今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後(朝日)
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2011年3月中旬、東京電力の福島第一原発で事故が起きた直後、60キロほどの福島県郡山市で、子ども6千人を避難させる計画が急きょ練られた。市民にも議会にも極秘にされた。
当時市長だった原正夫氏(77)、教育長だった木村孝雄氏(74)とともに、ことし11月半ば、猪苗代湖畔の廃校を訪れ、記憶をたどってもらった。
「原発がさらに爆発したら、ここへ避難させる計画でした」と原氏。「せめて温かい食事を出せるよう、調理室にプロパンガスを運びました」と木村氏。校庭に残る雪を職員らと払い、雑草を刈った。
原発事故を想定した避難計画はなかった。計画づくりを政府から義務づけられていたのは、原発8〜10キロ圏だけだった。
郡山市内は切迫していた。大震災で約2万4千戸が全半壊。3月15日にかけ、1、3、4号機の原子炉建屋が爆発し、毎時8・6マイクロシーベルトの放射線量を市内で記録した。国が追って避難指示の目安とした値の2倍超。派遣されてきた自衛隊員は防護服を着ていた。
原発の周辺から避難者が押し寄せた一方、5千人超の市民がマイカーなどで市外に避難し始めた。動くに動けない市民から、怒り、戸惑う声が殺到した。
原氏は16日、地元の参院議員、増子輝彦氏の訪問を受けた。「問題なのは(爆発していない)2号機なんですよね」
半年ほど前まで経済産業副大臣だった人物の言葉に原氏は驚いた。爆発がさらに続くリスクは、想定していなかった。被曝(ひばく)の影響を強く受ける子どもたちの避難は「国からの正式な情報を待っていては手遅れになりかねない」と判断した。
避難先に決めた湖南地区は西に二十数キロ。奥羽山脈で隔てられ、放射線量が低かった。旧月形小学校など五つの廃校に電気や水道を通した。子どもを運ぶバス約60台を手配した。2週間ほどの急ごしらえだった。
市内の児童は1〜4年生だけで1万3千人ほど。廃校に収容できるのは、うち6千人。「市にできる限界だった」
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12/11付け朝日新聞に「今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後」という見出しで上のような記事が掲載されている。原正夫・前郡山市長が現職時代、子ども6千人を避難させる計画を実際に策定していた、という。
朝日新聞は見出しの前に「独自」と付けており、初出記事であるかのように謳っているが、福島県内限定で発売されている月刊誌「政経東北」は2015年2月号ですでに報じている(見出しのみ、バックナンバーページで見ることができる。「原前郡山市長が明かす震災対応秘話 市長選「逃げた」「逃げない」騒動にも言及」という見出しの記事が該当する)。この記事もネタ元は同じ原前郡山市長だ。
こうした報道が、品川萬里(まさと)市長の3選出馬表明の直後という微妙な時期に全国紙の紙面で出てきた背景に、品川派と原派の抗争という一面もあることは見ておく必要がある。原氏は市長時代、公園など市民の生活空間に平気で除染土を埋めたり、市内の小中学校の教室に冷房設置を求めた保護者の請願を無視したりするなど市民不在の市政を続けた。このような強引で市民不在の政策を強行したせいもあり、2013年4月の市長選で品川現市長に敗れた。
ただ、このときの選挙に関して言えば、原氏に同情すべき点もある。「多くの市民が本当は放射線量の高い郡山市内から避難したいと思いながら現実にはできないでいるのを尻目に、自分だけ家族を県外に避難させた」というネガティブ・キャンペーンを品川陣営に張られたからだ。
結論から言えば、原氏の娘と孫がこの選挙戦の時期に福島県内から離れていたのは事実だった。「政経東北」同様に、県内限定で発売されている経済誌「財界ふくしま」2013年1月号が「ざいかい短信~動き出した郡山市長選」という記事の中で、原氏の評価に関する「郡山市内のある有識者」の声を次のように紹介している。
「娘さんと孫が治療のためとはいえ宇都宮に移るなど、『なぜ自分の身内だけ移転させるのか』という批判もいまだに根強い・・・(中略)・・・そうした批判は今後、ボディーブローのように効いてきますよ」
原氏の名誉のために言っておくと、それは当時噂されたような「放射能からの自主避難」ではなく、福島県内では対応が困難な難病の治療を受けるためにやむを得ず宇都宮市内の病院を受診していたものだ。だが、品川陣営は、あたかも原氏が公職者でありながら放射能を恐れて家族を県外避難させた卑怯者であるかのように印象づけるため、「逃げない」と書かれたポスターを市内あらゆる場所の公営掲示板に貼って選挙戦に臨んだのである。
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原氏に当てつけるような「逃げない」のポスターが貼られた公営掲示板=2013年4月の郡山市長選
品川陣営は「どんなに困難な市政課題にも逃げずに取り組む姿勢をアピールしたかっただけだ」として“噂”を否定した。だが、多くの郡山市民が国からの避難指示も東京電力からの補償もない中で将来の健康被害へのはっきりした危機感を抱き、実際に自主避難という道を選ぶ人も多くいた。そんな中の選挙戦でこのような言葉をポスターに盛り込めば、それが市民にどう受け止められるかは想像に難くなく、品川陣営ははっきりと狙っていたと今でも当ブログは思っている。
結果的に原氏が敗れたところを見ると、この作戦は成功したといえる。「ある有識者」の指摘通り、「ボディーブローのように」効いたのだ。
その敗北から早くも7年。原氏が5年前、地元誌の取材ですでに明かしている内容を、わざわざこのタイミングで再度、朝日に書かせたところを見ると、このときの「遺恨」はまだ原陣営に根強く残っているのだろう。
こうした裏事情まできちんと知った上で朝日はこの記事を書いたのだろうか。政経東北の取材に応じた時点で原氏は71歳、今年は77歳でさすがに原氏自身の返り咲きはないだろう。だが、もしこの記事が原因で品川氏が落選、原氏またはその後継者が「復権」することにでもなれば、朝日が選挙に「介入」したということになりかねない。そんな危険もはらんだ記事だと思う。
とはいえ、県内誌「政経東北」だけしか報じていなかった60km圏内自治体の「極秘避難計画」が全国紙によって明かされたことの意義は大きく、今後、様々な反響を呼ぶと思う。当ブログも避難を否定せず、むしろこの間ずっと推奨する姿勢を貫いてきただけに、このような自治体がひとつでも現実に存在していたと示されたことは、避難を選択した住民に対し明確に励みになると考えている。原氏に政治的過ちがあったとすれば、それはこの計画を作ったことではなく、実行に移さなかったことだ。
ちなみに、「原さんが市長時代、子どもの避難計画を極秘裏に作っていたらしい」という噂は、福島時代に当ブログ管理人も何回か聞いた。当時は極限の混乱状態だったので、発言の主は覚えていないが、異なる情報源から、それも複数回。郡山市民の間にこの噂は相当広まっていた。当時、地元に根を下ろして生活していた関係者だけの知られざる秘話だと思う。朝日も書けなかった裏話として、ここに書き残しておきたい。
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2011年3月中旬、東京電力の福島第一原発で事故が起きた直後、60キロほどの福島県郡山市で、子ども6千人を避難させる計画が急きょ練られた。市民にも議会にも極秘にされた。
当時市長だった原正夫氏(77)、教育長だった木村孝雄氏(74)とともに、ことし11月半ば、猪苗代湖畔の廃校を訪れ、記憶をたどってもらった。
「原発がさらに爆発したら、ここへ避難させる計画でした」と原氏。「せめて温かい食事を出せるよう、調理室にプロパンガスを運びました」と木村氏。校庭に残る雪を職員らと払い、雑草を刈った。
原発事故を想定した避難計画はなかった。計画づくりを政府から義務づけられていたのは、原発8〜10キロ圏だけだった。
郡山市内は切迫していた。大震災で約2万4千戸が全半壊。3月15日にかけ、1、3、4号機の原子炉建屋が爆発し、毎時8・6マイクロシーベルトの放射線量を市内で記録した。国が追って避難指示の目安とした値の2倍超。派遣されてきた自衛隊員は防護服を着ていた。
原発の周辺から避難者が押し寄せた一方、5千人超の市民がマイカーなどで市外に避難し始めた。動くに動けない市民から、怒り、戸惑う声が殺到した。
原氏は16日、地元の参院議員、増子輝彦氏の訪問を受けた。「問題なのは(爆発していない)2号機なんですよね」
半年ほど前まで経済産業副大臣だった人物の言葉に原氏は驚いた。爆発がさらに続くリスクは、想定していなかった。被曝(ひばく)の影響を強く受ける子どもたちの避難は「国からの正式な情報を待っていては手遅れになりかねない」と判断した。
避難先に決めた湖南地区は西に二十数キロ。奥羽山脈で隔てられ、放射線量が低かった。旧月形小学校など五つの廃校に電気や水道を通した。子どもを運ぶバス約60台を手配した。2週間ほどの急ごしらえだった。
市内の児童は1〜4年生だけで1万3千人ほど。廃校に収容できるのは、うち6千人。「市にできる限界だった」
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12/11付け朝日新聞に「今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後」という見出しで上のような記事が掲載されている。原正夫・前郡山市長が現職時代、子ども6千人を避難させる計画を実際に策定していた、という。
朝日新聞は見出しの前に「独自」と付けており、初出記事であるかのように謳っているが、福島県内限定で発売されている月刊誌「政経東北」は2015年2月号ですでに報じている(見出しのみ、バックナンバーページで見ることができる。「原前郡山市長が明かす震災対応秘話 市長選「逃げた」「逃げない」騒動にも言及」という見出しの記事が該当する)。この記事もネタ元は同じ原前郡山市長だ。
こうした報道が、品川萬里(まさと)市長の3選出馬表明の直後という微妙な時期に全国紙の紙面で出てきた背景に、品川派と原派の抗争という一面もあることは見ておく必要がある。原氏は市長時代、公園など市民の生活空間に平気で除染土を埋めたり、市内の小中学校の教室に冷房設置を求めた保護者の請願を無視したりするなど市民不在の市政を続けた。このような強引で市民不在の政策を強行したせいもあり、2013年4月の市長選で品川現市長に敗れた。
ただ、このときの選挙に関して言えば、原氏に同情すべき点もある。「多くの市民が本当は放射線量の高い郡山市内から避難したいと思いながら現実にはできないでいるのを尻目に、自分だけ家族を県外に避難させた」というネガティブ・キャンペーンを品川陣営に張られたからだ。
結論から言えば、原氏の娘と孫がこの選挙戦の時期に福島県内から離れていたのは事実だった。「政経東北」同様に、県内限定で発売されている経済誌「財界ふくしま」2013年1月号が「ざいかい短信~動き出した郡山市長選」という記事の中で、原氏の評価に関する「郡山市内のある有識者」の声を次のように紹介している。
「娘さんと孫が治療のためとはいえ宇都宮に移るなど、『なぜ自分の身内だけ移転させるのか』という批判もいまだに根強い・・・(中略)・・・そうした批判は今後、ボディーブローのように効いてきますよ」
原氏の名誉のために言っておくと、それは当時噂されたような「放射能からの自主避難」ではなく、福島県内では対応が困難な難病の治療を受けるためにやむを得ず宇都宮市内の病院を受診していたものだ。だが、品川陣営は、あたかも原氏が公職者でありながら放射能を恐れて家族を県外避難させた卑怯者であるかのように印象づけるため、「逃げない」と書かれたポスターを市内あらゆる場所の公営掲示板に貼って選挙戦に臨んだのである。
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原氏に当てつけるような「逃げない」のポスターが貼られた公営掲示板=2013年4月の郡山市長選
品川陣営は「どんなに困難な市政課題にも逃げずに取り組む姿勢をアピールしたかっただけだ」として“噂”を否定した。だが、多くの郡山市民が国からの避難指示も東京電力からの補償もない中で将来の健康被害へのはっきりした危機感を抱き、実際に自主避難という道を選ぶ人も多くいた。そんな中の選挙戦でこのような言葉をポスターに盛り込めば、それが市民にどう受け止められるかは想像に難くなく、品川陣営ははっきりと狙っていたと今でも当ブログは思っている。
結果的に原氏が敗れたところを見ると、この作戦は成功したといえる。「ある有識者」の指摘通り、「ボディーブローのように」効いたのだ。
その敗北から早くも7年。原氏が5年前、地元誌の取材ですでに明かしている内容を、わざわざこのタイミングで再度、朝日に書かせたところを見ると、このときの「遺恨」はまだ原陣営に根強く残っているのだろう。
こうした裏事情まできちんと知った上で朝日はこの記事を書いたのだろうか。政経東北の取材に応じた時点で原氏は71歳、今年は77歳でさすがに原氏自身の返り咲きはないだろう。だが、もしこの記事が原因で品川氏が落選、原氏またはその後継者が「復権」することにでもなれば、朝日が選挙に「介入」したということになりかねない。そんな危険もはらんだ記事だと思う。
とはいえ、県内誌「政経東北」だけしか報じていなかった60km圏内自治体の「極秘避難計画」が全国紙によって明かされたことの意義は大きく、今後、様々な反響を呼ぶと思う。当ブログも避難を否定せず、むしろこの間ずっと推奨する姿勢を貫いてきただけに、このような自治体がひとつでも現実に存在していたと示されたことは、避難を選択した住民に対し明確に励みになると考えている。原氏に政治的過ちがあったとすれば、それはこの計画を作ったことではなく、実行に移さなかったことだ。
ちなみに、「原さんが市長時代、子どもの避難計画を極秘裏に作っていたらしい」という噂は、福島時代に当ブログ管理人も何回か聞いた。当時は極限の混乱状態だったので、発言の主は覚えていないが、異なる情報源から、それも複数回。郡山市民の間にこの噂は相当広まっていた。当時、地元に根を下ろして生活していた関係者だけの知られざる秘話だと思う。朝日も書けなかった裏話として、ここに書き残しておきたい。