こんばんは‥
今日は中秋の名月です。こちらはしっかり十五夜が見えてます。
さて‥世界遺産 軍艦島
10月1日 曇り
やまさ海運株式会社の軍艦島上陸.周遊コース150分‼️
大波止から
日曜日だからだろうか?満席‼️
さて‥出港‼️
三菱造船所(世界遺産に登録されているようです
)
キリシタンの町 神の島
江戸前期はキリシタンが潜伏町で江戸後期は砲台築造の人夫として海外からきたキリシタンが移り住んだと言われてる。
女神大橋の下を通り
見えてきました‼️軍艦島
上陸‼️
長崎半島から西に約4.5キロ、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5キロ、長崎港から南西に約1.9キロの沖合位に位置する。
正式名「端島」
小さな海底炭鉱の島で、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似てることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
炭鉱閉山後、長い眠りについてましたが2015年に世界文化遺産に登録されました。
1916年
日本初の鉄筋コンクリートの高層集合住宅が建設されました。
最盛期約5300人、当時の東京の9倍といわれてます。
この高台にある鉄筋コンクリート建物は、当時の管理職の住まいだったようです。
鉱山の中枢であったレンガ造りの建物
炭鉱マンの大浴場がありました。当時は三回ほどお風呂に入ったようです。1回目は海水、2回目も海水、3回目で真水だったようです。
炭鉱での仕事で体は油まみれになっており、2回目まではいつも真っ黒になってたようです。
5300人の炭鉱マンとその家族が住むための建物
左の窓の小さな建物は潮が満ちた時に海水が入るのを防ぐために窓を小さくしていたようですが‥台風などの時には大変だったようです。
灯台は今は無人島になったので‥灯りを灯すために作られたようです。その頃は365日24時間炭鉱は稼働していたために灯りは常にあったようです。
灯台の横にあるのは貯水タンク
当時は真水は貴重だったようです。
子どもたちが遊ぶ25メートルのプール
1階から4階までが小学校、5階と7階は中学校、6階は音楽室、図書館、7階は理科室などがあったようです。
精炭を運んだベルトコンベアーの支柱
炭鉱で働くことは怪我人もたくさんでていましたので病院は生活には欠かせない施設です。
他にも娯楽施設(パチンコ、映画館など)、神社などあったそうです。
閉山後
この建物を今まで守ったとされる天川の護岸
島をぐるりと囲んでいる。石炭と赤土を混ぜ天川(あまかわ)と呼ばれるよう接着剤をら用いた石積み工法である。
ぐるりと船で一周‼️
ここから見ると‥確かに軍艦に見えます。
炭鉱から石油に代わり1974年1月15日に閉山
閉山してここに住んでいた人たちはバラバラになったようです。
その時は住んでいた方たちは寂しい気持ちと皆さん頑張ってという気持ちでここを後にされたのだろうなと‥
私が訪れたかった「軍艦島」
私の説明では
是非‼️行ってみてください。
最後に
上陸証明書をいただきました。
天候にも恵まれ上陸できたこと、無事に戻れたことに感謝して終わりにしたいと思います。
今日は中秋の名月です。こちらはしっかり十五夜が見えてます。
さて‥世界遺産 軍艦島
10月1日 曇り
やまさ海運株式会社の軍艦島上陸.周遊コース150分‼️
大波止から
日曜日だからだろうか?満席‼️
さて‥出港‼️
三菱造船所(世界遺産に登録されているようです
)
キリシタンの町 神の島
江戸前期はキリシタンが潜伏町で江戸後期は砲台築造の人夫として海外からきたキリシタンが移り住んだと言われてる。
女神大橋の下を通り
見えてきました‼️軍艦島
上陸‼️
長崎半島から西に約4.5キロ、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5キロ、長崎港から南西に約1.9キロの沖合位に位置する。
正式名「端島」
小さな海底炭鉱の島で、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似てることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
炭鉱閉山後、長い眠りについてましたが2015年に世界文化遺産に登録されました。
1916年
日本初の鉄筋コンクリートの高層集合住宅が建設されました。
最盛期約5300人、当時の東京の9倍といわれてます。
この高台にある鉄筋コンクリート建物は、当時の管理職の住まいだったようです。
鉱山の中枢であったレンガ造りの建物
炭鉱マンの大浴場がありました。当時は三回ほどお風呂に入ったようです。1回目は海水、2回目も海水、3回目で真水だったようです。
炭鉱での仕事で体は油まみれになっており、2回目まではいつも真っ黒になってたようです。
5300人の炭鉱マンとその家族が住むための建物
左の窓の小さな建物は潮が満ちた時に海水が入るのを防ぐために窓を小さくしていたようですが‥台風などの時には大変だったようです。
灯台は今は無人島になったので‥灯りを灯すために作られたようです。その頃は365日24時間炭鉱は稼働していたために灯りは常にあったようです。
灯台の横にあるのは貯水タンク
当時は真水は貴重だったようです。
子どもたちが遊ぶ25メートルのプール
1階から4階までが小学校、5階と7階は中学校、6階は音楽室、図書館、7階は理科室などがあったようです。
精炭を運んだベルトコンベアーの支柱
炭鉱で働くことは怪我人もたくさんでていましたので病院は生活には欠かせない施設です。
他にも娯楽施設(パチンコ、映画館など)、神社などあったそうです。
閉山後
この建物を今まで守ったとされる天川の護岸
島をぐるりと囲んでいる。石炭と赤土を混ぜ天川(あまかわ)と呼ばれるよう接着剤をら用いた石積み工法である。
ぐるりと船で一周‼️
ここから見ると‥確かに軍艦に見えます。
炭鉱から石油に代わり1974年1月15日に閉山
閉山してここに住んでいた人たちはバラバラになったようです。
その時は住んでいた方たちは寂しい気持ちと皆さん頑張ってという気持ちでここを後にされたのだろうなと‥
私が訪れたかった「軍艦島」
私の説明では
是非‼️行ってみてください。
最後に
上陸証明書をいただきました。
天候にも恵まれ上陸できたこと、無事に戻れたことに感謝して終わりにしたいと思います。