雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

歌うこととカラオケと

2014年02月17日 | エッセイ


 歌うこととカラオケと

 まず自ら進んでカラオケを歌いに行こうと思うことは無いし、一人で飲みに行くことがあってもカラオケのあることを条件にお店を選択することは考えられない。お酒を飲むのは好きだけど、一人でお酒を飲みに出かけることさえ家庭を持ってからは一度も無い。もともと飲むことより食べることが好きで、お酒も食中酒として楽しむことがほとんどで、さらに私は外食をすること自体が少なく、したがって外でお酒を飲む機会も稀である。だから私がカラオケ専門の店に行ったことは今迄に数度しかないし、カラオケのあるスナックと呼ばれるようなお店に行くことも年間片手で済むか済まないか位の回数だ。
 行くのはたいてい何かの集まりの忘年会や新年会の二次会である。
 私のカラオケの生歌を聴いたことがある人は、職場以外ではいくつかの集まりのメンバーにほとんど限られている。考えたら一番身近な家人や子どもや兄弟や親戚のおじさん達の歌を聴くことは無いなあ。身内でカラオケに行くことはとても楽しそうだ。今度何かの機会に忘れず提案してみよう。
 さて私が歌う曲目は決まっていて、同じメンバーの人に、毎回同じ曲を歌うことになる。それでも皆初めて聴くみたいに喜び、感想を言ってくれる。つまり前回私が何を歌ったかなど皆の記憶に無いのだ。考えたら私の方も、年に数回は同じ人のカラオケを聴いているが、前回その方が何を歌ったかはまず覚えていない。だから最近は堂々と毎回同じ曲を歌うことにしている。
 カラオケスナックで、仲間内の歌を聴くことはまだ楽しさもあるが、他のグループの見知らぬ人の歌を聴くことは苦痛だ。さらにもう一つ苦痛なのは、私の職場のある町のカラオケ店のカラオケの音量のスゴさだ。たっぷりとエコーの効いた歌声は店に入る前から響いていて、入店する際に少々気が滅入ってくることもある。
 歌うこと自体は嫌いではない。例えば学校で声楽部に入る機会も希望も無かったが、小さい頃から声に出して歌うことにストレスを発散しているような気持ちの良さを感じていた。あまり声域が広くないので、初めての歌は、高音や低音が出るか不安。そのこともあってカラオケに行くと毎回同じ歌を歌うことになってしまう。私の十八番は、ビリー・バンバンの「さよならをするために」という曲で、曲の長さが短い点もこの曲を選択する理由だ。その次はかぐや姫の「夢一夜」か「なごり雪」と続くが、一緒にいるメンバーによっては、テンプターズの「エメラルドの伝説」か、ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」が間に入る。
 先日同級生やその前後の3人の男が集まった際に、食後に酒を飲みながら、たまたまそこにあったギターで弾き語りをはじめ、私を含めて3人とも弾き語りをすることが出来た。そう言えば私たちが若い頃の男は、女の人にもてたい一心でギターの練習をしていたなあ。おじさんの弾き語りは50数年の人生を背負っていて、それぞれになかなか味があった。
 我が家は家人から鼻歌禁止令が出て久しい。何か楽しいことに没頭するあまり、ついつい鼻歌を歌いだすと一小節も歌わぬ内にストップがかかる。だから私が声を出して歌うのは、一人で車に乗っている時が多い。前を注視しハンドルを持ちながら声に出して歌うのだが、対向車線の車から見たら口をパクパクさせて車を運転しているのは、かなり間抜けな様子に見えるかもしれない。
 そう言えば若い頃、旅先のローマで現地に住む二人の日本人女性に頼まれてイタリア人の家の食事会に一緒に参加することになり、陽気なイタリア人の運転する車に乗ったことがある。50歳代とおぼしきオッサンは日本贔屓のいい人だったが、あわよくば女の子を口説きたいという下心が見え見えだった(イタリア男やフランス男なら当然)。これも自分の魅力をアピールするためか、運転しながら大きな口と身振りをしながら声量のある美しい声でカンツォーネを歌いだしたのだが、サビの部分ではハンドルから両手を離し、けっこう長い時間、後部座席の女の子を振り返って歌うのにはハラハラしたなあ。
(2014.2.14)
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