瓦葺という地名は河原が転じて『瓦』、『葺』とはフケ即ち深田、低湿地を表しているという。今では住宅地の密集するところだが、古くは一面沼地であった。河は近くを流れる綾瀬川を指している。江戸との間を綾瀬川や見沼用水を使って江戸へと荷を運んでいた風景が浮かび上がる。
瓦葺はもとは一村であったが天保から元禄にかけて(1644-1704)にかけて上、下、元瓦葺の三ヶ村に分かれたという。この氷川神社は上瓦葺の鎮守として祀られたという。創建については『郡村誌』によれば「永正三年(1506)武蔵国一宮を遷す」とされる。境内地周辺は一面の畑で祭礼日には神社の幟が岩槻から見えたという。確かに近辺は尾山台という大地であり、田園よりも畑が多く、城下町岩槻から一里ほどの場所にある。
昭和五十五年に本殿の修復、境内地の整備が進められ、昭和六十年に造営記念碑が建てられている。高度成長期から都市化と共に人口流入が激しくなり、尾山台団地の建設にも伴い、氏子の構成も大きく変わったという。
甲子園優勝経験のある県内有数の名門校、浦和学院の野球部が毎年七月の県大会の開始前に氷川神社に訪れ祈願祭を受けるという。昭和六十一年夏の甲子園四強に入る活躍を果たす頃からのようだ。近隣の中高校の学生が大会前に多く訪れるという。
広い境内地に地元自治会館を構え、地区の鎮守として崇敬される現在ではあるが、かつては境内地を廻り隣接する楞厳寺(りょうごんじ)との間に紛争が起こった歴史がある。
昭和四十九年本殿裏手の土地の所有権をめぐって楞厳寺を相手に浦和地裁に訴訟を起こしている。審理の結果氷川神社側の勝訴となるも、不服とした楞厳寺が控訴。その上檀家を兼ねていた氏子一人一人に「氏子を抜けなければ一切の仏事は世話しない」と圧力をかけたという。
菩提寺から祖先の供養を拒まれた氏子は致し方なく鎮守を離れることとなり、最後まで寺の圧力に屈しなかったのは僅か三人だけだったという。境内は一時荒れ地となったが残った三名は一致団結して鎮守様を残すため総代として尽力した。
その総代を継いだ方々の名前が現在も残っている。
昭和五十年代になると団地の造営をはじめ住宅地の建設が相次ぎ、総代三名と宮司は境内地の一部を売却し訴訟の費用を確保。昭和六十年に結審した裁判でも勝訴を勝ち取っている。団地住民の協力の元自治会主催の祭典を始め、子弟の学業成就を願う氏子の要請にこたえるため北野天満宮より天神様を勧請している。
平成四年には夏祭りに子供たちが担げるよう総代の黒須喜代松氏が神輿を奉納したところ、大いに喜ばれ他所から転入してきた子育て世代の氏子にとって鎮守様が心のふるさとになっっていったという。
神社の由緒や過去の歴史よりも、今生きる人々にとって鎮守、氏神が地域にとってどうあるべきかを示した模範の様な例だと思う。勿論古くからの祭事や慣例を継承し、神社を次の世代に継承することは大切だ。しかし現代社会において様々な環境、要因により神社そのものが宗教法人として世間の荒波にもまれることも多い。それを支え未来へと漕ぎだすのは、神の御加護を信じた人である。とりわけ神職、総代の役割は大きい。
自分自身も、もしこうした難局岐路を迎えた際、鎮守と氏子を結ぶ役割を最後まで果たしたいと思っている。
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