行田市の中心を走る国道125号線、市街地に建つ商工センター脇に小さな史跡跡が二つ建っています。一つは商工センター敷地内にある忍警察署跡。そして道を隔てて反対側に建つ「鳥居強右衛門居宅跡」です。特に強右衛門居宅跡は貸しビルの敷地生垣に隠れるように建っていてその姿に気づく人も少ないでしょう。
史跡の説明には「天正三年(1575)三河長篠城救援軍師として役割を果たし磔死した鳥居強右衛門の第十二代商近は松平家家老として五百石を以てここを忍の居宅にした」とあります。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とはいかなる人物だったたのでしょうか。
文政六年(1823)幕府は忍藩主阿部正権(まさのり)に陸奥白河へ転封を命じます。忍藩に入ったのは桑名藩松平忠尭です。「三方領地替」と呼ばれます。老中を輩出し、幕政に影響を誇った忍城の歴史の転換点とされます。
桑名から入った松平家は下総守、その祖先は三河長篠城主であった奥平信昌と家康の長女亀姫との四男松平忠明を初代とします。その長篠城主に仕え、家康に命を賭けて急を知らせたのが初代鳥居強右衛門とされます。自らは磔にされて命を落としますが、軍神として祀られ、その子の信商は武士として取り立てられ初代松平忠明に取り立てられます。そして鳥居家は代々家老を継ぎ十二代商近の時桑名から忍に来て居を構えたとされます。
十三代商次の時に明治維新を迎え、慶応四年(1868)官軍が羽生より進軍し行田町に入り大砲を地獄橋に構えて藩主に勤王の確証を求めました。藩主と先代との間には意見の相違があり、鳥居をを含めた家老5名のうち署名するのは一人、万事があれば切腹をという状況で、顔を見合わせた家老の内鳥居強右衛門が進み出て一人署名したとして、藩を救った名家老として語り草となったといいます。
貸しビルには長く大手音楽教室が入り、子供も多くみられましたが、残念ながら撤退しテナント募集となっています。明治から数えて百五十年。来年の今頃には次の元号となっていますが、史跡を通して様々な歴史を読み解くことができます。
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