コメント
ねじりまんぽ
(
caramelpapa
)
2012-04-19 19:20:07
北九市内には
あとひとつ小倉にあるそうです
うろおぼえですが
西鉄折尾の赤煉瓦で見ていた。
(
hobashira
)
2012-04-20 09:14:46
caramelpapaさんへ、おはようございます。
「ねぎりまんぽ」を知ってた?
聞いたことがあるんですね。
私は初めてなんですが、
以前、撮った西鉄折尾の三連アーチの写真を見たら、
内部の赤煉瓦は斜めに捩れて積まれていました。
その時は不思議に思ったのだろうな!
(でも、記憶にないです。
)
小中高と折尾ですから
(
caramelpapa
)
2012-04-20 18:52:06
と云っても
「ねじりまんぽ」は
ここ二十年くらいだと思います
折尾の橋本食堂(天狗屋)が
巷で話題になってきてからくらいかな?
この皇后崎の物は
ALL-A blog で知りました
http://allxa.blog114.fc2.com/blog-entry-527.html
たぶん
出来た当時はかなりのド田舎
しかも人道であろうものが
ねじりまんぽだったって事が
いろいろ想像させてくれますよね
こんばんは~♪
(
ゆめ吉
)
2012-04-20 21:32:39
地名だけは知ってますが、実際には行った事ない所ばかりです。
八幡方面は、門司港に比べたら垢抜けてるわ。
街並みも綺麗だし、羨ましいわ!
西鉄の皇后崎変電所は、もうすぐ100歳とは驚きました。
今でもバリバリなんですね。
近代化産業遺産に登録されてるなんて知らなかったです。
「ねじりまんぽ」分かりましたよ~!
昔の技法は大したもんですよね。
赤煉瓦の橋って好きだなぁ。
というか「赤煉瓦」そのものが好きなのかも知れないわ。
門司港も沢山、赤煉瓦が残っていますから・・・
私も知らない街を色々紹介して下さってありがとう~♪
謎の橋?
(
hobashira
)
2012-04-20 22:12:02
caramelpapaさんへ、今晩は!
「ねじりまんぽ」は、折尾に人には馴染み深いんですね。
ALL-A blogさんのも見ました。
この橋、考えたら不思議ですね。
第一、この川(用水路?)は橋が出来た時から、
ほぼ同じ状態だと思う。
川幅は2m位、橋の幅も5m位。
こんな立派で頑丈な橋が、何故必要だったのか?
川(用水路?)に対して、斜めに架けられています。
橋の上に建物が建っていたと言う話もあるようで、
何方か、謎を解いてもらいたいです。
「ねじりまんぽ」を探せ!
(
hobashira
)
2012-04-20 22:36:56
ゆめ吉さんへ、今晩は!
確か、八幡の地名は、大体読めると言ってた(書いていた)?
「皇后崎」も読めますね。
この変電所、ただ古いだけが取り得だと思うが、
だから、近代化産業遺産に登録されている。
(こんなこと言ったら、怒られそう!
)
「ねじりまんぽ」、この写真で分りましたか、
実物を見たいのなら、ここはゆめ吉さんには危険で無理だから、
JR折尾駅前の旧西鉄駅の三連アーチを見に行くといいです。
去年行った時、ちょっと変わってるなぁ!で撮っていました。
写真を見たら、ホント見事な「ねじりまんぽ」です。
数ヶ月前の事、全く忘れていた。
赤煉瓦橋梁を・・・
(
momomama
)
2012-04-20 22:41:23
hobashiraさん こんばんは。
好きになられて嬉しいなぁ~
だってJRウオークされてると見る機会も多いでしょう?
相当な鉄ちゃんとお見受けしますから 必ずや赤レンガ橋梁お好きなはずです。。。
>『皇后崎のねじりまんぽ橋』
残念ながら行ってないけど知ってましたよ~
何せ 教科書に載ってるからね。。
hobashiraさんの写真で確認できますよ・・
当時の技術屋さんは素晴らしいですね。
先日 桜まつりの終わった皇后崎公園と
チューリップ祭りの終わった直方 チラッと行きましたよ~
ねじりまんぽ!?
(
春休みのデッサン室
)
2012-04-20 23:13:00
つくづく思いますが、habashiraさんの
ブログ記事って、貴重ですね。
八幡のことがもんとうによくわかります、
っていうか、ありがたいですね。
「ねじりまんぽ」、ひとつ賢くなった感じです。
そう言えば、茶屋町橋梁もなんか造りのこと
看板にあった気がしますが、「ねじりまんぽ」は
ずいぶん珍しそうですね。
当時の技術は、
(
hobashira
)
2012-04-20 23:33:38
momomamaさんへ、今晩は!
「鉄ちゃん」?とんでもない、ただの「もの好き」です。
赤レンガの橋梁は鉄道(旧九州鉄道)に多いですね。
この「皇后崎のねじりまんぽ橋」も、何か関係あるかも?
この橋のこと、知ってたんですか、
でも、行かない方がいいと思いますよ。
高い金網があって、(一箇所入れる所があるが、)
中は草がボウボウで、川(水路)は上から深いです。
要するに、危ないです。
それにしても、『ねじりまんぽ』って、初めて聞く言葉で、
茶屋町や尾倉の橋梁の『イギリス積み』も、
当時の技術は、ホント素晴らしいですね。
『ねじりまんぽ』は関西に多いらしい
(
hobashira
)
2012-04-21 00:12:11
春休みのデッサン室さんへ、今晩は!
『ねじりまんぽ』、私も初めて聞く言葉です。
『ねじり』は、『捻り』で分るが、『まんぽ』は?
調べたら、関西地方を中心にアーチの暗渠をさす方言とか。
『ねじりまんぽ』は、関西に多いらしいです。
茶屋町橋梁はの造りは、
片面の「下駄っ歯」の凹凸模様の『イギリス積み』ですね。
『ねじりまんぽ』も明治の日本独自の技術なのか、
輸入した技術なのか、分らないが、大したもんですね。
ずっと残して欲しい!
(
八幡の子
)
2012-04-21 00:58:30
こんばんは!
今回の写真、食い入るように何度も見ています。「ねじりまんぼの橋」は変電所前の道に立った位置から見て普通に見えているのですか? 昔よく皇后崎電停を利用していた頃、この辺りの浅い川にはアヒルが数羽居た時もありました。そして赤いレンガのアーチ橋を見ていたような記憶があります。変電所の左手横の白いマンションの辺りは昔は桜の丘でした。写真を見るとかなり様変わりしていますが、変電所の横にはタバコ屋、酒屋があり電停の乗降客も多くて、まさにオールウェイズ3丁目の夕日(映画)の様な光景がそこにあったことはいつまでも忘れないです。
夏休みに帰省できたら「ねじりまんぽ」に会いに探しに行きます。
『ねじりまんぽ』の付近は危険ですよ!
(
hobashira
)
2012-04-21 20:56:35
八幡の子さんへ、今晩は!
私は、この辺りは良く知らないし、分らないです。
『ねじりまんぽ』は変電所の前からも、何処からも見えません。
近づかないとダメですね。
旧電車軌道は、金網フェンスで仕切られています。
が、中には入れます。『ねじりまんぽ』その向こう側です。
でもね、ちょっと危ないですよ。
どうしても近付きたいのなら、気を付けて!!
変電所の左手は急な坂になっていて、上まで登って見ました。
そうしたら、
真下に筑鉄が通っていたし、桜ヶ丘の県営アパートが目の前でした。
写真、追加しています。
追加写真!
(
八幡の子
)
2012-04-21 22:04:57
hobashira様、こんばんは!
桜ヶ丘のアパート群、懐かしいです。
同級生が多く住んでいてよくこの辺りでも遊びました。平屋の木造社宅もかなりの世帯数ありましたが全部取り壊されてますね。hobashiraさんはアルバイトでこの辺りまで配達に来られてたんですね!
アヒルが泳いていた川は、皇后崎電停より折尾寄りの小川だったかな! ねじりまんぽまで接近するのは危険そうですね、近くまでにしておきます!
思い出したこと
(
caramelpapa
)
2012-04-21 22:29:30
皇后崎の碑
気がつかれましたか?
県公社のAP
昭和29年に建ったのですよね
風呂もついていたなんて
なんて高級住宅
風呂なしの公営住宅が
まだまだ建てられていたのに
って
僻地だったから
公衆浴場が遠かったのかな?
まわりは
三菱の社宅ばかりだったみたいだし
筑鉄開業時だろう写真には
萩原のAP群
まだ二棟しか建っていませんでした
思い出の1ページ
(
hobashira
)
2012-04-22 10:25:13
八幡の子さんへ、こんにちは!
桜ヶ丘の社宅は無くなって、量販店類が建ち並んでいます。
郵便配達のアルバイトは50年前ですが、
昔の姿は、この県営アパートだけかな?
高台から見たとき、一瞬ぎょ!っとしました。
(懐かしい思い出の1ページを見た?)
アヒルの泳いでいた川とは?
皇后崎電停の折尾寄りの川は割子川です。
手前で、相生町の横を流れている宮川と合流していますが、
先日行った時、アオサギがいました。
使えるものなら、
(
hobashira
)
2012-04-22 10:37:51
caramelpapaさんへ、こんにちは!
『皇后崎の碑』とは、JR線の向こう側、清掃工場?の前?
大きな石碑なら、今回は行かなかったが知っています。
写真も撮ってる筈なんだが、・・・
あの県営アパートは、昭和29年ですか、
製鉄の平野・桃園アパートが建て終わった頃です。
その後が、穴生(鉄竜・鉄王)ですが、
今、残ってるのは、ほんのわずか、
使えるものなら、家賃も(古いから)安いだろし、
入居している人は、有り難いのでは。
皇后崎の碑
(
八幡の子
)
2012-04-22 18:51:28
hobashira様、こんばんは!
「皇后崎の碑」たしか変電所に向かって左手の坂道を登って、途中に石の碑が立っていたように思います。あつ、こんな所に!って感じで見つけた時は嬉しくて歴史を感じました。
つづきです
(
caramelpapa
)
2012-04-22 19:09:28
洞南交差点の碑というか
奉られているのは「山王権現菊春大神」
その横は「猿田彦大神」です
八幡の子さんが仰るように
変電所の横の坂に
八幡市か黒崎町かわかりませんが史跡碑があります
思うに
若松の洞岡村みたく
宮丸と洞岡を繋ぐ
製鐵所員のためだけの渡船があったり
大手の会社の扱いは違います
製鐵三菱安川などは
福利厚生が充実していて
社宅には風呂が必ずあったのでしょうが
1960年代の北九州市は
まだまだ銭湯が当たり前だったように思えます
それだけに
風呂のついている公営APって
凄く魅力的だったのだろうなと
それと
市営と市公社
県営と県公社
似て非なるもののように思いますよ
こんばんは~!!
(
hobashira
)
2012-04-22 22:50:29
八幡の子さん、caramelpapaさん、今晩は!
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/81/5eaef1eee429e53a174b1620bcf3ea25.jpg"
この写真は、2年前の11月に撮ったものです。
caramelpapaが言う洞南交差点? にあったものです。
いかにも真新しく、引っ越してきたか?建て替えたか?って感じでした。
写真の右側の道路の奥に大きな石碑『皇后崎・・・』があったような?
でも、写真に撮ってないようで、探したけどありませんでした。
八幡の子さんが言っている坂道は、
曲がっていたけど登りつめて、追加の写真です。
史跡碑は気が付きませんでしたが、何かありそうな気もしましたよ。
製鉄の昔の社宅には風呂は付いていませんでした。
平野の場合は社宅内に、会社直営?の大きな風呂屋がありました。
でも、近くの風呂屋さんにも行っていました。
木造社宅(レンガ社宅も)の場合は、
庭があって個人的に造っていた人が多かった。
社宅の改造で違反なんですが、会社も黙認していたようです?
昭和30年過ぎからの鉄王・鉄竜は、
風呂付と言ってもスペースが用意されているだけで、
風呂釜は個人負担でした。(以降、このスタイルが多いです。)
でもね、当時は希望者が多くて、中々入れなかったです。
だから、caramelpapaさんの言うように、
1960年代は銭湯(風呂屋)が当り前ですね。
写真 これです
(
caramelpapa
)
2012-04-22 23:17:32
お社が「山王権現菊春大神」
石碑が「猿田彦大神」
私が初めて見たのは昭和45年頃
個人的に色々あって覚えています
史跡碑
あの坂を上りかければ
左手直ぐにあります
絶対
何で気付かなかったの!
と思うはずです
また
しつこく書き込んで
ごめんなさい
昭和30年代の風呂事情
(
八幡の子
)
2012-04-23 12:09:42
hobashira様、おはようございます。
S30年代といえば私も産まれ育った時代!
銭湯が主流でした。西日が長くなる頃から川沿いを歩いて行ってました。毎日ではないけど・・・。近所付き合いも密だったから「今日はもうお風呂入っていき~」と、家族のような付き合い方でしたね。そのうち家も風呂釜をつけましたがやはり銭湯にも行ってました。萩原電停の近くに新しい銭湯できた時はコーヒー牛乳やフルーツ牛乳等色々あったので楽しみでした。
明日にでも、
(
hobashira
)
2012-04-23 20:18:02
caramelpapaさんへ、今晩は!
このお社は昔から、この位置に?
ご覧のように真新しいです。
「猿田彦大神」の石碑は古いようでしたが、
史跡碑、
今度(明日にでも)、行って見ます。(有難う!)
『ALWAYS 三丁目の夕日』は、
(
hobashira
)
2012-04-23 20:34:24
八幡の子さんへ、今晩は!
昭和30年代、まさに『ALWAYS 三丁目の夕日』ですね。
この頃から、高度経済成長期へ突入、
電化製品の三種の神器なるものも現われて、
人々の暮らしも、だんだんと良くなって行った。
そんな時代を生き抜いた、知っている。 誇りだと思います。
草刈りされていたので
(
caramelpapa
)
2013-06-17 17:55:53
何故ここが「ねじりまんぽ」なのか?
この水路
黒崎辺りから明治時代には
船が往き来していたらしい
加えて
川に沿って
人もかなり往き来していたらしい
折尾黒崎間に線路が出来た時に
一緒に出来たのであろうと
でも
それなら
川向こうの
線路を潜る道は?
ってことも言えるのですが?
今
綺麗に見られますよ
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北九市内には
あとひとつ小倉にあるそうです
うろおぼえですが
「ねぎりまんぽ」を知ってた?
聞いたことがあるんですね。
私は初めてなんですが、
以前、撮った西鉄折尾の三連アーチの写真を見たら、
内部の赤煉瓦は斜めに捩れて積まれていました。
その時は不思議に思ったのだろうな!
(でも、記憶にないです。
と云っても
「ねじりまんぽ」は
ここ二十年くらいだと思います
折尾の橋本食堂(天狗屋)が
巷で話題になってきてからくらいかな?
この皇后崎の物は
ALL-A blog で知りました
http://allxa.blog114.fc2.com/blog-entry-527.html
たぶん
出来た当時はかなりのド田舎
しかも人道であろうものが
ねじりまんぽだったって事が
いろいろ想像させてくれますよね
八幡方面は、門司港に比べたら垢抜けてるわ。
街並みも綺麗だし、羨ましいわ!
西鉄の皇后崎変電所は、もうすぐ100歳とは驚きました。
今でもバリバリなんですね。
近代化産業遺産に登録されてるなんて知らなかったです。
「ねじりまんぽ」分かりましたよ~!
昔の技法は大したもんですよね。
赤煉瓦の橋って好きだなぁ。
というか「赤煉瓦」そのものが好きなのかも知れないわ。
門司港も沢山、赤煉瓦が残っていますから・・・
私も知らない街を色々紹介して下さってありがとう~♪
「ねじりまんぽ」は、折尾に人には馴染み深いんですね。
ALL-A blogさんのも見ました。
この橋、考えたら不思議ですね。
第一、この川(用水路?)は橋が出来た時から、
ほぼ同じ状態だと思う。
川幅は2m位、橋の幅も5m位。
こんな立派で頑丈な橋が、何故必要だったのか?
川(用水路?)に対して、斜めに架けられています。
橋の上に建物が建っていたと言う話もあるようで、
何方か、謎を解いてもらいたいです。
確か、八幡の地名は、大体読めると言ってた(書いていた)?
「皇后崎」も読めますね。
この変電所、ただ古いだけが取り得だと思うが、
だから、近代化産業遺産に登録されている。
(こんなこと言ったら、怒られそう!
「ねじりまんぽ」、この写真で分りましたか、
実物を見たいのなら、ここはゆめ吉さんには危険で無理だから、
JR折尾駅前の旧西鉄駅の三連アーチを見に行くといいです。
去年行った時、ちょっと変わってるなぁ!で撮っていました。
写真を見たら、ホント見事な「ねじりまんぽ」です。
数ヶ月前の事、全く忘れていた。
好きになられて嬉しいなぁ~
だってJRウオークされてると見る機会も多いでしょう?
相当な鉄ちゃんとお見受けしますから 必ずや赤レンガ橋梁お好きなはずです。。。
>『皇后崎のねじりまんぽ橋』
残念ながら行ってないけど知ってましたよ~
何せ 教科書に載ってるからね。。
hobashiraさんの写真で確認できますよ・・
当時の技術屋さんは素晴らしいですね。
先日 桜まつりの終わった皇后崎公園と
チューリップ祭りの終わった直方 チラッと行きましたよ~
ブログ記事って、貴重ですね。
八幡のことがもんとうによくわかります、
っていうか、ありがたいですね。
「ねじりまんぽ」、ひとつ賢くなった感じです。
そう言えば、茶屋町橋梁もなんか造りのこと
看板にあった気がしますが、「ねじりまんぽ」は
ずいぶん珍しそうですね。
「鉄ちゃん」?とんでもない、ただの「もの好き」です。
赤レンガの橋梁は鉄道(旧九州鉄道)に多いですね。
この「皇后崎のねじりまんぽ橋」も、何か関係あるかも?
この橋のこと、知ってたんですか、
でも、行かない方がいいと思いますよ。
高い金網があって、(一箇所入れる所があるが、)
中は草がボウボウで、川(水路)は上から深いです。
要するに、危ないです。
それにしても、『ねじりまんぽ』って、初めて聞く言葉で、
茶屋町や尾倉の橋梁の『イギリス積み』も、
当時の技術は、ホント素晴らしいですね。
『ねじりまんぽ』、私も初めて聞く言葉です。
『ねじり』は、『捻り』で分るが、『まんぽ』は?
調べたら、関西地方を中心にアーチの暗渠をさす方言とか。
『ねじりまんぽ』は、関西に多いらしいです。
茶屋町橋梁はの造りは、
片面の「下駄っ歯」の凹凸模様の『イギリス積み』ですね。
『ねじりまんぽ』も明治の日本独自の技術なのか、
輸入した技術なのか、分らないが、大したもんですね。
今回の写真、食い入るように何度も見ています。「ねじりまんぼの橋」は変電所前の道に立った位置から見て普通に見えているのですか? 昔よく皇后崎電停を利用していた頃、この辺りの浅い川にはアヒルが数羽居た時もありました。そして赤いレンガのアーチ橋を見ていたような記憶があります。変電所の左手横の白いマンションの辺りは昔は桜の丘でした。写真を見るとかなり様変わりしていますが、変電所の横にはタバコ屋、酒屋があり電停の乗降客も多くて、まさにオールウェイズ3丁目の夕日(映画)の様な光景がそこにあったことはいつまでも忘れないです。
夏休みに帰省できたら「ねじりまんぽ」に会いに探しに行きます。
私は、この辺りは良く知らないし、分らないです。
『ねじりまんぽ』は変電所の前からも、何処からも見えません。
近づかないとダメですね。
旧電車軌道は、金網フェンスで仕切られています。
が、中には入れます。『ねじりまんぽ』その向こう側です。
でもね、ちょっと危ないですよ。
どうしても近付きたいのなら、気を付けて!!
変電所の左手は急な坂になっていて、上まで登って見ました。
そうしたら、
真下に筑鉄が通っていたし、桜ヶ丘の県営アパートが目の前でした。
写真、追加しています。
桜ヶ丘のアパート群、懐かしいです。
同級生が多く住んでいてよくこの辺りでも遊びました。平屋の木造社宅もかなりの世帯数ありましたが全部取り壊されてますね。hobashiraさんはアルバイトでこの辺りまで配達に来られてたんですね!
アヒルが泳いていた川は、皇后崎電停より折尾寄りの小川だったかな! ねじりまんぽまで接近するのは危険そうですね、近くまでにしておきます!
気がつかれましたか?
県公社のAP
昭和29年に建ったのですよね
風呂もついていたなんて
なんて高級住宅
風呂なしの公営住宅が
まだまだ建てられていたのに
って
僻地だったから
公衆浴場が遠かったのかな?
まわりは
三菱の社宅ばかりだったみたいだし
筑鉄開業時だろう写真には
萩原のAP群
まだ二棟しか建っていませんでした
桜ヶ丘の社宅は無くなって、量販店類が建ち並んでいます。
郵便配達のアルバイトは50年前ですが、
昔の姿は、この県営アパートだけかな?
高台から見たとき、一瞬ぎょ!っとしました。
(懐かしい思い出の1ページを見た?)
アヒルの泳いでいた川とは?
皇后崎電停の折尾寄りの川は割子川です。
手前で、相生町の横を流れている宮川と合流していますが、
先日行った時、アオサギがいました。
『皇后崎の碑』とは、JR線の向こう側、清掃工場?の前?
大きな石碑なら、今回は行かなかったが知っています。
写真も撮ってる筈なんだが、・・・
あの県営アパートは、昭和29年ですか、
製鉄の平野・桃園アパートが建て終わった頃です。
その後が、穴生(鉄竜・鉄王)ですが、
今、残ってるのは、ほんのわずか、
使えるものなら、家賃も(古いから)安いだろし、
入居している人は、有り難いのでは。
「皇后崎の碑」たしか変電所に向かって左手の坂道を登って、途中に石の碑が立っていたように思います。あつ、こんな所に!って感じで見つけた時は嬉しくて歴史を感じました。
洞南交差点の碑というか
奉られているのは「山王権現菊春大神」
その横は「猿田彦大神」です
八幡の子さんが仰るように
変電所の横の坂に
八幡市か黒崎町かわかりませんが史跡碑があります
思うに
若松の洞岡村みたく
宮丸と洞岡を繋ぐ
製鐵所員のためだけの渡船があったり
大手の会社の扱いは違います
製鐵三菱安川などは
福利厚生が充実していて
社宅には風呂が必ずあったのでしょうが
1960年代の北九州市は
まだまだ銭湯が当たり前だったように思えます
それだけに
風呂のついている公営APって
凄く魅力的だったのだろうなと
それと
市営と市公社
県営と県公社
似て非なるもののように思いますよ
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/81/5eaef1eee429e53a174b1620bcf3ea25.jpg"
この写真は、2年前の11月に撮ったものです。
caramelpapaが言う洞南交差点? にあったものです。
いかにも真新しく、引っ越してきたか?建て替えたか?って感じでした。
写真の右側の道路の奥に大きな石碑『皇后崎・・・』があったような?
でも、写真に撮ってないようで、探したけどありませんでした。
八幡の子さんが言っている坂道は、
曲がっていたけど登りつめて、追加の写真です。
史跡碑は気が付きませんでしたが、何かありそうな気もしましたよ。
製鉄の昔の社宅には風呂は付いていませんでした。
平野の場合は社宅内に、会社直営?の大きな風呂屋がありました。
でも、近くの風呂屋さんにも行っていました。
木造社宅(レンガ社宅も)の場合は、
庭があって個人的に造っていた人が多かった。
社宅の改造で違反なんですが、会社も黙認していたようです?
昭和30年過ぎからの鉄王・鉄竜は、
風呂付と言ってもスペースが用意されているだけで、
風呂釜は個人負担でした。(以降、このスタイルが多いです。)
でもね、当時は希望者が多くて、中々入れなかったです。
だから、caramelpapaさんの言うように、
1960年代は銭湯(風呂屋)が当り前ですね。
お社が「山王権現菊春大神」
石碑が「猿田彦大神」
私が初めて見たのは昭和45年頃
個人的に色々あって覚えています
史跡碑
あの坂を上りかければ
左手直ぐにあります
絶対
何で気付かなかったの!
と思うはずです
また
しつこく書き込んで
ごめんなさい
S30年代といえば私も産まれ育った時代!
銭湯が主流でした。西日が長くなる頃から川沿いを歩いて行ってました。毎日ではないけど・・・。近所付き合いも密だったから「今日はもうお風呂入っていき~」と、家族のような付き合い方でしたね。そのうち家も風呂釜をつけましたがやはり銭湯にも行ってました。萩原電停の近くに新しい銭湯できた時はコーヒー牛乳やフルーツ牛乳等色々あったので楽しみでした。
このお社は昔から、この位置に?
ご覧のように真新しいです。
「猿田彦大神」の石碑は古いようでしたが、
史跡碑、
今度(明日にでも)、行って見ます。(有難う!)
昭和30年代、まさに『ALWAYS 三丁目の夕日』ですね。
この頃から、高度経済成長期へ突入、
電化製品の三種の神器なるものも現われて、
人々の暮らしも、だんだんと良くなって行った。
そんな時代を生き抜いた、知っている。 誇りだと思います。
何故ここが「ねじりまんぽ」なのか?
この水路
黒崎辺りから明治時代には
船が往き来していたらしい
加えて
川に沿って
人もかなり往き来していたらしい
折尾黒崎間に線路が出来た時に
一緒に出来たのであろうと
でも
それなら
川向こうの
線路を潜る道は?
ってことも言えるのですが?
今
綺麗に見られますよ
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。