行田市荒木地区を県道7号線に沿って羽入方面に向かうとたくさんの神社が点在している。羽生市との境を超えて南側は上新郷字住吉上。氏神の名が地名となっているのがわかる。
埼玉の神社によれば、創建の由来となる「住吉之縁起」が残っているという。寛永年中(1643年頃)別当高誉が記した縁起によると、聖武天皇の代、神亀元年春(724年)住吉大神のお告げを受けた高僧行基上人は各地を回りこの地に至ったところ、松の緑は深く、長善沼は摂津国難波に似ている。これは住吉の社を勧請するにふさわしいところであるとして、民救済の社を建立したという。
時代が下って寛永元年(1643)社殿の荒廃を憂いて、別当吉祥院高誉良帰は氏子と計って社殿を再興したという。
住吉神社の総本社は大阪の住吉大社と言われている。御祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神に加え、神功皇后(息長足姫命=おきながたらしひめ)とされる。『日本書紀』によれば住吉三神とは伊弉諾尊が黄泉の国から帰ってこられた際、身に付いた穢れを祓うため、海に入って禊祓をした時に生まれた神々でそれぞれ海の底、中、上で生まれた神であるとされる。
十四代仲哀天皇の后、神功皇后は新羅遠征に神託を下してその戦の助けをしたのが住吉三神と伝えられている。そののち摂津に祀られたのが大阪の住吉大社である。住吉はもとは『墨江』と書いて「すみのえ」と読んでいた。即ち澄んだ入り江を表し、古くは遣唐使は摂津を出発して海を渡っている。中世以降、神功皇后を祀っていることから、武家の崇敬も厚かったという。
口碑によれば江戸期に氏子が伊勢参拝の際、住吉大社に赴き、懇願して尊像を頂きこの地に背負って帰り、白馬にまたがる像であったという。
明治期の神仏分離令により村人は神像を壊されてしまうと思い、ひそかに隠したが、役所の追及で社に戻したところ焼かれてしまったという。
氏子は神様のことを明神様と称して慕ったという。また農村部としての禁忌に「住吉横塚区域では茶の木を植えてはならない」という。昔明神様が茶の木で目を突いて失明したという伝承からで、戦後になっても守られたという。米などの主要穀物からの転作を戒める話が伝わったものと考えられる。
境内地入り口には地蔵菩薩が建っていて、神社も寺社持ちであったことが窺える。
社殿前、常夜灯の脇には大日如来像が残っている。年号は延宝四年と記されている。
明治維新となるまでここ北埼玉は勿論、全国各地で神仏習合の社寺は数多くみられた。為政者の権威付に神仏分離や村ごとの合祀政策が利用されてきた歴史がある。村の社を守るため、氏子や檀家が知恵を絞り、神像や社殿を守ろうとしてきたことは想像に難くない。空海や行基といった律令期の僧の伝承は各地に残り、その弟子たちが布教に際して上人伝説を説いていったいったと考えられる。
社頭に建つ庚申塔の年号は元禄十二年。「埼玉の神社」北埼玉の項に住吉神社はほかに見当たらず、奈良時代に始まり江戸期まで続いた神仏習合文化を伝える貴重な神社である。
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