元文相・有馬朗人さんが死去 「ゆとり教育」導入求める(共同)
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原子核物理学者で文相兼科学技術庁長官を務めた元東京大学長の有馬朗人(ありま・あきと)さんが死去したことが7日、分かった。関係者によると、東京都内の自宅で亡くなっているのが同日午前、見つかった。90歳。大阪府出身。
1953年、東大理学部卒。東大助手、助教授を経て75年に教授。89~93年に学長を務めた。93~98年に理化学研究所理事長。2010年から静岡文化芸術大理事長。
中央教育審議会会長だった96年、学校週5日制など「ゆとり教育」の導入を求める答申をまとめた。98年の参院選で自民党比例代表名簿1位で当選、直後に発足した小渕恵三内閣で文相に就任した。
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有馬朗人・元東大総長が死去した。死去を知らせるニュース記事には、文部相在任中に手がけたゆとり教育導入を「失敗」と批判するものや、国立大学の法人化を日本の研究体制の弱体化を招いたとして批判するものなどが目立つ。総じて、手がけた政策への評価は低いが、自身の「専門分野」であった原子力分野で果たしてきた「負」の役割ーーすなわち原発推進の罪について触れているニュース記事にはほとんどお目にかからない。とすれば、やはりそこは当ブログこそが触れなければならないだろう。
福島原発事故のあの惨状を目の当たりにしても、有馬元総長は原発推進の旗を降ろすことはなかった。事故からわずか2ヶ月後、2011年5月6日付け毎日新聞の連載記事「巨大地震の衝撃 日本よ」に登場し、こう述べている。「スマトラ沖大地震や阪神大震災などがあっても、わたしが浜岡原発を視察したとき、10メートルの砂丘があるから、大丈夫と言われて、これなら大丈夫だろうと思った」。あの事故の惨状を目の当たりにして、なぜここまで根拠なく楽観的でいられるのか。理解不能としか言いようがない。
「国策に反対する少数意見を排除する動きはなかったのか」という質問に対して、有馬氏は「それはなかったと思います」と続ける。ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。原発推進の立場で研究をしていた学者は多くが教授になっているが、原発反対の立場で研究を続けてきた京大原子炉実験所(和歌山県熊取町)に所属していた6人の学者たち(俗に「熊取6人衆」と呼ばれる)はどうか。海老澤徹さんは助教授、小林圭二さんは講師、瀬尾健さんは助手、川野眞治さんは助教授。小出裕章さんはは助教で退官し、今中哲二さんも助教で大学人生を終えた。教授になれた者は1人もいない。ここまであからさまな反対派差別、少数意見封殺が行われているにもかかわらず、のうのうと「ない」と言い切る鈍感さ、無神経さはさすが原子力ムラ住民である。その無神経さこそが福島の悲劇を生んだのだ。
同じ「毎日」のインタビューで有馬氏はこうも言う。「私が心配しているのは『地球温暖化』です。日本中の家の屋根に太陽光発電をつけてもまかなえる電力は日本全体の消費量の7%である。二酸化炭素を出す火力発電所が60%、原発が30%、合わせて、90%でこれを風力や水力で代替できますか。~安全で安心な原発を作るしかない。また日本のエネルギー自給率はわずか4%なので、その面でも今ある原発は必要です」。
何度でも繰り返すが、このインタビュー掲載は2011年5月6日。関東や東北のあちこちで、水道水や食料品から基準値を大幅に超える放射性ヨウ素やセシウムが検出され、「子どもに水道水を飲ませないように」という自治体からの通知を受けた保護者が途方に暮れている時期のこと。事故の影響による電力不足で首都圏は計画停電が続いていた。それでも多くの都市住民が「原発はもうこりごり」と思い、原発を動かすよりは不便を受け入れてでも節電に踏み出そうとしていた時期でもあった。福島県内に目を転じれば、我が子の鼻血がいつまでも止まらないため、多くの親たちが、自主避難先を探して走り回っていた。そのような時期、国民のほとんどが拒否の意思を明確にしていた原発に対し、メディアで堂々と「必要」と言ってのけたのがこの御仁である。
その後も有馬氏の「原発中毒」は止まらなかった。原発推進派の中核組織「原子力国民会議」の共同代表として、政府に繰り返し原発再稼働を要請するなど、原子力ムラの手先として策動を続けた(参考記事:原発再稼働など政府に要望提出 原子力国民会議(2014年6月6日付「産経」)。2019年、日本原子力学会誌上で氏が唱えた「改めて問う―「もんじゅ」は活用すべき!―有馬朗人氏に聞く」に至っては、開いた口がふさがらない。原発ゴリゴリ推進の自民党ですら将来性がないとして廃炉を決めていた高速増殖炉「もんじゅ」を活用せよと主張しているのだ。ちなみに、インタビュアーの沢田哲生もまた、当ブログにとっては反吐が出るほどの原発中毒患者である。原子力学会誌を舞台とした2人の「じゃれ合い」は、良識ある一般国民にはまったく通用しない原子力ムラ「村民」によるチンケな「村祭り」に過ぎない。
このような人物が、ほんの一時期とはいえ、日本の最高学府である東京大学の総長を務めていたという事実には戦慄を覚えざるを得ない。都合の悪い事実(反対派差別など)はなかったことにし、黒を白と言いくるめて原発を推進。挙げ句の果てに、自民党も投げ出すほどの金食い虫「もんじゅ」にしがみつき続けた原発中毒患者。ゆとり教育や大学法人化も確かに氏の犯した罪には違いないが、それすらもちっぽけな出来事に思えてしまうほど、原発推進「A級戦犯」として、有馬元総長の罪は万死に値する。
この記事を読んだ原発容認派は「死者に鞭打つのか」と思うだろう。だが、今もあの事故のため住み慣れたふるさとを追われ、戻れない人がいる。好きだった農業ができなくなり、ふさぎ込んだままの人がいる。補償もなく「勝手に逃げた卑怯者」の烙印を押されたまま自主避難し、避難先で一から生活を作り直さなければならなかった人がいる。福島県民は今なお毎日、原子力ムラに「鞭打たれ」続けている。その塗炭の苦しみを、同じ釜の飯を食べながらともに味わってきた事故当時の一福島県民として、原子力ムラ住民の過去の罪状を記録する責務が、当ブログにはある。
これだけ多くの人が苦しみを味わいながら、信じられないことに、2019年の刑事裁判では東京電力の3被告は全員が無罪となった。「私が責任を取ります」という人が原子力ムラの中から現れる気配は、まったくない。
福島原発事故からまもなく10年。「日本を先進国の座から転落させたきっかけはあの事故だった」ーー後世の歴史家がいずれこのように評価するときが必ず来るだろう。忘れっぽい日本人が、あの事故を忘却の彼方に追いやることができないように、せめて当ブログだけでもその名を「A級戦犯リスト」の中に書き留めておこう。当ブログは決して忘れない。許さない。そして「死者に鞭打ってはならない」などという空虚な「支配者のための道徳」など蹴飛ばしながら、当ブログはこれからも迷うことなく「反原発道」を邁進する。
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原子核物理学者で文相兼科学技術庁長官を務めた元東京大学長の有馬朗人(ありま・あきと)さんが死去したことが7日、分かった。関係者によると、東京都内の自宅で亡くなっているのが同日午前、見つかった。90歳。大阪府出身。
1953年、東大理学部卒。東大助手、助教授を経て75年に教授。89~93年に学長を務めた。93~98年に理化学研究所理事長。2010年から静岡文化芸術大理事長。
中央教育審議会会長だった96年、学校週5日制など「ゆとり教育」の導入を求める答申をまとめた。98年の参院選で自民党比例代表名簿1位で当選、直後に発足した小渕恵三内閣で文相に就任した。
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有馬朗人・元東大総長が死去した。死去を知らせるニュース記事には、文部相在任中に手がけたゆとり教育導入を「失敗」と批判するものや、国立大学の法人化を日本の研究体制の弱体化を招いたとして批判するものなどが目立つ。総じて、手がけた政策への評価は低いが、自身の「専門分野」であった原子力分野で果たしてきた「負」の役割ーーすなわち原発推進の罪について触れているニュース記事にはほとんどお目にかからない。とすれば、やはりそこは当ブログこそが触れなければならないだろう。
福島原発事故のあの惨状を目の当たりにしても、有馬元総長は原発推進の旗を降ろすことはなかった。事故からわずか2ヶ月後、2011年5月6日付け毎日新聞の連載記事「巨大地震の衝撃 日本よ」に登場し、こう述べている。「スマトラ沖大地震や阪神大震災などがあっても、わたしが浜岡原発を視察したとき、10メートルの砂丘があるから、大丈夫と言われて、これなら大丈夫だろうと思った」。あの事故の惨状を目の当たりにして、なぜここまで根拠なく楽観的でいられるのか。理解不能としか言いようがない。
「国策に反対する少数意見を排除する動きはなかったのか」という質問に対して、有馬氏は「それはなかったと思います」と続ける。ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。原発推進の立場で研究をしていた学者は多くが教授になっているが、原発反対の立場で研究を続けてきた京大原子炉実験所(和歌山県熊取町)に所属していた6人の学者たち(俗に「熊取6人衆」と呼ばれる)はどうか。海老澤徹さんは助教授、小林圭二さんは講師、瀬尾健さんは助手、川野眞治さんは助教授。小出裕章さんはは助教で退官し、今中哲二さんも助教で大学人生を終えた。教授になれた者は1人もいない。ここまであからさまな反対派差別、少数意見封殺が行われているにもかかわらず、のうのうと「ない」と言い切る鈍感さ、無神経さはさすが原子力ムラ住民である。その無神経さこそが福島の悲劇を生んだのだ。
同じ「毎日」のインタビューで有馬氏はこうも言う。「私が心配しているのは『地球温暖化』です。日本中の家の屋根に太陽光発電をつけてもまかなえる電力は日本全体の消費量の7%である。二酸化炭素を出す火力発電所が60%、原発が30%、合わせて、90%でこれを風力や水力で代替できますか。~安全で安心な原発を作るしかない。また日本のエネルギー自給率はわずか4%なので、その面でも今ある原発は必要です」。
何度でも繰り返すが、このインタビュー掲載は2011年5月6日。関東や東北のあちこちで、水道水や食料品から基準値を大幅に超える放射性ヨウ素やセシウムが検出され、「子どもに水道水を飲ませないように」という自治体からの通知を受けた保護者が途方に暮れている時期のこと。事故の影響による電力不足で首都圏は計画停電が続いていた。それでも多くの都市住民が「原発はもうこりごり」と思い、原発を動かすよりは不便を受け入れてでも節電に踏み出そうとしていた時期でもあった。福島県内に目を転じれば、我が子の鼻血がいつまでも止まらないため、多くの親たちが、自主避難先を探して走り回っていた。そのような時期、国民のほとんどが拒否の意思を明確にしていた原発に対し、メディアで堂々と「必要」と言ってのけたのがこの御仁である。
その後も有馬氏の「原発中毒」は止まらなかった。原発推進派の中核組織「原子力国民会議」の共同代表として、政府に繰り返し原発再稼働を要請するなど、原子力ムラの手先として策動を続けた(参考記事:原発再稼働など政府に要望提出 原子力国民会議(2014年6月6日付「産経」)。2019年、日本原子力学会誌上で氏が唱えた「改めて問う―「もんじゅ」は活用すべき!―有馬朗人氏に聞く」に至っては、開いた口がふさがらない。原発ゴリゴリ推進の自民党ですら将来性がないとして廃炉を決めていた高速増殖炉「もんじゅ」を活用せよと主張しているのだ。ちなみに、インタビュアーの沢田哲生もまた、当ブログにとっては反吐が出るほどの原発中毒患者である。原子力学会誌を舞台とした2人の「じゃれ合い」は、良識ある一般国民にはまったく通用しない原子力ムラ「村民」によるチンケな「村祭り」に過ぎない。
このような人物が、ほんの一時期とはいえ、日本の最高学府である東京大学の総長を務めていたという事実には戦慄を覚えざるを得ない。都合の悪い事実(反対派差別など)はなかったことにし、黒を白と言いくるめて原発を推進。挙げ句の果てに、自民党も投げ出すほどの金食い虫「もんじゅ」にしがみつき続けた原発中毒患者。ゆとり教育や大学法人化も確かに氏の犯した罪には違いないが、それすらもちっぽけな出来事に思えてしまうほど、原発推進「A級戦犯」として、有馬元総長の罪は万死に値する。
この記事を読んだ原発容認派は「死者に鞭打つのか」と思うだろう。だが、今もあの事故のため住み慣れたふるさとを追われ、戻れない人がいる。好きだった農業ができなくなり、ふさぎ込んだままの人がいる。補償もなく「勝手に逃げた卑怯者」の烙印を押されたまま自主避難し、避難先で一から生活を作り直さなければならなかった人がいる。福島県民は今なお毎日、原子力ムラに「鞭打たれ」続けている。その塗炭の苦しみを、同じ釜の飯を食べながらともに味わってきた事故当時の一福島県民として、原子力ムラ住民の過去の罪状を記録する責務が、当ブログにはある。
これだけ多くの人が苦しみを味わいながら、信じられないことに、2019年の刑事裁判では東京電力の3被告は全員が無罪となった。「私が責任を取ります」という人が原子力ムラの中から現れる気配は、まったくない。
福島原発事故からまもなく10年。「日本を先進国の座から転落させたきっかけはあの事故だった」ーー後世の歴史家がいずれこのように評価するときが必ず来るだろう。忘れっぽい日本人が、あの事故を忘却の彼方に追いやることができないように、せめて当ブログだけでもその名を「A級戦犯リスト」の中に書き留めておこう。当ブログは決して忘れない。許さない。そして「死者に鞭打ってはならない」などという空虚な「支配者のための道徳」など蹴飛ばしながら、当ブログはこれからも迷うことなく「反原発道」を邁進する。