(
『新編武蔵風土記稿』編纂のため幕府に提出された文政三年(1820)の書上帳によれば、天文年間の成田氏時代から忍城下は「行田町」として栄え、町屋が点在していたという。元々成田氏の拠点は現在の熊谷市上之であり、忍入城の際一時期居を構えていたのが皿尾村であった。
成田氏は築城に際し近隣の一族である別府、玉井、奈良氏はもとより後の家臣となる酒巻、須賀、中條、久下といった近隣諸氏の助力を得て水路を開き、良田を整備し農地を尊重することで、各地からの人望を集め、結果として行田町周辺に人が集まるようになったともとも伝えられる。現在の愛宕社の周辺に集落ができ、城に対して「下町」と呼ばれるようになったという。
城と下町の往来が盛んになると中間の新町二丁目あたりに家が建ち「八軒」と呼ばれるようになった。天文十三年(1544)には市が立つようになり、当初は下町と新町の路傍で開からていて市神は下町天王社であったという。
時の城主成田長泰はその八軒を栄えさせるため、武運の神八幡神を向町の田中から現在の地に移したので「田中八幡」と呼び「城主八幡」として祀ったことから忍城に向けた「西向き八幡」となったと伝わる。天文五年(1536)年のことで、このころ新しい町がなったことから現在でも新町と呼ばれるゆえんであるという。
現在「八軒口御門跡」は天満稲荷神社の前に建っているが天満ができたのは八軒よりあとのことであるという。
一方そのころ羽生城城主となる広田直繁と河田谷忠朝(後の皿尾城主)兄弟は羽生の地盤固めとして、同じく天文五年に羽生領総鎮守である小松神社に「三宝荒神御正体」を寄進している。両陣営が領地を巡って皿尾城の地で激突するのはその約四半世紀の後、永禄五年(1562)のことになる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます