日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

明けましておめでとうございます。 「日月神示 この世と霊界の最高機密」より

2024-01-02 15:59:17 | 日月神示の研究

 

 

明けましておめでとうございます。

昨年はブログをお読みいただきましてありがとうございます。

最近は仕事が忙しくなりまして、なかなか記事をアップしておらず恐縮です。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

お正月休みでビールやワインを飲んで、ゆっくりしています。

昔の日記を読んでいると興味深いものがあったので、ご紹介します。

15年前の日記です。

「日月神示 この世と霊界の最高機密」という本を見つけました。船井幸雄先生の「180度の大激変」の中で紹介されていた内容ではないかと思い、手に取りました。目次を見ると、ユングやスウェデンボルグ、出口王仁三郎などが目に止まりました。

学生時代は社会学を専攻していたため、ユングについては学んでいましたし、当時はキリスト教徒だったため、スウェデンボルグの概要については知っていました。また、出口王仁三郎については、合気道をやっていたため、大本教の教祖であることは分っていました。「合気道開祖 植芝盛平伝」という本には、大本教の教義について理論的に書かれていました。

 早速その本を購入し、自宅に帰り、読むことにしました。霊界を探訪したスウェデンボルグやビルツェ博士、スカルソープ氏などの記述は、大変興味深いものでした。彼らが体験した霊界の様子を、中矢代表が日月神示の観点から分りやすく解説してくださっているので、グイグイと引き込まれ、2時間ほどで読みきってしまいました。

 その中で、特に印象に残った内容をご紹介したいと思います。

 スカルソープ氏が霊界で見た光景です。『友人の家の庭にはウサギがたくさんいて、私の足のまわりで遊ぶので、踏みつけないように気をつけなければならないほどだったが、同じ庭に小さなクマもいたので、私はウサギは大丈夫なのかなと心配だったが、みんな愉快そうに戯れていた。(中略)私は犬を飼ったことがないが、霊界で印象深い体験をしたことがある。あるとき土手に座っているところへ、やや大きめの犬がやって来て、私のそばに座った。その身体に手を置いたとたん、人間に近い情愛と親しみが伝わってきた。芝生にしゃがんでウサギと戯れていた時にも、可愛がってほしがる情愛に圧倒されたことがある』

 また、以下はレナード夫人の記述です。『動物でも虎だの、ヘビだのは私たちの界には棲んでいない。彼らは動物界に棲んでいて、しきりに地上の生活に憧れている。愛情に冨み、忠実性を持っている動物のみがわれわれと同居する。現に私は二匹の猫を飼っているが、多分私の若い時分に何か縁故があったものらしい。格別私は猫が好きという訳でもないのだが、どうしても去ろうとしないのだ。霊界では何人(なんびと)も動物を殺したり、喰ったりはしない』

 レナード夫人の言う内容が正しいのであれば、霊界には、動物を殺したり、喰ったりする人はいないそうです。高い霊界は、この世とはまったく違う平和で愛に満たされた世界であるといえます。

 最後に藤重千代子氏の「霊界旅行記」から、指導霊の老人の言葉を引用します。『人間でも花の好みによって、その人の霊格の高さ低さ醜さが判るのだ。常緑は神の座です。だから榊や樒(ルビ しきみ)が神仏に捧げられるわけなのだ。食物でも、着物でも、味の淡いもの、色の淡いものを好む者は、霊格が高いわけだな。色は霊の波調を表しているから、よく着物でも気をつけて、品のよい色を選ぶことだね。そうしないと自分の霊位を下げることになるからね』

 この道を歩んでいると、トマトケチャップやマヨネーズを使った味の濃い料理よりも、ご飯と味噌汁、海苔、漬物などを好むようになる会員さんが多いのも頷けます。

 中矢代表の著書は大変興味深く、賛同できる内容でしたが、以前はキリスト教の信者であったため、「生まれ変わり」については、理解できませんでした。キリスト教では地上界と霊界、天国の三階層を説いています。この世で良いことをすれば、天国に行けるが、悪いことをすれば、地獄(低い次元の霊界)に行くと教わりました。「生まれ変わり」は無く、現世が終われば霊界に行くという教義ですので、地上界を体験できるのは1回きりということになります。日月神示をはじめ神道でいう「生まれ変わり」について理解するには、1年くらいの期間を要しました。

 ただ、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教同士は、常に争いが絶えず、戦争まで引き起こしている現実を見て、一神教に対して疑問を持っていた時期なので、多神教を受け入れやすかったのだと思います(日月神示では、一神、多神、汎神といわれています。「この方一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。すべてが神ぢゃ、喜びぢゃ」(「春の巻」第二十一帖)」)。

 その後、「日月神示 ミロクの世の到来」や「日月神示 完全ガイド&ナビゲーション」など40冊以上の中矢代表の著書を読むようになり、次第に「生まれ変わり」について理解できるようになりました。

 また、「日月神示 この世と霊界の最高機密」から以下を引用させていただきます。

『「天国は霊人のみの住む処ではないぞ。そなたたちも今住んでいるでないか。霊人も現界に住んでいるでないか。現界を離れて天国のみの天国はないのであるぞ。故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理はないのぢゃ」(「白金の巻」第三帖) 

霊界とは、現界と切り離された、遠い空の彼方に位置しているのではなく、今ここに、現界において、われわれと共に存在しているという意味が、おわかり頂けただろうか。現界に肉体を持っている時でも、人は同時に霊界にも生きている。また死後に霊界に赴いても、現界との関係は切れない。』

 キリスト教では、現界がとても苦しいものであっても、良いことをすれば天国に行けると教えられましたが、上記の日月神示を読むと、地上界で天国に住んでいなければ、死んでから天国へ住むことはできないことが分ります。

 現状が不平不満だらけで、生活が苦しいのであれば、天国へは行けないということになります。このことも私にとって大きな転換点となりました。まずは日月神示で言われていることを、一つ一つ実行していこうと考えました。日月神示を読み、自分の行いをチェックし、反省すべきところはできるだけ直していこうと思っています。ただ、そう簡単にはいきませんが。一歩づつ地道にいこうと思います。

 


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聖徳太子コードを読んでみました

2023-11-13 17:29:54 | 日月神示の研究

 

 

聖徳太子コード 地球未然紀[上巻]

預言者・聖徳太子が残した「ヤマトの黙示録」
「北極星」と「北斗七星」を背負い、ダース・ベイダーのような姿であらわれた聖徳太子が
現代人に向けて放ったメッセージとは。
著者が臨死体験でかいま見た日本の歴史と人類創生の秘密。
生還後、宇宙存在MANAKAから、地球人意識を反転させるよう教育を受け、
超越空間で伝えられた聖徳太子コードを紐解くため、日本、そして世界中に残された痕跡を辿っていく。
臨死体験でのビジョンと史実を照らし合わせ、博物学的知見と宇宙視座からコードを読み解いていく、
異色の聖徳太子本。
通説とはまったく違う、日本の隠された歴史を探る上でも興味深い一冊。

目次紹介
第1章 臨死体験で見た驚愕の日本史
第2章 地球創生から宇宙へ
第3章 異次元で見た聖徳太子と4世紀
第4章 聖徳太子が生きた飛鳥時代
第5章 聖徳太子の秘策を継ぐもの
第6章 山の智慧と海の智慧をつなぐ女神
第7章 大和に集結した世界の宗教と星信仰
第8章 神の使い「牛」に乗る摩多羅神
第9章 ミロクの世とは
第10章 預言を未然に防ぐ智慧

著者 中山康直

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

月刊「玉響」で「聖徳太子コード」が紹介されていたので、読んでみました。

著者の中山さんは13歳のころ、池で溺れてしまったそうです。

それをきっかけに臨死体験をしました。

臨死体験ではプレアデス星団のアルシオーネという星座で過ごしたそうです。

アルシオーネで一万年の人生を過ごし、再び地球に戻ってきました。

不思議なことに、臨死体験中は地球での時間は10分だったとのことです。

 

様々なことが書かれていますが、以下をご紹介します。

・日本列島は、大地に輝く北斗七星にほかならず、「艮の金神」、すなわち「国が常に立つ」働きを持つ「国常立命」であり、「国と子たちの命」のこと。それが「常世」となるよう、聖徳太子は北斗七星を背中に背負い、日の本の未来を未然に知らしめていたのです。

・古代中国で北極星は「宇宙の中心」として神格化され、天皇大帝と呼ばれており、北斗七星はその乗り物であると考えられていました。これは道教思想がもとで、やがて北極北斗信仰が仏教における菩薩信仰と習合して妙見菩薩となり、妙見信仰として日本各地に溶け込んでいきます。天皇は北極星、皇太子は北斗七星であるとされてきたように、日本の精神性にも影響を与えたのです。古神道において、北極星は天之御中主紙、北斗七星は国常立命に対応しているとされます。国常立命は「艮の金神」にあたり、丑寅方向に位置する日本列島そのものを象徴しているので、北斗七星は日本を循環に導く星巡りであることを太子は意識していたのでしょう。北極星と北斗七星は天と人間の関係でもあり、分断されている宗教も星のもとでは統合せざるを得ないのです。だからこそ、太子は星祭りを復活させ、星信仰を取り戻すことをメッセージで伝えてきたのでしょう。

・聖徳太子の「ふたつをあわせ未来を未然に知らしめよ」というメッセージにある「ふたつをあわせ」とは、「相対するもの」を「一体」として結ぶ「ヤマト」となることです。そして、このメッセージには「ヤマトの未来を未然に知らしめよ」という真意が込められており、「ヤマトを体現していくことが、未来を未然に知らしめることになる」と伝えてきています。二元性の世界には、光があれば闇もあり、善があるなら悪もあるように、そもそも、どちらもあって当然で・・・・ というより、片方があることで、もう片方がなりたっているのです。つまりふたつがないと成立しません。いずれは統合するという確信に至り、二元性を超えた視座をもつ「ヤマトの体現」を成していく。これが地球新(真)時代のあたりまえの意識です。

・いまだに起こっていない「未然」と、まだきていない「未来」が「和ら(やわらぎ)の精神」という平和のもとに結ばれていくことは、過去と未来が「今」に、地球と宇宙が「ここ」で融合していくこととなり、それは、人知を超えた星の叡智により成就する「始まりと終わりの完成」なのです。自己満足が」暴走した自我満足というスケールの小さい無意味な競争や、マネーゲームはもう終わりです。地球人類が宇宙を完全に受け入れるという、宇宙全体が待ちに待った時代の到来は、「ヤマトの完成」を意味しているのです。

 

この書籍は日月神示とほぼ同じことを書かれています。読んでみて、大変気付きの多い書籍だと感心しました。知らなかったことも多く、とても学びの多い書籍でした。

 


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日月神示からみる「仕事」について

2022-11-15 05:32:15 | 日月神示の研究

 

福昌寺221031

 
昨日もさわやかな良い天気でした。

今回は日月神示にある「仕事」について考えてみたいと思います。


 

■  仕事

 日月神示の道を実践するために、滝に打たれたり、断食することは意味がないとあります。御神業とは現在の仕事をすることであるといわれています。

 

「まず己の仕事せよ。五人分も十人分も精出せと申してあろ、五人分仕事すれば判りて来るぞ。仕事とは、嘉事よごとであるぞ。仕事せよ、仕事仕えまつれよ、それが神の御用ざぞ。神の御用ざぞと申して仕事休んで狂人の真似に落ちるでないぞ。」

現在就いている仕事が御神業になります。仕事を休んで滝に打たれたりすることは、狂人のすることとあります。
日々の仕事を五人分も十人分も精出すことが大事です。実際に十人分の仕事を一人でやることはできませんが、それくらい一生懸命にやれば、道は開けてくると思います。
一生懸命仕事をすれば、会社からも認められるでしょう。そうなれば給料などの待遇も良くなります。自然と仕事が嘉事になります。また、一生懸命に仕事をすれば、仕事自体の面白さが分かってきます。これも嘉事です。

 

「取り越し苦労、過ぎ越し苦労やめて下され。地球という大船に乗って一蓮托生ぢゃ。現在の仕事が御神業と心得よ。不満を持ってはならん。そなたが招いた仕事でないか。」

 

「仕事は神が与えたり、人が与えてくれるのではないぞ。自分自身が仕事にならねばならん。この道理さえ判れば、失業はないぞ。自分が仕事ぢゃからのう」

有名な歌手や音楽家、画家などのアーティストや俳優などは、自分自身が仕事になっています。有名になるまでには苦労があったと思いますが、その後は失業することもありません。
技術を習得したり、接客などのノウハウを身に付ければ会社が倒産したとしても、別の会社で働くことも可能になります。

 

「日々の人民の御用が神の御用と一致するように努力せねばならん。一致すれば嬉し嬉しで暮らし向きも何一つ足らぬものなくなってくるぞ。食物が喜んで飛び込んでくるぞ。着るものが着てくれと飛び込んでくるぞ。住居も出来てくるぞ。心のそれぞれも同様ぞ。」


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日月神示でいう「大きな欲」とは

2022-07-03 16:23:10 | 日月神示の研究

 

  

 

■ 大きな欲

 今までの宗教は禁欲が基本でしたが、日月神示では欲自体はいいも悪いもないとあります。むしろ欲を浄化して、大深欲になることを薦めています。

 

「禁欲は神の御旨でないぞ。欲を浄化して、生めよ、産めよ。今の人民、欲の聖化を忘れて御座るぞ。欲は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。欲を導けよ。自分だけなら五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意思を知り、神に融け入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しの喜びとなるのであるぞ」

欲を聖化し、宇宙の意思を知り、神に融け入れば、大きな喜びを得ることができるとあります。欲がなければ何事も始まらないので、浄化された欲は必要です。自分の理論理屈から出る欲ではなく、魂の発現としての欲が大事です。それが宇宙の意思と合致します。

 

「そなたはまだ欲があるぞ。欲を、小さい自分ばかりの欲を捨てなされ。そしてマコトの大深欲になりなされよ。その気持ちさえ動いてくれば、何事も見事成就するぞ」

 

「それはそなたの自己欲から出ているぞ。自己欲もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。浄化して大き自己の欲とせよ。自己のみの欲となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行」

 


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日月神示から見た「お金」

2022-04-10 08:40:57 | 日月神示の研究
  • お金

今までの宗教は清貧を目指していましたが、日月神示は清富が正しいといいます。正し

い道を歩んでいけば、自然と冨に恵まれます。

 

「生活が豊かになってくるのが正しい道ぞ。行き詰まったら間違った道歩いているのざ」

 

「清くして富むのがマコトぢゃ。地も富まねばならんのぢゃと申してあろうが。これから先は、金儲けばかりもできん。今までのような、神信心ばかりも出来ん。神の道を進むものは、嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。道に外れて御座るぞ。人は罪の子ではない、喜びの子ぞ」

神の道を進むものは、嫌でもお金が貯まり、貯まらない場合は、道に外れているという見方は、理解しやすいです。

 

「金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。区別と順序さえ心得ておれば何様を拝んでもよいぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。金を拝み得ぬイコヂさが、そなたを貧しくしたのぢゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧は負け惜しみ。清富になれよと申してあろうが。清富こそ弥栄の道、神の道」

 


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神とは私たちと同等な肉体のあるヒューマノイドではないか

2020-11-29 16:26:37 | 日月神示の研究

 

 月刊「玉響」を読んで12年になりますが、11月号には興味深い内容がありました。竹内文書の研究家である三和導代先生の記事に「神とは私たちと同等な肉体のあるヒューマノイドではないか」とありました。以下抜粋を引用します。

『竹内文書の中の天皇という表記を現代の皇室を考えると大混乱が起こるのです。神という存在は目に見えない私たちとはかけ離れた存在ではなく、私たちと同等な肉体のあるヒューマノイドとして捉えて読んでいかれたら良いのではないでしょうか。我々地球人が他の星々の人々によるDNA操作によって創造された存在であるという基本的な観点から読みますと、竹内文書はとても面白いのです。高坂和導はこの考え方を50年前からずっと唱えてきましたが、一般の人々からは変人扱いをされてきました。しかし今、私は、彼の唱えてきた説、「人類の先祖は宇宙からやって来た」という歴史がやっと認識される時代になってきたのではないかという印象を持っています。

 三和先生のお勧めの本が「時間の帝国 宇宙ラストウォーbyダマヌール」です。以下目次です。

・宇宙に存在する多種多様な生命体
・神様のエッセンスが宿り命となる
・物理学の常識を超えたコミュニケーション
・宇宙を瞬時に移動するシンクロニックラインと扉
・究極の一(イチ)から想像も及ばない数の生命体が生まれる
・人間はみな違う星から来たエイリアン
・宇宙戦争から宇宙連合体の協定まで
・存続の危機にある地球という星
・5つの時の帝国とムー大陸
・シンクロニックラインを通って入植したムー帝国の人たち
・ブッダ、キリスト、マホメット、ゾロアスター、化身と呼ばれる人たち
・太陽神ラーとブラックホール
・異星の体験を共有するアストラルトラベル
・タイムトラベル、スペーストラベル、次元トラベル
・エイリアンを自分の体に宿らせ共存する
・宇宙へ旅をするアッサメン
・同盟関係を結ぶエイリアンたち
・3つの特殊なスターゲート
・エイリアンにコンタクトするための図形
・形の中に存在することは進化のための贈り物
・宇宙全体の豊かさを共有する
・魂が進化するためのチェスゲーム
・光と闇の最終戦が今
・夢を抱けなくなると死んでいく人間
・宇宙連合体の形成
・レムリア大陸とゴンドワナ大陸
・銀河帝国のルール
・アトランティスのテクノロジーの再現「プシコラボラトーレ」
・神と霊とETの分類
・ギルガメッシュからのプレゼント
.etc.

 

 宇宙には私たち地球人と似た存在がいるようです。日月神示では宇宙人については書かれていませんが、「宇宙」という言葉は出てきます。大神が自分の体の中に宇宙を造ったと日月神示にはあります。

 三和先生が言われるように、「神とは私たちと同等な肉体のあるヒューマノイド」だとすると、神観は大激変すると思います。これについては、今後も考えていきたいと思います。

 

 

    20201021182942.jpg


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悪もまた神の力の現れの一面である

2020-08-15 06:00:20 | 日月神示の研究

 

 毎日暑いですね。昨日は戸建て用パイウォーター浄水システムのカートリッジの交換で、日向先生と昆野さんと共に中矢先生のご自宅へ行きました。一年に一度交換していますが、カルキなどでカートリッジはかなり汚れていました。その後、居酒屋で冷たいビールやおいしい料理をご馳走していただきました。暑い日に飲むビールは格別ですね (^^♪

 以前中矢先生の著書をご紹介しました。当ブログでもアクセス数の多い記事ですので、再度アップしたいと思います。

 

中矢伸一先生の著書より引用。

『そもそも「善」と「悪」というのは、何なのか。どういう基準で分かれるのか。善悪という捉え方は、ある一面から見た一つの見え方、現れ方であって、別の側面から見たり、一段上から見たりした時には、いちがいにそうは言えない場合が多く、極めて主観的なものである。
 日月神示にはそこのところが、端的な表現をもって喝破されている。読者はよくご存知のように、「悪を滅ぼす」という考え方そのものが誤りなのであり、「抱き参らせる」ことによって初めて消えるのだ、というのである。
 「悪」もまた神の現れであり、「悪」があるからこそ「善」が弥栄え、生長する。
 ”神の意思”として伝達されたこの考え方は、私にとって大きな衝撃だった。私がひそかに考えていたことが、ズバリと表現されていたからである。

 拙著「日月神示・二日(じし)んの巻」(KKロングセラーズ刊)で述べたように、日月神示の善とか悪とかいうものに対する概念は、シンプルではあるが、既存の宗教、とくに西洋で受け入れられている代表的宗教には見られないものである。そしてそれは、スウェーデンボルグの教説と、驚くほどの類似性をみせている。
 善と悪は、絶妙なバランスの上に成り立っている。左手と同じ長さだけ右手があるように、善と同じだけ、これに相応する悪が存在する。これは「善悪の均衡(もしくは平衡)」と呼ばれる。
 また、われわれ地上人の言う善とか悪とかいうものは、神の目からはないのだという。神から離れた、悪そのものの悪というものは、存在しない。地獄も同じである。相対から見た「地獄的現れ」はあるが、本質的には「地獄」はないのであり、地獄に行く者にとってはそれは地獄ではなく、天国なのだという。
 神は歓喜そのものであり、大宇宙は、善と悪の大いなる均衡のもとに、永遠に進展し、弥栄えゆく。
 そうしたことを、同著にまとめたわけであるが、改めて一部を抜粋してみよう。

 「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」(「地震の巻」第九帖)

 右の神示からもわかるとおり、神とは善であり悪である。また、真でもあり偽でもある。大宇宙はその大いなる平衡、つまりバランスにより成り立っているという。われわれ地上人は「善悪の均衡」の中に生きて(生かされて)おり、そこにこそ、地上人として生を享けた意義があるのである。
 私も過去に何度が引用しているので、読者諸氏にとってはご存知の神示であるかも知れないが、ここのところは非常に重要な部分なので、今一度よくお読み頂きたい。
 善のみの善、悪のみの悪というものはない。善悪ともの弥栄えるのが大宇宙の仕組みなのであり、ここに、「悪を抱き参らせる」ことの必要性が生じてくる。』



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水野南北 『相法修身録』

2011-02-20 22:47:51 | 日月神示の研究
 久しぶりに水野南北の言葉を読んでみました。全てはできていませんが、半分くらいは実践できるようになったように思います。日月神示の道を歩むようになってから肉食は止めました。もう2年半になりますね。最近は玉子や乳製品も直接は食べなくなりました。パンなどに入っている玉子や乳成分は摂っています。魚は週に1、2度くらい食べています。

 通常はご飯と野菜、豆腐、海草、漬物、味噌汁です。江戸時代の食事のようですが、これがとにかく美味しいのです。ただし、野菜自体が美味しい必要があります。自分で無農薬で大根や白菜、人参、小松菜、ほうれん草などを作っていますので、野菜自体がとても美味しいため満足できるのだと思います。

 以前は江戸時代の人々はずいぶん貧しかったのだろうなと思ってましたが、最近は現代人より豊かだったのかも知れないと思うようになりました。縄文人もかなり豊かだったそうですね。毎日無農薬の生命力ある野菜を食べていれば、マヨネーズやケチャップや異常に辛い、甘いものは、刺戟が強すぎて、あまり美味しく感じなくなってしまいました。最近は鰹だしもあまり使わなくなってきました。最近どんどん江戸・縄文化しています。


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水野南北 『相法修身録』                 


○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。

○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。

○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。

○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。

○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。

○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
 悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。

○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。

○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。

○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。



 *ここのところ、仕事に追われていてブログの更新もあまりできておらず、恐縮です。土日も休まずやってるのですが、まだまだ終わりません。次から次と仕事が出て来ますので、先が見えません。
 ただ、「仕事命ぞ」と日月神示にあるように、仕事をいただけることはありがたいと思い、感謝しています。仕事が無いことこそ、とんでもなく大変なことです。以前リストラされたことがありましたが、簡単には表現できないくらい大変です。リストラされたことのある人しか解らないと思います。(無理に解る必要はありませんが)
 勤め人だったころは、結構手を抜いても何とかなってましたが、今はそういうわけには行きません。どっちが幸せかといえば、当然今の忙殺状態のほうがいいです(笑)。やらされているという感情がないのがいいです。自分で頑張ったら、結果としてすごく忙しくなったということですから。

 3月も既にかなりスケジュールは埋まっていますが、どれもワクワクするような仕事ばかりです。そう言いながら、また次を企画してますので、自業自得です。今年から一名仲間が増えたので、その人が仕事を覚えてくれれば、かなり楽になります。そうすれば、また次の企画も実行できますので、益々面白くなっていくと期待しています。


コメント (3)
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あの世とこの世の違い

2009-08-14 20:54:49 | 日月神示の研究
<記事転載>

 続・「生前葬」が未来を開く

                        近藤洋一 

 今回の生前葬では約1時間、儀式を行いました。この1時間、死者は棺桶に入り、静かに瞑目(めいもく)することになります。棺桶の中は非常に狭苦しくて、こんなところで1時間も身動きせず、じっとしていられるのかなと懸念していたのですが、死んでみると、意外や意外、心身とも非常に楽だったのにはびっくりしました。
 前々日、目の上を五針縫う怪我をして、目の辺りが腫れていたのですが、式が終わると腫れが引き、みんなにびっくりされました。棺桶の中が特別の波動で満たされた“共鳴場”になっていたようなのです。
 杉浦和尚の読経と鐘の音、参列者の集合意識などが共鳴し、非常に精妙な振動数をもつエネルギー場ができあがっていたのだと思います。とにかく超リラックスの場といってよい気持ちの良い1時間の棺桶体験でした。
 この模様につきましては、後日バンクシア・ブックスでご紹介させていただく予定をしています。
 ここでは当日、息子の太郎が読み上げた遺言状をご紹介させていただくことにいたします。式の模様をイメージしていただければ幸甚です。

遺言状
 あの世に旅立つにあたって、一つの言葉をプレゼントしたいと思います。
 それは『超』という言葉です。『超』というのは『超えていく』ということを意味しています。この言葉は21世紀をイキイキ楽しく生きる上で大切なキーワードになるでしょう。
 チャレンジPPKは20世紀の常識を超えていくことが出発点になりますが、これには少し注意が必要です。大切なことは常識を超えていくことであって、常識を『否定』することではありません。
 20世紀には20世紀の常識がありました。20世紀の社会を維持していくためには、20世紀の常識が必要だったのです。今でも多くの人が常識を支えとして生きています。
 常識を否定すると、大多数の人を否定することになります。だから常識を否定してはなりません。ただ超えていくのです。
 『千里の道も一歩から』です。目標が大きければ大きいほど、目指すところが高ければ高いほど、『いまここ、この現実』を肯定することからスタートする必要があります。
 これからは特に、人間関係が大切になってきます。充実した人生に恵まれるかどうかは人間関係が大きなカギを握っています。相手の人を肯定し、思いやる習慣を身につけるならば、君の中にある『利他の心』が目覚め、人生を成功に導いてくれることでしょう。
 このことを明確にして、目の前にやってきたことを誠心誠意こなしていくことです。
 的に当てよう、当てようとしなくても、的は向こうからやってくるものです。
 宇宙と一体となって進みましょう。君が発振する響きが、自然の摂理にかなうものであればあるほど、宇宙とともに進化することになります。
 次に、なぜ20世紀の常識を超えていく必要があるのか、その意味を解き明かしておきましょう。
 人生は誕生するところからスタートします。赤ちゃんが生まれるとみんな大喜びします。
 誕生日はおめでたい日なのです。しかし『誕』という日本語には『偽りの』という意味があります。日本人は生まれたその日から、無意識の中に、人生は偽りなのだという観念を刷り込まれて、生きている可能性があります。歳をとればとるほど、お誕生日がめでたくない日になっていく理由も、日本語の中に隠されているのです。
 日本語にはまだ謎があります。死ぬ日が『命日』と命名されていることです。人は死んで初めて『イノチ』になるということだとすると、生きているときの『イノチ』は一体どうなっているのでしょうか?
 人は間違ってこの世に生まれてきて、死んで初めて本来の『イノチ』に帰るということが言霊として、日々使われている以上、人生には意味がないということになります。
 これが20世紀の常識だったのです。人生最大の落とし穴といってよいと思います。
 人生は幻』という言葉があります。実在しているように見えるけれども、実在していないものをさす言葉、それが幻です。ほとんどの人が『人生は幻』ということに何となく納得しているのは、すべて日本語に由来しているように見えます。
 だから『人生は偽り、人生は幻』なのです。
 まだあります。亡くなる前のことを『生前』と言いますが、『生まれる前』とは何を意味しているのでしょうか? 生前葬とは、『偽りの人生』に終止符を打ち、新しいピカピカの命としてよみがえることと定義したいと思います。
 日本語に隠された謎を明らかにし、与えられた『イノチ』を日本語の呪縛から解き放つことで、充実した人生が始まることになります。
 日本人の先輩の素晴らしいところは、人生のもっとも大切なことに気づくよう、日本語の中に謎として残しておいてくれたことだと思います。
 このような先輩の暖かい配慮に報いるためにも、21世紀を言葉の呪縛から解放される世紀としたいものです。
 チャレンジPPKの果たすべき役割はまさにこの点にあります。
 「私たちは間違って生まれてきたのではありません。『イノチ』を完全燃焼させることによって、人生をイキイキわくわく楽しみ、宇宙と一体となって進化・成長していくならば、『この世も天国、あの世も天国』になるのです。天・地・人、一体となって、素晴らしい響きを響き渡らせましょう。
 この世の仕組と、あの世の仕組をしっかりと理解し、真実の姿を悟るならば、私たちは『イノチ』そのものとなり、光り輝く存在になるのです。」
 『イノチ』が『イノチ』に帰るのですから『死』は存在しないことになります。『死』とは魂が肉体という〈この世の着物〉を脱ぎ捨て、裸になって、すぐ隣の『あの世』に帰っていくことを意味することになります。扉を開ければすぐそこが『あの世』なのです。
 『この世とあの世』の関係を明確に認識し、自分が生まれてきた意味を知るなら、君はいままで不可能と思われていた能力、いわゆる『超能力』が当たり前のこととして身に付き、20世紀の常識では思いも及ばなかった『超人』として、多くの人を泥沼から救出することのできる存在となることでしょう。
 21世紀とはそんなすごいことが当たり前になる世紀なのです。
 以上、『あの世』に旅たつにあたっての贈る言葉といたします。
 最後になりますが、皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。名残惜しいのですが、お先に失礼致します。またお会いする日を楽しみにしています。
 2009年6月28日
                       近藤 洋一

<転載終わり>
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 生前葬とはなかなか面白いことを実践してると思いました。また、「『死』とは魂が肉体という〈この世の着物〉を脱ぎ捨て、裸になって、すぐ隣の『あの世』に帰っていくことを意味することになります。扉を開ければすぐそこが『あの世』なのです。 」という説明もその通りだと思います。

日月神示でも同じことを言ってます。

「地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思えるほどである」(『地震の巻』第八帖)


「霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。住宅は、その住む麗人の生命の高低によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりはない。ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校など、あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらのすべてが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。」(『地震の巻』第十五帖)


 この世とあの世はほとんど同じ世界のようです。ということは、死とはあの世に移動するだけということかも知れません。

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「物事は全て表裏一体である」  THE PROPHET(預言者)より

2009-07-18 10:58:39 | 日月神示の研究
 THE PROPHET(預言者)』という90年近く前(1922年)にアメリカで発売された本について、船井本社の秘書の相部多美氏が評している文を読み、人間や世の中の真理について語られていると感じました。
 とても深い内容であり、次元の高い真理だと思いました。

「喜びと哀しみはいつも一緒にやってくる」

「かつてはあなたを悲しませていたものが今は、喜びになっている」

「かつては喜びであったことに、今は涙を流している」

「このうえなく自由な者が、その自由をまるで手錠や足かせのように思っている」

「捨て去りたいほどの、煩わしさは、背負い込まされたものではなく、自らが選択したもの」

「自由がその足かせとなるものを失うとき、今度はその自由自身が、より大きな自由にとっての足かせとなる」

 平易な例えではありますが、なるほど言われる通りだと感じました。物事は全て表裏一体なのかも知れません。日月神示で言っている「光と影」、「善と悪」との関係にも似ていると思いました。悪を殺すのではなく、悪を抱き参らせよ、悪を改心させよということと同じ意味だと思いました。
 
 昨日は、以前仕事上の方針の違いで仲たがいした方と、渋谷の喫茶店でとても楽しいひと時を過ごしました。今後はまたビジネスで協力して行こうという話しになりました。ビジネスが進展することも嬉しいことではありますが、それ以上に、今まで不仲だった方と和解できたことが嬉しく思いました。しかもその方とは、その仲たがい以前は、とても仲良くなってましたので、ようやくまた戻ったという経緯です。
 お恥ずかしい話しですが、今思うとお互いの主張がぶつかってしまい、決裂してしまいましたが、5年間という時を経て和解に至りました。その間お互い反省したということです。頭を冷やして考えたともいえます。

<記事転載>
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『THE PROPHET』

 私は6月上旬に、明日7月7日に書店に並ぶ『二つの真実』(ビジネス社刊)の原稿を脱稿しました。
 その直後、友人から、この本を監訳しないかといって『THE PROPHET(預言者)』という90年近く前(1922年)にアメリカで発売された本が送られてきました。
 この本の著者は48才で亡くなり、同書を書いたのは、彼が多分39才くらいの時だと思うのですが、本に書かれている内容が、最近の私の考え方とほとんど同じと言ってもいいほどよく似ていました。
 そこで、喜んで監訳を引きうけたのです。
 6月23日に「監訳者の解説」を書き終り、6月25日に出版社(成甲書房)に原稿を渡したのですが、8月のお盆あけには書店店頭に並ぶと思います。
 以下は6月19日に書いた同書の「まえがき」に当る「監訳者のことば」です。                           


【監訳者のことば】
                   
私は感動して読みました                         船井幸雄

 本書は世界的に有名な本です。
 アメリカの知識人家庭には、必ず一冊以上あると言われており、欧米やアラブ諸国では著者の名前と本書の題名(日本語訳では『預言者』)は、よく知られています。
 本書は、1923年に英語で書かれ、“THE PROPHET”の題名でアメリカで発刊されましたが、すでに20ヵ国語以上に訳され、数十ヵ国以上で2000万人以上の人に読まれていると言われています。いまなお読者がふえつづけています。
 著者カリール・ジブランは1883年にレバノン北部の村ブシャーレで生まれました。     
 生家が豊かでなく、というよりも貧しかったため、彼は11歳の時に母や兄妹とともにアメリカのボストンに移住しました
 その後、14歳の時に一時レバノンに帰国、ベイルートで4年間の高等教育を受けたあと、19歳の時にボストンにもどったのですが、母親と兄妹が悲劇的な死をとげた事情などがあり、精神、物質面の苦労とともに多感な青少年時代を過ごしたようです。
 彼は画才に恵まれ、少年時代にまず画家として出発しましたが、やがて詩作や文筆の才を発揮しはじめました。22歳の時にアラビア語で書いた散文詩が文筆家デビューのきっかけです。アタマの良い多才な人だったと思われます。
 彼を有名にしたのは本書“THE PROPHET”ですが、英語での主著は7冊あり、アラビア語での著作も多数あります。
 本書は、彼が15歳の時にレバノンで、アラビア語で草稿を書いたと言われており、のちに1920年から1923年までの3年にわたって、時流と考え方をとことん推敲して書きあげたのはまちがいないようです。
 ちょうど、この本が出版された1923年当時、彼は画家としても詩人や作家としても絶頂期にあったようです。本書内の画をご覧ください。また英語の文体も最高レベルという評価をされています。
 彼にはすばらしい恋人や苦しい愛がありました。それに加え、霊的に敏感な体質だったと思われます。また非常にアタマが良く、いろんなことを論理的に理解できた人のようです。
 病身だった彼は、1931年、ニューヨークで、結核と肝硬変で48歳の若さで故人となりました。
 本書内の「アルムスターファ」と実在した人間だったカリール・ジブランとの関係、オルファリーズの町の人々と彼らのアムルスターファへの態度、そして迎えに来た船…などが意味することをお考えになりながら、ぜひ本書の訓(おし)えをおたのしみください。私は感動して本書を読みました。
 なお本書につきましての私の感想などは、本書末に記します。

           2009年6月19日朝、東京都内のグランドプリンスホテル内の一室で
                  監訳者記(転載ここまで)

 同書は読めば読むほど味が出る本で、考えさせられますが、生きることに安心します。すばらしい著作だと思います。
 なお、船井本社の秘書室で英語など語学の得意な相部多美さんに「どう思う」と言って6月24日に同書を渡しました。もちろん英文の原本です。
 以下は彼女の感想文です。なお彼女は日本語訳は読んでいないと思います。あわせて御一読ください。




 『船井会長は400冊近くの本を書いておられますが、英語の本を監訳したものはなかったようです。これだけ多くの本を、書いておられるので、いままでにも監訳の話があったようですがお受けしていなかったようです。今回は先日亡くなられた七田眞先生と、太田龍先生とも親交が深い方から依頼されたということで、引き受けられたようです。
 ハードカバーの原著『THE PROPHET』を渡され、船井会長が初めて監訳をされた本ということで、興味を持ちました。縦26cm横20cm、厚さ2cm、84ページで構成されています。著者の描いた12枚の美しいイラストが随所にあり、高貴な絵本のような印象を受けました。さほど難しくない英単語でできているように見え、簡単に訳せるかと思いました。しかし、読みはじめると、哲学的な内容であったため腰を据えて、じっくり読むことにしました。詩的な文章で抽象的な表現もあり、西洋の宗教観がベースにあるようで、日本語に訳すのに少々難を感じました。ちなみに「預言者」とは「神の代弁者」の意味があり、「未来を語るもの」を意味する「予言者」とは異なります。
 アルムスターファという預言者が、異国の地オルファリーズで故郷へと帰る船を12年間待ち続け船が迎えに来た日に、その町の人々との質問への答です。巫女、学者など様々な人が「労働について(On Work)」、「友情について(On Friendship)」など人生に関する26の普遍的な事柄に関して預言者に質問を投げかけます。それについて、預言者は深く静かに簡潔に真理を説いていきます。26の項目からその時、自身の心が共鳴するものを選んで読むと、胸に響くものがあると思います。
 女性という視点から、愛(On Love)、結婚(On Marriage)、美(On Beauty)について関心をもちました。そして個人的には、自由(On Freedom)、苦しみ(On Pain)、死(On Death)について関心を持ちました。「物事はすべて表裏一体である」ということや、「孤独」、「悲愴感」というものを本を読んで感じました。
 例えば、喜びと哀しみはいつも一緒にやってくるので、決して切り離して考えることはできない。喜びは悲しみの素顔。笑いの湧き出る井戸は、涙で溢れる井戸でもある。悲しみがあなたの存在を深く、えぐればえぐるほど、そこに喜びを満たすことができる。葡萄酒を受ける杯は、かまどで焼かれた杯。心を癒す楽器も、小刀でくりぬかれた木。
 嬉しい時に、自分の心の奥を覗き込むと、かつてはあなたを悲しませていたものが今は、喜びになっていることを知るでしょう。悲しくてどうしようもない時、心の奥を覗くと、かつては喜びであったことに、今は涙を流していることに気づく。喜びも悲しみも連れ添っているので、喜びが悲しみに優るとも、またその逆とも言えない。
 生命の中に求めてこそ、死の答えを見つけることができる。死について知りたいのであれば、精一杯生きること。夜目が利くフクロウは昼間は盲目であり、闇について話すことはできても、日差しの神秘を知ることができず、光について話すことはできない。川と海が一つであるように生と死は一つのもの。どちらか一方しか知らずして、もう一方をも知ることはできないのだと思いました。

 このうえなく自由な者が、その自由をまるで手錠や足かせのように思っている。自由になれるのは、自由を求める気持ちが足かせだと知り、自由が目的地ではないと気づく時。日々の労苦、困窮、悲歎が消える時ではなく、それらが取り巻いていても縛られなくなる時。昼に心配し、夜に悲しむことがあってこそ、自由になれる。
 捨て去りたいほどの、煩わしさは、背負い込まされたものではなく、自らが選択したもの。振り払おうとする不安も、自分自身の中にあるもの。望んだもの、忌み嫌ったもの、愛しんだもの、求めたもの、逃げたいもの、これら全てのものが絶えず、光と影のように絡み合い対になっている。影が消える時、残った光は新たな光のための影となるでしょう。自由がその足かせとなるものを失うとき、今度はその自由自身が、より大きな自由にとっての足かせとなる。
 苦しみの多くは自ら選んだもの。自身の中の内なる薬師が病んでいる自分を癒そうとして盛った苦い一服。薬師を信じ、その薬を沈黙と静穏のうちに飲み干しなさい。その手がどんなに耐えがたく厳しくみえても、実際は見えない優しい手で導かれている。薬師が差し出した杯で唇を焼いても、それは神聖な涙で濡らした粘土でこしらえたもの。
 というように、著者特有の比喩表現で分りやすく、美しく深く真理を表現しているので、心に沁み渡りました。
 信仰(宗教)についてなど難しくみえたテーマに関しても、何度も読み返したくなるようなハッとする表現で書かれていました。道徳を極上の着物と思って身にまとう者よりは、むしろ裸のままでいるほうが良い。真の自由には止まり木や、金網は必要ではない。毎日の生活が信仰であり、神殿である。もし神を知りたいのなら、謎を解こうとするのではなく、自分の周囲を見渡すこと。
 師は弟子に知恵を授けているのではなく、信念や愛を授けている。賢明な師は、自分の英知の住処へと呼び寄せるのではなく、あなた自身の英知の扉へと導くでしょう。天文学者は、宇宙に関する知識を話すことはできても、それをそのまま与えることはできない。音楽家は歌って聴かせることはできても、リズム感や声を他者に享受することはできない。数学者は度量衡の世界について語れても、そこへ導けない。自分の翼を他の者に貸すことができないように、物事の捉え方はその人だけのもの。人は皆一人で立っている。
 孤独を恐れ、耐えきれなくなる時、人は唇に居場所を求める。孤独の静けさが丸裸の自分をむき出しにするため、一人が怖くて話し相手を探す。しかし多くを語る時、思考は止まる。思考は空間に生きる鳥、言葉の籠のなかではその翼を広げても飛べない。
 いつの時代も、性差、国境を超えて人は皆、物事に意味を見出そうとし、教えを乞うのだと思いました。そして預言者、アルムスターファ自身も孤独であるように人は皆、孤独なのだと思いました。
 その孤独を拭ってくれそうな結婚に関して、夫婦は共に生まれ、常に一緒ですが、束縛せぬよう空間を保ち、神殿を支える柱のように、近づきすぎず共に立っていなさい。弦楽器の弦が、それぞれ一本ずつ張られていながら、共鳴して一つの曲を奏でるように、という文章があり、理解が深まりました。
 「預言者」と言えば「10年来、金融・経済を語ってきたが、そろそろ預言者になろうと思う。占い師や呪い師が世の中で大切である。金融や経済の先読みは、近未来予測であり、まさしく占いだからである」と述べている副島隆彦先生を思い出しました。
 そして、預言者になろうとしている副島先生が船井会長のことを、近未来予測をすることができる占い師であり、呪い師だと述べています。船井会長は、経済予測から、自己啓発、哲学的な話もするので、預言者なのかもしれません。いつの時代も姿、形を変え預言者は存在するのだと思います。
 この本と、船井会長の発言では類似点があるようにみえました。例えば、オール肯定、プラス発想、必要・必然・ベストという言葉。自分の置かれている現状や境遇が苦々しく思えたとしても、それは必要・必然・ベストであり、ピンチはチャンスであること。
 今を精いっぱい生きることで、今はまだ見えていない対にある何かを見出せる。これも、船井会長の言う「目の前にある仕事を一生懸命にやろう」ということに通じるのではないかと思いました。
 病を知ることで、健康のありがたさを知り、老いを知ることで若さの尊さを知るように、全ては表裏一体なのだと再認識しました。失ってはじめて気づく、だいじなものがあります。失った時は既に遅く、後悔は先に立たないので、大切なものを失わぬよう日々現状や周囲に感謝して、今を精いっぱい生きてみようと思いました。
 機会があれば、原著もお読みください。今回、原著を読ませていただき、原文で読み、感じることの良さを経験させていただきました。また、どんな日本語訳の本になるのか大変たのしみです。
 美しい言葉で綴られた、美しい本を読むことができたことに感謝いたします(転載ここまで)。』






 カリール・ジブランというすばらしい人がおり、“THE PROPHET”はすばらしい著作です。
 日本語版が出たら、よろしく。
                                          =以上=
-----------------------
 ●船井幸雄.com
  http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200907002

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