『成田記』によれば皿尾城は上杉謙信が築いた砦とされます。しかしこの地の久伊豆大雷神社が成田氏により鎌倉初期に勧請されたことを踏まえれば、成田氏による小規模の軍事的拠点が存在したと推測されます。郷土史家の富田勝治先生が作成した「皿尾城址図」によれば堀跡と思しきものが残っています。私が小学校低学年(昭和56年頃)まで神社西側には自然の水路がありました。また神社前後には自然要塞として水田が広がっています。
また神社裏手は明らかに土塁と呼ぶような土の盛り方です。現在社殿を囲むように土塁が残り、杉の木が茂っています。
皿尾城における忍城成田氏と上杉家方の武将が戦った記録が『上杉家文書』に残されています。河田谷忠朝という武将が上杉家の家臣に宛てた書状です。
於当口両度得勝利候之上、弥以成田押詰可申候、此等之旨、可預御披露候
六月二日付の書状で年号は永禄五年(1562年)と考えられています。
河田谷忠朝とは羽生城主広田直繁の弟に当たり、後に木戸姓を名乗り兄の後を受けて羽生城主になる人物です。
当時皿尾城にいた河田谷忠朝はこの書状書状の中で、当口(=皿尾城)において二度の合戦に勝利し、いよいよ成田を追い詰めていくのでこの旨を謙信公に伝えてほしいとつづっています。
実はこうした皿尾城における攻防戦を記した資料は多いそうで、『成田記』、『鎌倉九代後記』『北越太平記』などにも記述があるそうです。それぞれが情報が錯綜し、内容が異なっているといいます。
『成田記』巻三『謙信騎西城攻併皿尾砦築事』の項の中でその戦いぶりを読むことができます。
上杉謙信は騎西城を攻めたたあと忍城に軍勢を差し向け、木戸伊豆入道らを守として置いた。謙信が武蔵国から一旦引き上げた後、忍城成田長泰は反撃します。(成田目の前に砦を築かれ安からず思ければ、速やかに踏み潰せと人数押し出し)成田側の兵力の違いからくる、勝って当然の思惑が読み取れます。
「木戸父子精根限り死力を奮い防ぎと言え共、忍の大軍無二無三攻め近づき堀も柵も引き倒さんとするところ
」
助けに現れた武将がいました。岩槻城主、太田資正です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます