日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

日月神示をより深く学ぶための古神道の智慧セミナー PART 1

2008-11-15 22:06:27 | 日月神示の実践
 今日は待ちに待った船井ビジョンクリエイツさん主催の、中矢伸一氏による古神道の智慧セミナーが、品川のイーストワンタワーで開催されました。12:00からスタートでしたので、早めのお昼ご飯を自宅で食べてから出かけました。
 11時半くらいに会場に着いたのですが、既に7、8名の方々が来ていました。なるべく前のよい席を確保したいと思い、前から2列目に座りました。定刻の12時少し前から中矢伸一氏のセミナーが始まりました。参加者は大体30名くらいだったでしょうか。みんな熱心に聞き入っていました。ざっと見たところによると、男性が40%、女性が60%くらいの比率だと思います。
 先ずは、10月12日に開催された船井幸雄オープンワールドにて、3300人でひふみ祝詞を奏上できたことは大変意義深いことであったと、言われました。
 また、その時会場にいたT少年は、霊能力を持っていて、人のオーラを見ることができるとのことです。黒いオーラが一番よくないオーラで、赤や茶色もあまりよいオーラではないそうです。オレンジや黄色などの明るい色は、OKとのことです。また、一番よい色のオーラは白とのことでした。船井幸雄オープンワールドの会場にいた人たちのオーラは、黒は一人もいなかったそうです。ということは、参加していた私も息子も、オーラは黒ではなかったということのようで、少し安心しました。
 ただ、そのT少年が言うには、日本人の90%以上の人が、オーラの色は黒だとのことです。ということは、90%以上の人は、一番悪いオーラということです。T少年の霊能力がどれくらいかは、定かではありませんが、日本全体はかなり良くない状況のようです。ある意味では末期的とも言えると思います。
 その後、セミナーが進んでいきましたが、私は今までに中矢伸一氏の著書は8冊読んでいたので、セミナーの内容は大体理解できました。ただ、著書には書かれていない重要な内容もありました。簡単にまとめますと、以下の通りになります。

・麻賀多神社の天の日津久神社は、有志によりコンクリートで作られた

・中矢伸一氏以外で、日月神示を世に出そうとした人が過去に2人亡くなった

・日月神示の道とは、地道な努力しかない

・江戸時代の神道界では、国常立尊が人気があった

・坂本竜馬はフリーメーソンといわれている

・長崎グラバーはフリーメーソンで、薩摩藩や長州藩に武器を売った

・明治維新を実現した人たちは、みんな唯物主義者

・日月神示は、本来は天皇家に降ろされる予定の神示だった帝王学である。

・神社の神域に、犬などのペットは入れない。鳩や鳥が屋根にいるのはOK

・神には左が主体、右が従。手水やでは、左手から洗う

・国常立尊を祀る神社はあまりない。根津神社とあきる野市の二ノ宮神社。

・神社での祈りでは、自分のことはあまり祈らない。日本、世界が良くなるよ
 うに祈る。

・産土神(うぶすなかみ)には毎月定期的にお参りする(1日と15日とか)

・神社はイヤシロチ(聖地)である

・すずめは本能的に玄米を先にだべる。白米は後で食べる。

・神棚を自宅に作った場合、いつまでも榊が枯れないという不思議な現象がたまに ある。

・神棚の方角は関係ない。どっち向きでもOK。

・東西南北の方位も関係なし。大安、仏滅も関係なし。

・人を褒めること、感謝することが大事。

・宇宙からのエネルギーは日本に多く来る。

・宇宙からのエネルギーは、先ず富士山に来る。

・日本はアメリカの属国なので、そこから脱却が必要。

・アメリカの力が弱くなってきた。

・日月神示では、百姓から出直せとある。

 最後に、アンケートを記入しましたが、その際にこのブログのことを書きました。自分はyasaiという名前で、ブログをやっているが、中矢伸一氏の著書の引用が多いので、何か問題等があれば、是非ご指摘くださいと記入しました。 

 また、定刻を少し過ぎて、セミナーは終了しました。その後、隣の部屋で、お茶会が開催されました。中矢伸一氏を囲んで、お茶を飲みながらの懇談会となりました。
 12名くらいの方々が参加されましたが、何と高知県から来られたという方もおられました。また、8月、9月に開催された富士山バスツアーに参加された方々が、今回古神道の智慧セミナーにも多く参加されているとのことで、みなさん既に顔見知りの間柄のようでした。来年2月に開催される伊勢神宮参拝ツアーにも、既に申し込みをされている方も5名ほどおられました。
 みなさん、大変熱心に中矢伸一氏にいろいろと質問をされていました。中矢氏は一つ一つ丁寧に回答しておられました。
 中矢氏が言われるには、船井幸雄オープンワールドで、3300名でひふみ祝詞を奏上した効果が、思わぬところで出てきているとのことです。重要な内容ですので、ここで記載することはできませんが、いずれ時が来れば、中矢氏が発表されると思います。まさに神の力が発揮された結果であると、考えざるを得ない内容です。今後も、3300人のひふみ祝詞の効果が、様々な形で現れて来ると思います。
 今日は12名という少人数で懇談をさせていただき、大変勉強になりました。また、みなさんの人となりを知るに付けて、我れ善しではないことが、特に印象に残りました。今日は自分にとっても大変心に残る一日となりました。ありがとうございました。
 

 ●二宮神社 ご祭神 国常立尊
  http://www.tachikawaonline.jp/city/view.php?area=1&id=179&mode=details
コメント (4)
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谷口雅春氏 「副守護神」について

2008-11-13 07:56:51 | 日月神示の研究
 生長の家の創立者の谷口雅春氏は、このように言われています。
 『副守護神が改心し、先天的憑依なる正しき守護神が吾々の肉体を守護するようになると肉体の精神状態がすっかり浄化され、嗜好も一層人間らしくなります。鎮魂の主要目的は副次の憑霊を改心せしめて、正位の守護神の主権を恢復(かいふく)することであって、その目的さえ達すれば、一切の病癖は随伴的に回復します。従って病癖に対する対症的暗示若しくは説得は不要であります。鎮魂帰神の施法中審神者(さにわ)は決して酒を飲むな、淫欲を貪るな、四足獣(よつあし)の肉を食うななどと、憑霊に対して命令はしませぬ。しかし霊が帰順すれば何の暗示も与えずに大酒が飲めなくなり、淫欲は恬淡(てんたん)となり、四足獣の肉などは全然食べられなくなります。単に大本の名称を聞いただけで霊が帰順してそれ以後肉を食べれば忽ち(たちまち)三日位下痢を続けて消化器を洗濯される人などもあります。それ故霊が帰順すれば霊そのものが神界の規則に従って生活して行くから、何の暗示も説得もなくして獣肉類が食べられなくなるのです。吾々の現在意識は憑霊の意識との複合せるものでありますから、憑霊が肉を食べたいと思えば自分が肉を食べたくなり、憑霊が手淫をしたくなるならば自分が手淫をしたくなるのであります。自分が肉を食べたいのであるか、狐が肉を食べたいのであるか、自分は人であるのか、人が狐であるのか-大抵の人はそうした倒錯した生活を送っています」(『神霊界』第八十九号)

 これに対して、中矢伸一氏はこのように言われています。

「谷口雅春氏ほどの人物であっても、初期の頃は狐霊などの低級霊に憑依され、想念を狂わされていたのである。
 現代の人間は、とくに副守護神の活動が旺盛で、外流の影響を強く受けており
(ほとんど外流の渦中に生きているといってよい)、同一波調を持つ低級な霊界(粗雑で、歪んだ波調を持つ世界)との感応を起こしやすい状態にある。
 現代人では、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言いすぎではないだろう。
 副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。
 このため、副守護神が活発に働いている人が多い社会は、物質的な生産活動や経済活動が促進される。そういう社会的傾向が主流になると、文明は著しい発達を見ることになる。
 しかしその反面、霊的(精神的)な向上への道は閉ざされ、高級なる霊界からの直接的な流れである正流が受けられないため、いつまでたっても正守護神に復帰できず、ましてや本守護神にまで位が上がることなどは不可能となる。
 副守護神により生み出された文明は、短期的には目覚しい発展を見せるが、やがて行き詰まり、悲惨な末路を辿ることになる。(中矢伸一氏著 「日本はなぜ神道なのか」)

 谷口雅春氏が師と仰ぐ大本の出口王仁三郎聖師が言われるには、「正守護神とはその人の霊魂が、高度な霊界からの直流的な正しき流れを受けるときは善なる霊、すなわち正守護神となり、本来神より天国の御用に奉仕する目的で与えられた肉体の正しき主となる。一方、低級な霊界からの歪んだ外部的流れを受けるとき、その人の精霊は悪霊、すなわち副守護神となる。」とのことです。

 出口王仁三郎聖師や、谷口雅春氏が言われるように、現代人は、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言いすぎではないとのことです。ということは、自分の感情だと自分で思っていても、背後では低級霊が発している感情ということになるのでしょうか。例えば過食の人の食欲は、低級霊の食欲が大きく影響しているということにもなるかと思います。
 また、「副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。」ということであれば、自分の感情といっても、低級霊に操られているということになるのでしょうか。
 以前はハムやメンチカツなどは好きだったのですが、その食欲は低級霊のものだったということになるのでしょうか。
 肉食を止めてから100日が過ぎましたが、今は全く肉を食べたいとは思いません。ということは、肉が好きな低級霊たちが、私から去ってくれたということなのでしょうか。目に見えない世界のことですので、何も科学的に証明はできませんが、出口王仁三郎聖師や谷口雅春氏が言われるのであれば、真理である可能性はかなり高いと思います。自分の感情が実は、自分の感情だけではなかったというのであれば、とても気持ち悪い状態です。なるべく早く低級霊には出て行ってもらいたいものです。こういった低級霊を祓うということも、身魂磨きになるのではないかと思います。



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日月神示にもとづく身魂磨きの十ヶ条 「身」

2008-11-12 07:52:23 | 日月神示の実践
 ◆「身」を養うための十ヶ条
 ①穀物・野菜類を中心に
 ②身土不二(地場産、国産)
 ③農薬、化学肥料、添加物の少ないものを
 ④よく咀嚼する(四十七回噛んでから呑む)
 ⑤一日二食、腹八分
 ⑥朝は日の出とともに起き、夜は早めに寝る
 ⑦日拝をする
 ⑧排毒の力のあるものを摂る
 ⑨適度な運動(とくに歩くこと)
 ⑩良い補助食品を摂る

 この中で、⑤の一日二食というのは、一般常識からすると、間違っているように思われます。特に朝食を抜くと、脳にブドウ糖が行かなくなり、頭がボーっとして、仕事にも勉強にも悪影響が出るという説です。この説に真っ向から反論しているサイトがあります。無断転載禁止のサイトですので、URLだけお教えします。

 ●1日2食健康法
  http://www.2shock.net/

  早速メルマガに登録しました。肉食の禁止だけでなく、魚、卵、牛乳まで禁止
 しています。理論的に整理されているので、とてもためになります。おすすめで す。

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日月神示にもとづく身魂磨きの十ヶ条 「魂」編

2008-11-11 09:02:06 | 日月神示の実践
 10月12日に開催された船井幸雄オープンワールドで、中矢伸一氏が講演されました。その中で、日月神示にもとづく身魂磨きの十ヶ条を、教えていただきました。

◆「魂」を磨くための十ヶ条

 ①常に感謝と反省を忘れない
 ②自分にふりかかる一切のものは最善と思え
 ③境遇に不足を言わず、今を足場として生きる
 ④人の五倍、十倍働く
 ⑤行動をもって祈りとなす
 ⑥良いと思ったら直ちに行い、悪いと思ったらすぐやめる
 ⑦逆境にある時はメグリ解消のチャンス
 ⑧心配はするな、心は配れ
 ⑨整理整頓、掃除を心がける
 ⑩心静かに、神と波長を合わせる時間を持つ

 この十ヶ条を実践していくには、大なり小なりハードルがありますが、②番の「自分にふりかかる一切のものは最善と思え」というのは、特にハードルが高いと思います。人生には、いろいろと災難や厄介なことも起こりますので、これを全て最善と思えれば、達人の域に到達できたと言えると思います。
 今日から、これらを日々心がけて、少しづつでも実践して行きたいと思います。

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日月神示ではこの世の「悪」をどのように解釈するか

2008-11-10 12:30:00 | 日月神示の実践
 中矢伸一氏はこのように言われています。

『そもそも「善」と「悪」というのは、何なのか。どういう基準で分かれるのか。善悪という捉え方は、ある一面から見た一つの見え方、現れ方であって、別の側面から見たり、一段上から見たりした時には、いちがいにそうは言えない場合が多く、極めて主観的なものである。
 日月神示にはそこのところが、端的な表現をもって喝破されている。読者はよくご存知のように、「悪を滅ぼす」という考え方そのものが誤りなのであり、「抱き参らせる」ことによって初めて消えるのだ、というのである。
 「悪」もまた神の現れであり、「悪」があるからこそ「善」が弥栄え、生長する。
 ”神の意思”として伝達されたこの考え方は、私にとって大きな衝撃だった。私がひそかに考えていたことが、ズバリと表現されていたからである。

 拙著「日月神示・二日(じし)んの巻」(KKロングセラーズ刊)で述べたように、日月神示の善とか悪とかいうものに対する概念は、シンプルではあるが、既存の宗教、とくに西洋で受け入れられている代表的宗教には見られないものである。そしてそれは、スウェーデンボルグの教説と、驚くほどの類似性をみせている。
 善と悪は、絶妙なバランスの上に成り立っている。左手と同じ長さだけ右手があるように、善と同じだけ、これに相応する悪が存在する。これは「善悪の均衡(もしくは平衡)」と呼ばれる。
 また、われわれ地上人の言う善とか悪とかいうものは、神の目からはないのだという。神から離れた、悪そのものの悪というものは、存在しない。地獄も同じである。相対から見た「地獄的現れ」はあるが、本質的には「地獄」はないのであり、地獄に行く者にとってはそれは地獄ではなく、天国なのだという。
 神は歓喜そのものであり、大宇宙は、善と悪の大いなる均衡のもとに、永遠に進展し、弥栄えゆく。
 そうしたことを、同著にまとめたわけであるが、改めて一部を抜粋してみよう。

 「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」(「地震の巻」第九帖)

 右の神示からもわかるとおり、神とは善であり悪である。また、真でもあり偽でもある。大宇宙はその大いなる平衡、つまりバランスにより成り立っているという。われわれ地上人は「善悪の均衡」の中に生きて(生かされて)おり、そこにこそ、地上人として生を享けた意義があるのである。
 私も過去に何度が引用しているので、読者諸氏にとってはご存知の神示であるかも知れないが、ここのところは非常に重要な部分なので、今一度よくお読み頂きたい。
 善のみの善、悪のみの悪というものはない。善悪ともの弥栄えるのが大宇宙の仕組みなのであり、ここに、「悪を抱き参らせる」ことの必要性が生じてくる。』

 今まで日月神示を研究して来た中で、この善と悪の内容が一番難解です。神は全知全能であり、善のみの存在であるというのが、一般的な考えのように思いますし、私もそのように考えていました。ところが、「悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である」という神示から察すると、神にも悪なる部分があるということになります。神に悪なる部分があるという考え方は、初めて聞きました。これはなかなか違和感のある内容です。中矢氏もここのところは非常に重要と言われていますので、今後実践して行きながら、考えていきたいと思います。
コメント (2)
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言葉を慎むと運が開ける

2008-11-09 11:39:42 | 日月神示の実践
 中矢伸一氏はこのように言われています。

 『今の時代の日本人は、言葉の乱れもさることながら、使う言葉の量も多過ぎ、表現形態もあからさまに過ぎるように思われる。本来であれば、余計な言葉を要さずとも、お互いに十分に分かり合え、争いごとや訴訟騒ぎなども一切起こらないというのが神の臣民である。
 戦後からこれまでは、誠の心がなくとも口八丁、手八丁の者が世にのしあがり、良い目見ていた時代であったかも知れない。ビジネスの世界でも、交渉上手の者、タフ・ネゴシエーターが尊重されたし、今後もそういう人が成功すると思われている。
 だがこれからは、単に言葉だけ巧みであっても、いかに交渉上手であっても、けっして道は開けない時代に入っていくことだろう。肝要なのはただ「至誠の心」一つである。
 われわれは、もっともっと言葉を慎まねばならない。「食」を慎むことと「言」を慎むことで、運は開けると神示にはある。

 「運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい」(『冬の巻』補帖一帖)

 「口上手 身振り上手で誠ないもの、この方嫌いぢゃぞ」(『梅の巻』第二十四帖)

 拙著『日月神示・死者の書』(徳間書店)でも述べたように、高級な霊界に行くほど、言葉は少なくなっていくことが知られている。そのことは、日月神示のみならず、スエーデンボルグの霊界論や、大谷司完の霊界探訪録(『天使の声』)にも共通して示されている真理である。
 人間においても、霊格が高くなると、もの静かになり、あまり言葉を多く用いなくなるもののようである。霊性が高まるごとに、一つひとつの言葉が清らかで美しく、丁寧で、重要な意味を持っているという姿に、段々と近づいていくのだ。
 ゆえに「おしゃべり」には霊格の高い人はいない。交渉に長けていることは、外国では都合がいいかも知れないが、真正なる日本では通用しないのである。
 今の日本は外国並みになってきているが、これからは言葉が”宝”として慎まれ、尊ばれる時代になっていき、やがては再び「言霊の幸わう国」と呼ばれるようになるであろう。』(中矢伸一氏著 「日月神示 弥栄への道標」より)

 日月神示によれば、食を慎んで、言葉も慎めば、自ずと運が開かれて行くとのことです。腹八分にして、しゃべり過ぎないようにすれば、運が上がって行くなどどいうことは、どの本にも書いてないので、当然知ることもできませんでした。今後は、腹八分にして、おしゃべりを封印することによって、どれだけ運が上がっていくかを実践して行きたいと思います。変化が現れて来たら、また報告したいと思います。

 「だがこれからは、単に言葉だけ巧みであっても、いかに交渉上手であっても、けっして道は開けない時代に入っていくことだろう。肝要なのはただ「至誠の心」一つである。」
 今の世の中は、口が上手くて押しの強い人が会社でも社会でも何かと得をしていますが、これからはそんな姑息な手段は通用しなくなるということが、嬉しく思います。よく言われるように、真面目で正直者が馬鹿を見る世の中というのが、おかしいとは誰しも思っていますが、実際は真面目な人が割を食っています。これからは、ようやくまともな世の中になって行くのだと思うと、大変嬉しく思います。

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合気道と宗教  

2008-11-09 11:18:56 | 日月神示の研究
 白光真宏会のAKIKOさんから合気道開祖 植芝盛平翁先生と白光真宏会創立者の五井 昌久氏との親交をご紹介いただきましたので、こちらでもご紹介したいと思います。大変興味深い内容です。



 『合気道と宗教』


    五井 昌久



 「神はからいによる植芝翁との対面」


先日合気道の創始者、植芝盛平翁が、東京神田の講演会場に、私を尋ねておいでになった。植芝先生には、私も以前から一度お目に掛りたいと思っていたのですが、先日光和堂から出ている合気道という本を見て、この方には是非お会いしたいと、改めて思ったのです。
ところがこの想いが、数日をいでずして直ちに実現して、神田での対談になったのであります。この対談までの経過は偶然のようでいて、実に微妙なる神はからいによって進められていったのです。
それは、私が合気道の本を読んだ明くる日、出版の方の人に、私の著書を植芝盛平先生に御送りしておいて下さい、植芝先生は神の化身のような立派な人だから、と申しておいたのです。そうしますと、出版の方で早速送本するつもりで宛名を書いているところへ、林さんという婦人が見えられて、ふとその宛名を見て、"あら植芝先生なら、私の主人が大変ご懇意にしております"といわれたので、そこにいた会の理事の人が、"うちの先生は植芝先生に一度お目にかかりたい、と申されているのですよ"と軽い気持でいったのだそうです。
すると林夫人は、 "そうですか、五井先生と植芝先生がお会い出来たら、私共も大変嬉しいし、きっと双方に善い事になります。私帰って主人から植芝先生にそう申し伝えましょう" と勇んで帰ってゆかれたのですが、その翌日道場に電話を掛けてよこされ、 "主人が早速植芝先生に五井先生の御心をお伝え致したところ、一ケ月も前から、自分の会いたい人から迎えがくる筈だが、いったい誰れが使いしてくるのか、と思っていたところだったが、その使いはあなたでしたか、すぐにでも市川へ伺いましょう、と申されている" という事でした。そこで私は、わざわざ市川へお出向き下さるのも大変だから、神田の会の日にお出掛け下さるように、とお答えしておいたのであります。そして対談という事になったのです。
この経過は偶然にしては、あまりにも、すべて調子がよくゆきすぎております。たまたま見える人が、その封筒の宛名を書いているときに行き合わせる等というのは、偶然としてはあまりにも偶然過ぎますし、私の存在を知らされた植芝先生が、一ケ月も前から私との対面が判っていた、というのも、偶然とはいいがたい事であります。
こうした神はかりによって、植芝先生と私が対面したのでありますが、 "やあ、いらっしゃいませ" "やあ、今日は" といわぬ先きから、二つの心は一つに結ばれて、私は植芝先生という人格、否、神格がすっかり判ってしまったし、植芝先生も、私のすべてがお判りになったようでありました。
あまりお話はなさらないという先生が、心から嬉しそうに打ちとけて、私の講演が始まる六時までの二時間を、その時間を超えてもまだお帰りになる気持にはなられなかったろうと思われる程に親しまれて、"またちょいちょい伺います"といわれて帰ってゆかれたのであります。



 「合気とは我即宇宙たらしめる道である」


この日の植芝先生のお話や、合気道についての本から得た私の感じでは、合気道という武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無礙(むげ)の動きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。空を行ずるという言葉をいいかえれば、自我の想念を無くするということであります。
植芝盛平翁は、この真理を、身をもって悟り、身をもって実際に行じておられるのですから、私が偉大な人と思い、お会いしたい、という気になったのです。
植芝翁の言葉をそのままお伝えすると、
…… 合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(註: 神道の真理の言葉)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。 ……
といわれるのであります。これが神の言葉でなくて何んでありましょう。この言葉は全く、宗教の道そのものの言葉であります。こうした言葉が理論的な頭や、言葉だけの言葉になって説教されたら、その言葉に生命がないのでありますし、折角の真理の言葉も、人の心を打たずに済んでしまうのですが、植芝翁の場合は、この言葉の通りに実行されているのであり、何者にも敗れたことの無い実績を残しておられるのですから、感動させられるのです。
私はこの言葉を書きながらも、非常な感動で胸が熱くなってくるのです。



 『神の化身 ~ 植芝翁』


植芝翁は確に神の化身であります。その神の化身は非常に謙遜であって、肉体身としては、自分の子供に等しい(翁は明治十六年十一生、私は大正五年十一月生)無名の宗教者のところへ、ご自分の方からお出掛け下さって、"これからは先生の働き時、私はお手伝いになりましょう。"
といわれるのですから、益々そのお心が輝やくのです。
こうした心はなかなか得難いものであります。いたずらに尊大ぶり、唯我独尊を誤り思って他を弱小視したり、常に他教団との勢力争いをしたりしている宗教者は、慚愧(ざんき)すべきでありましょう。
宗教者は、まず愛の心が深くなければなりません。調和精神が深くなければなりません。勢力を争う想いや、建物の立派さ、信徒数の強大さを誇る想いが、少しでもあるようならばその宗教主管者は、本物ではありません。
この世は神の世界であって、業想念の世界でも、自我欲望の世界でもありません。すべて神のみ心の如く成っている世界なのであります。神の大経綸は、着々として行われているのであります。
自己が自我欲望の中に住みながら、神の使徒である、と思おうとするのは、泥田の中にいて体を洗っているのと等しいのです。自我欲望とは、愛の心を乱し、大調和の心を乱す一切の想念行為であります。これはいくら声に出ずる言葉でいっても駄目なのです。実際に心に想い、行為を行じなければ駄目なのであります。
植芝翁と私の対談中、ある霊能の開けた人が、傍にいたのですが、その人の心には、二人の姿が、すっかり透明に見えたそうですが、それは、翁にも私にも自己の我というものが全くないから、想念の波をその霊能者に感じさせずに透明に見えるのです。
翁の姿を私が観ていますと、植芝翁という肉体人間の姿はなく、神道に記されてある、ある有名な神の姿がそのまま口をきいておられるのです。これは翁に自己の我の想念が全くないという事で、神の化身として働いておられる証拠であります。
翁の合気は、一度に何人の相手でも投げ飛ばす事も出来るし、何百貫の重量の物でも、平気で持ち上げる事が出来るという事であります。
こうした時には、翁の空(くう)になった肉体身をこれも神道に記されているある武の神が働かせて為させるのであります。
お目に掛からぬ前から私はそれを知っていましたが、お会いしてみて、その原理を改めてはっきり知ったのです。(後略)



高橋英雄 編著『武産合気』より



本会と(財)合気会の関係


参考文献
合気道と宗教
神の化身
~植芝盛平翁を称う~
植芝盛平翁の昇天


参考図書
『武産合気』
(高橋英雄 編著)
白光出版ホームへ


●合気道と宗教 五井昌久氏
  http://www.byakko.or.jp/2_goi/goiphoto/goi_ueshiba_aiki.html

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日本一の霊峰・富士山について

2008-11-08 22:29:39 | 日月神示の研究
 中矢伸一氏が船井ビジョンクリエイツ社のサイトで、コラムを書かれています。

  http://www.funaivisioncreates.com/De_Column.cfm?ID102=3&ID=1
  

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ブタがいた教室

2008-11-08 21:07:37 | 日月神示の実践
 11月1日から「ブタがいた教室」という映画が上映されています。実話を元にして製作された映画とのことです。新任の教師が学級で豚を飼って、大きくなったらみんなで食べようということで子豚を育て始めました。Pちゃんと名づけられた子豚は子供たちみんなから、愛されて、可愛がられて育ちました。そして2年半が経ち、子供たちが卒業する段階になり、最初の約束通りに食べようということになりましたが、かわいそうだから食肉センターには連れていかないで欲しいという意見と、約束通り食べようという意見とが、真っ二つに分かれました。
 最初は子供たちも大きくなったら、みんなで食べようということで、始めましたが、実際育ててみれば、かわいくなりとても殺して、食べるなんてできないとなったわけです。家で飼っている犬や猫を食べるようなものですから、子供たちが殺さないで欲しいと言うのも当然のことだと思います。
 結局当初の約束通り、食肉センターで、肉になってしまうわけですが、実話での本人である先生が、テレビで語ったことには、食肉センターに連れて行ったことが、本当に正しかったかどうかは、今も悩んでいると言ってました。テレビで、一般の子供やその父母たちに、食肉センターに連れていったことは正しかったと思うか、間違っていると思うかをインタビューしました。すると、肉にしたのは間違っているという意見と、仕方ないという意見とが出ていました。どちらの意見が正しいかは誰も判定できないと思いますが、日月神示でははっきりされています。

 「四ツ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ」

 ●ブタがいた教室
  http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=8782

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合気道部50周年記念

2008-11-04 22:23:18 | 日月神示の実践
  

昨日は、大学時代の合気道部創部50周年の記念演武会が、12時半より白金の本校の道場で行われました。先輩方も全国から70名ほど参加されました。初代の先輩が創部してから、50年が経ったわけですが、改めて歴史と伝統の重みを感じました。
 先ずは、現役が基本技、自由技を披露しました。片手持ち、正面打ち、正面突き、横面打ち、後ろ両手持ちなどの基本技・自由技を次々と決めていく姿を見ると、当時のことが懐かしく思い出されました。私の現役時代は、週に6日間も稽古をしていましたから、毎日合気道漬けになっていました。今となればよい経験ですが、当時は稽古がきつくて、逃げ出したい毎日でした。
 現役の演武の次は、養神館の師範先生方の演武が始まりました。千田師範先生、千野師範先生による、模範演武をご披露いただきました。師範先生の演武は、学生の合気道とはまた次元の違う演武でした。技のキレ、奥深さ、気のタイミングなど、我々には遠く及ばない技の連続でした。
 養神館は合気道開祖植芝盛平翁先生の弟子であります、塩田剛三先生が初代館長を務められていました。当時は武蔵小金井に本部道場があり、私も何度か木曜日に開催される「黒帯会」に参加しました。塩田館長先生から、直接技をご指導いただいたことが、私の何よりの宝となっています。塩田館長先生の技は、まさに神業だと思えました。とても凡人には理解できない技でした。
 その塩田剛三先生の先生が、合気道開祖の植芝盛平翁先生です。先日も書きましたが、植芝盛平翁先生が師事していたのが、大本の出口王仁三郎聖師です。

『後に世界救世教を創立する岡田茂吉、生長の家を創立する谷口雅春は、共に大本時代は王仁三郎の下で熱心に活動した人であることはよく知られている。大本からはまた、神道天行居(てんこうきょ)を創設する友清歓真(よしさね)、日本心霊科学協会を設立する浅野和三郎、あるいは、合気道の創始者・植芝盛平などそうそうたる人物が出ており、大本という霊的磁場の巨大さと、出口王仁三郎という人物の底知れなさに、今さらながら驚く思いがする。』』(中矢伸一著 「日月神示 弥栄への道標」より)

 合気道は純粋な日本の武道です。その合気道の真髄は、大本から来ました。これからは、単に合気道を稽古するだけではなく、大本や日月神示を学び実践するということも、必要だと思いました。開祖植芝盛平翁先生は、合気道の稽古と共に、出口王仁三郎聖師からその教えをいただいておられたのだと思います。外的には合気道の稽古、内的には大本の実践。これら内外がバラバラではなく、渾然一体となって、行われるのが合気道の本当の稽古ではないかと今は思っています。学生時代の稽古では、大本のことは何も考えずに実践していましたが、これから合気道の稽古をする場合には、大本や日月の教えを根底に持って、やってみたいと思います。別な何かを掴めるかも知れません。

 ●合気道開祖 植芝盛平翁先生
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3


 ●植芝盛平翁先生の演武
  http://jp.youtube.com/watch?v=QLK9UA6kmY4
コメント (5)
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