船井幸雄にんげんクラブに、中村天風氏が敗戦国の民間人であるにもかかわらず、米軍の将校たち250人を前に、教えを説いたことが載ってます。敗戦国の民間人が戦勝国の高級将校に、教えを説くなとどいうことは、その当時はありえないことだったそうです。
<記事転載>
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「最近参考になった本」
2009年4月28日
船井幸雄
3月末から4月にかけて、私は具体的に中村天風さんの生き方、
考え方を書いた本を数冊読みました。
2月から3月にかけて『聖書の暗号』
の本を読み、研究していましたが、
「聖書の暗号」の中に私と天風さんとの関係が出ており、
どうしても天風さんの思考や行動のポイントを知りたかったからです。
それらは、天風会から1988年に出た『天風瞑想録』を筆頭に、
おおいみつる著『ヨーガに生きる』(‘88年 春秋社刊)や天風さんの著書の『安定打坐考抄』
(’65年 天風会刊)をはじめ、天風さん述の『成功の実現』(‘88年刊)、
『盛大な人生』(’90年刊)、
『心に成功の炎を』(‘94年刊)などの日本経営合理化協会刊の本などです。
この天風さん述の本は、それぞれ400ページを超える大著です。
おかげで、ヨーガの考え方、天風さんの生涯、思考法や行動のポイントを再認識しました。
というより、心底からよく理解しました。
というのは1980~95年にかけて、天風さんのことを、かなり研究していたからです。
理由は天風さんの高弟であった山中さん(松屋、東武百貨店などの社長、会長だった人)や
上原国男さん(そごう美術館の館長だった人)から
「船井先生は天風さんそっくりですよ。どうしてこんなに似てるのかな」とよく言われ、
多くの資料などをいただいたからです。
ところで今回、天風さんの本などを、あらためて読み、
私が昔は、天風さんの真に言いたかったことを、一つも分っていなかったことが分りました。
今度は、はっきり分ったと思っています。
というのは以前の私は、健康で、人生苦をあまり経験していなかったからです。
天風さんの思考、行動は彼の病気の経験を知らねば分らないということも、
ここ2年余の自分の病気からはっきり分りました。
ここで、中村天風さんとは、どんな人かを少し述べておきます。
1876年(明治9年)生まれで、1968年(明治43年)に亡くなられた人で、
日本人ではじめてヨーガの悟りを得た武人、気の達人、哲学者と言ってもいいと思います。
接する人をすべて感動させたと言われています。
前述の、おおいみつる著『ヨーガに生きる』の中には以下のような文があります。
昭和二十二年、秋のことであった。
敗戦からちょうど二年、いまだ日本の国内はその混乱がつづき、
極端な食糧不足に悩まされていた。
人々は食べる物を求めて闇市に群がり、
住むところとて焼け跡の仮住まいがつづくという具合いであった。
そうした時に、東京の中心街とも言うべき有楽町で、一見奇妙なと言うか、
当時の世相からはおよそ考えられぬ、一つの集まりがあったのである。
それは、占領軍である米軍の将校たちが、一人の日本人を招いて、
ある種の勉強会のようなものを開いたのであった。
この頃の有楽町界隈は、主要な建物はすべて接収され、
マッカーサーの司令部をはじめとし、対日理事会や豪軍その他の司令部も置かれ、
帝国ホテルは彼ら専用の宿舎であったし、劇場とて、主だった劇場はほとんど彼らが使用していた。
したがって、街は米軍などの将兵でいつも溢れていたのだが、
彼らの豊かさにくらべ日本人の汚ない復員姿などは、いかにもみすぼらしいものであった。
その惨めさは、物の貧富という面だけでなく、精神的にも勝者と敗者の差は歴然たるものがあった。
「日本人の精神年齢は、十三歳」
などと言われても、反論の一つも出ないという無気力さで、とにかく、
この頃の日本人は、物心ともに打ちのめされた状態に置かれていたのであった。
そうした世相の中で、劣等民族、と彼我ともに認めていた日本人から、
米軍の将校たちが何かを学ぼうというのは、ちょっと聞いただけでは、
奇妙な現象としか映らなかった。
まして、人間観・世界観について教えを乞うなどということは、
誇り高き戦勝国の軍人と、敗戦国の民間人という、その立場だけを考えても、
本当とは思えなかったのである。
それが、佐官以上の高級将校多数を前にして、
小柄な一人の日本人が、諄々(しゅんしゅん)として人間のあり方を説いたのだから、
当時としては、まったく破格と言うほかはなかったのである。
ヨーガという言葉が日本で一般的になったのは、戦後のことで、
それ以前には、専門家ならともかく、ほとんど知られてはいなかった。
しかし欧米では大正時代からすでにかなり知られていたのであった。
それは、ラマチャラカなど有力なヨギが、インドから欧米に渡っていたからだが、
それでも、禅と同じように、東洋の神秘的な哲学との印象は深かったであろうし、
したがってその理解にも手を焼いたであろうことは容易に察しがつく。
そして、日本へ進駐して来た米軍将校の中にも、ヨーガの体験者はいたであろうし、
また関心を抱く人もいたにちがいない。そしてその有志たちが、
関東に進駐していた米第八軍の司令官アイケルパーカー中将を動かし、
日本にただ一人存在するヨギ、中村三郎を招いてのヨーガ勉強会を開くまでになったのである。
それにしても、インド人や欧米人の講師を招くというならともかく、
日本人から教えを受けようというのは当時の雰囲気からして、
これもかなり勇気ある決断であったと言ってよい。
対日理事会にはインド人もいたことであるし、
アメリカにはヨーガの教師はいくらでもいたのである。
講習会は連日、二百五十人からの将校たちが熱心に受講した。
会場は高級将校のクラブとなっていた毎日ホールであった。
毎日ホールは有楽町駅のすぐ前にあった。今日では、そのすべてが移転して、
有楽町界隈には、新聞社は一社もなくなってしまったが、以前は、有楽町と言えば、
まず活字とインキの匂いが漂う街であり、大きな輪転機の回るさまが、
外からもよく見えたものである。
その毎日ホールでの講習も、七日目を迎え、次第に佳境へと入っていった。
中村三郎は、若い頃、コロンビア大学の医学部に留学しており、
英語の方はきわめて堪能であった。
とは言っても、長い間会話は遠ざかっているから、聞きにくいところはあったであろうが、
それでも、歯切れのよい日本人的な発音が、
むしろこうした種類の内容とは合っていたのかもしれない。
なかなか好評だったのである。
また、聞き手の質もよかった。有志の軍人はもちろん、総司令部や各軍の司令部には、
哲学的造詣の深い文官や、東洋文化を専門とする学者なども配属されていたから、
それらの参加者も、俗語(スラング)とはあまり縁のない人々であった。
こういう人々には、古典的な正統英語が向いていたのであろう。
(転載ここまで)
皆さんもよろしければ、ぜひ前述の本のうち1冊くらいはお読みください。
ただ、まず『成功の実現』、『盛大な人生』から読まれるのをお奨めします。
これらは次元のちがう天風さんの考え方が、だれにも易しく読める本だからです。
=以上=
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<記事転載>
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「最近参考になった本」
2009年4月28日
船井幸雄
3月末から4月にかけて、私は具体的に中村天風さんの生き方、
考え方を書いた本を数冊読みました。
2月から3月にかけて『聖書の暗号』
の本を読み、研究していましたが、
「聖書の暗号」の中に私と天風さんとの関係が出ており、
どうしても天風さんの思考や行動のポイントを知りたかったからです。
それらは、天風会から1988年に出た『天風瞑想録』を筆頭に、
おおいみつる著『ヨーガに生きる』(‘88年 春秋社刊)や天風さんの著書の『安定打坐考抄』
(’65年 天風会刊)をはじめ、天風さん述の『成功の実現』(‘88年刊)、
『盛大な人生』(’90年刊)、
『心に成功の炎を』(‘94年刊)などの日本経営合理化協会刊の本などです。
この天風さん述の本は、それぞれ400ページを超える大著です。
おかげで、ヨーガの考え方、天風さんの生涯、思考法や行動のポイントを再認識しました。
というより、心底からよく理解しました。
というのは1980~95年にかけて、天風さんのことを、かなり研究していたからです。
理由は天風さんの高弟であった山中さん(松屋、東武百貨店などの社長、会長だった人)や
上原国男さん(そごう美術館の館長だった人)から
「船井先生は天風さんそっくりですよ。どうしてこんなに似てるのかな」とよく言われ、
多くの資料などをいただいたからです。
ところで今回、天風さんの本などを、あらためて読み、
私が昔は、天風さんの真に言いたかったことを、一つも分っていなかったことが分りました。
今度は、はっきり分ったと思っています。
というのは以前の私は、健康で、人生苦をあまり経験していなかったからです。
天風さんの思考、行動は彼の病気の経験を知らねば分らないということも、
ここ2年余の自分の病気からはっきり分りました。
ここで、中村天風さんとは、どんな人かを少し述べておきます。
1876年(明治9年)生まれで、1968年(明治43年)に亡くなられた人で、
日本人ではじめてヨーガの悟りを得た武人、気の達人、哲学者と言ってもいいと思います。
接する人をすべて感動させたと言われています。
前述の、おおいみつる著『ヨーガに生きる』の中には以下のような文があります。
昭和二十二年、秋のことであった。
敗戦からちょうど二年、いまだ日本の国内はその混乱がつづき、
極端な食糧不足に悩まされていた。
人々は食べる物を求めて闇市に群がり、
住むところとて焼け跡の仮住まいがつづくという具合いであった。
そうした時に、東京の中心街とも言うべき有楽町で、一見奇妙なと言うか、
当時の世相からはおよそ考えられぬ、一つの集まりがあったのである。
それは、占領軍である米軍の将校たちが、一人の日本人を招いて、
ある種の勉強会のようなものを開いたのであった。
この頃の有楽町界隈は、主要な建物はすべて接収され、
マッカーサーの司令部をはじめとし、対日理事会や豪軍その他の司令部も置かれ、
帝国ホテルは彼ら専用の宿舎であったし、劇場とて、主だった劇場はほとんど彼らが使用していた。
したがって、街は米軍などの将兵でいつも溢れていたのだが、
彼らの豊かさにくらべ日本人の汚ない復員姿などは、いかにもみすぼらしいものであった。
その惨めさは、物の貧富という面だけでなく、精神的にも勝者と敗者の差は歴然たるものがあった。
「日本人の精神年齢は、十三歳」
などと言われても、反論の一つも出ないという無気力さで、とにかく、
この頃の日本人は、物心ともに打ちのめされた状態に置かれていたのであった。
そうした世相の中で、劣等民族、と彼我ともに認めていた日本人から、
米軍の将校たちが何かを学ぼうというのは、ちょっと聞いただけでは、
奇妙な現象としか映らなかった。
まして、人間観・世界観について教えを乞うなどということは、
誇り高き戦勝国の軍人と、敗戦国の民間人という、その立場だけを考えても、
本当とは思えなかったのである。
それが、佐官以上の高級将校多数を前にして、
小柄な一人の日本人が、諄々(しゅんしゅん)として人間のあり方を説いたのだから、
当時としては、まったく破格と言うほかはなかったのである。
ヨーガという言葉が日本で一般的になったのは、戦後のことで、
それ以前には、専門家ならともかく、ほとんど知られてはいなかった。
しかし欧米では大正時代からすでにかなり知られていたのであった。
それは、ラマチャラカなど有力なヨギが、インドから欧米に渡っていたからだが、
それでも、禅と同じように、東洋の神秘的な哲学との印象は深かったであろうし、
したがってその理解にも手を焼いたであろうことは容易に察しがつく。
そして、日本へ進駐して来た米軍将校の中にも、ヨーガの体験者はいたであろうし、
また関心を抱く人もいたにちがいない。そしてその有志たちが、
関東に進駐していた米第八軍の司令官アイケルパーカー中将を動かし、
日本にただ一人存在するヨギ、中村三郎を招いてのヨーガ勉強会を開くまでになったのである。
それにしても、インド人や欧米人の講師を招くというならともかく、
日本人から教えを受けようというのは当時の雰囲気からして、
これもかなり勇気ある決断であったと言ってよい。
対日理事会にはインド人もいたことであるし、
アメリカにはヨーガの教師はいくらでもいたのである。
講習会は連日、二百五十人からの将校たちが熱心に受講した。
会場は高級将校のクラブとなっていた毎日ホールであった。
毎日ホールは有楽町駅のすぐ前にあった。今日では、そのすべてが移転して、
有楽町界隈には、新聞社は一社もなくなってしまったが、以前は、有楽町と言えば、
まず活字とインキの匂いが漂う街であり、大きな輪転機の回るさまが、
外からもよく見えたものである。
その毎日ホールでの講習も、七日目を迎え、次第に佳境へと入っていった。
中村三郎は、若い頃、コロンビア大学の医学部に留学しており、
英語の方はきわめて堪能であった。
とは言っても、長い間会話は遠ざかっているから、聞きにくいところはあったであろうが、
それでも、歯切れのよい日本人的な発音が、
むしろこうした種類の内容とは合っていたのかもしれない。
なかなか好評だったのである。
また、聞き手の質もよかった。有志の軍人はもちろん、総司令部や各軍の司令部には、
哲学的造詣の深い文官や、東洋文化を専門とする学者なども配属されていたから、
それらの参加者も、俗語(スラング)とはあまり縁のない人々であった。
こういう人々には、古典的な正統英語が向いていたのであろう。
(転載ここまで)
皆さんもよろしければ、ぜひ前述の本のうち1冊くらいはお読みください。
ただ、まず『成功の実現』、『盛大な人生』から読まれるのをお奨めします。
これらは次元のちがう天風さんの考え方が、だれにも易しく読める本だからです。
=以上=
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