も感じられた。現代という時代に対して宣戦布告しているようなサウンドで、総体として聴こえてくる音に、彼らの真摯な日常と一朝一夕ではない鍛錬も感じる。圧倒的な基礎の上に成り立っている演奏だった。
ウェルザー=メストがクリーヴランド管の100周年にベートーヴェンを選び、音楽と哲学と「善」の結びつきを聴衆に聴かせようとしたことは見事な選択だった。モーツァルトやブルックナーやマーラーでもよかったかも知れないが、ベートーヴェンほど個人と時代の「渇望感」を見事に表現した作曲家はいないのだ。ブルックナーも光の音楽を書いたが、ベートーヴェンは聖なる直観をフレンドリーな性格の音楽として書く才能に恵まれていた。人間のハートの中には狭い聖堂があり、そこを開いた芸術家のみが優れた作品を創り上げることができる。歴史に名を遺す音楽家は、すべて心の中の聖堂を開けることができた。そこから先は、それぞれの流儀で前進していくことになる。
仄暗い雰囲気で始まる『交響曲第4番』が、一楽章の途中で何かに目覚めたように明るさを加えていくくだりはいかにもベートーヴェンだ。電撃的で、中間的なものが省略されている。闇を切り裂いて光が世界を驚かせていくようだった。それを、オーケストラは非常に「人文学的に」表現していた。クラシックの驚愕とは、花火や爆竹が鳴るわけでもなければ、ギターやピアノが破壊されるわけでもない。その衝撃性は暗喩的であり、神秘のヴェールをまとっているが、同時にとても明白なものだ。
ベートーヴェンのシンフォニーは崇高であると同時に、どんなハードロックよりも過激だと思う。精神の流れが、凄い。音楽が不安を帯びても、墜落せずに明るい方向へと突き進んでいく(内省的な弦楽四重奏曲となるとベートーヴェンはまた別のことをするのだが)。
4番では、ワーグナーが凄まじく多くのことをこの音楽からかすめとっていったことを知らされた。賢明なワーグナーは交響曲を書かなかったが、ベートーヴェンに憧れてやまなかったのだろう。
人間の潜在意識とは不思議なもので、顕在意識で聴いているつもりのこと以上のものを感じ取っている。ベートーヴェン・ツィクルスを聴くという行為が、高尚なものだとか知的なことだとかという以上に「肉体と霊性をアップデイトする」アクションに感じられる。吟味された演奏が人間の臓腑に与えるバイブレーションはすごい。小さな子供だって、何か感じるだろう。数年たって、十数年たって、あるいは何十年たってからこの日の演奏を思い出すこともあるだろう。脳と身体のどの部分がこの経験を覚えているかわからないのだ。
『交響曲第7番』は壮麗で、少しばかり鷹揚な雰囲気ではじまったが、オーケストラの秘められた情熱が3楽章からじわじわと爆発し、フィナーレ楽章では爆発的な音の饗宴となった。プロメテウス・プロジェクトは「人間が叡智によって火をつかうこと」のメタファーが込められているとプログラムにあったが、このフィナーレの狂騒はまさに炎の祝宴だった。
そしてその爆発に至るまでの厳しいコントロール、「逆境」に近いストイックなオケの鍛錬を思わずにはいられなかった。ベートーヴェンはそこまでいって初めて本質を明らかにするのだろう。
名門オーケストラのメモリアル・イヤーの引っ越し公演というのは、これを逃すと聴けないもので、連日行われているこの貴重な人間的営為を一人でも多くの人に聴いてほしいと思った。ただ生きるだけの人生では見えない、もっと凄くて素敵なことがサントリーホールで起こっている。
ⒸSuntoryHall