コメント
知らなんだ
(
caramelpapa
)
2011-12-20 16:18:58
工場を凹ませて
バス停のベンチを置いて
けっこう話題になりましたよね
何年前だっけ?
上本町の
キッコーヨシって名前の醤油屋さん
知人が勤めていました
昨年か一昨年
実にお久しぶりに尋ねたら
こちらも移転されたみたい
四十年も前の話だから
驚いたのが宝田市場
形はあれども
ただの民家になっていました
ついでに寄った
山王市場は解体されていました
消えて行くもの・・・
(
ゆめ吉
)
2011-12-20 20:41:17
こんばんは~♪
「ヒノヤマ醬油」さんは初めて聞く名前でした。
でも地元では有名なお醬油屋さんなんですね。
歴史を感じさせる古い建物ですが、ある日突然消えちゃってると
ショックですよね。
面白いな~バス停の待合室を提供してくれてたのね。
どうやら移転してたようですが、あの建物が味があって良かったのにね。
結構傷んでいたのでしょうね。
恋占い石って面白いなぁ。
私もやってみたいです。
大吉狙いで・・・
お醤油屋さん
(
momomama
)
2011-12-20 22:10:19
hobashiraさん こんばんは。
あらぁ~ ほんと寂しいですね。
前田の辺りに行くと 泣けてきます。。。
会社は 西八幡門の人道の前でした。
建設会社で 資材置き場は電車通りを挟んで山側でした。
通りに前田食堂がありました。外食は高いからお弁当だったけど・・・・
社会保険事務所も近かったし 日雇労働者の人がいく職安もありました。
仕事があったら迎えに来た業者の所に行って
なかったら失業保険のようなの・・・を貰うようなところ・
私社会保険の係でしたから このあたりウロウロしました。。。
また横道ですが
(
caramelpapa
)
2011-12-20 22:59:09
高校の頃
職安近くのバイトは高給だと
道に立つ行為を
友人達が行っていたようです
また
すんごくうろ覚えですが
公共工事の契約金額が
ある程度の金額に達すると
請負業者は無技能なんたらを
一定数雇わなくてはならない
それをしなくてもいいようにするには
職安に行ってなんたらかたら
ってのが思い出されました
全然わかっていませんね
下上津役団地って
北九州市住宅供給公社が売り出した
宅地はやけに広いが
道が異様に狭いあの団地ですよね?
って
本当に逸れて
ごめんなさい
通過していました
(
ひまわり
)
2011-12-20 23:26:58
こんばんは~
この道は最近ではお墓参りに行くときに通るのですよ
この醤油屋さんの看板見ていました
前田や祇園町には縁がなかったので仲宿八幡宮は
知りませんでした
神功皇后にまつわる神社は数多くありますね
そういえば社会保険事務所が紅梅町(今は黒崎)に移る前は
その辺りにありましたよね
勤めていたんだわぁ~
日雇い給付の窓口にいて確か不正受給??かなにかで
ニュースに出たとか出なかったとか・・・
やはり青春時代そのものですね
商店街と市場
(
hobashira
)
2011-12-21 08:55:29
caramelpapaさんへ、おはようございます。
このバス停、話題になりましたか、知らなかったです。
気が付いたら、こんな風になっていました。
ここの祇園町商店街、寂れていると言われているけど、
この日、平日の昼だったが、結構人出がありました。
この時、気が付いたんだけど、
ここの商店街の大通りに面した、狭い脇道に商店が並んでいて、
入り口の上に「○○市場」と書いた看板が、何箇所かあった。
商店街と市場は違うんですね。
恋占い石
(
hobashira
)
2011-12-21 09:05:02
ゆめ吉さんへ、おはようございます。
福岡県には、醤油醸造所が結構多いです。
まあ、ヒノヤマ醤油も、そのひとつだろう。
店で見つけたら、買ってみて下さい。
そう言う私んとこは、使ったことないです。
恋占い石、写真で分るように真新しいです。
大吉狙いですか、右に寄るといいです。
まあ、ローカルだけど、話題になるのかなぁ!?
前田の職安
(
hobashira
)
2011-12-21 09:17:02
momomamaさんへ、おはようございます。
前田の日雇労働者の職安、知ってますよ。
高校卒業して、
ブラブラしてた時、友人と行ったことがあります。
でもね、
その日の職を求めての、大勢のおじさん達を見たとき、
遊び半分の若者が来る所じゃないと、
いそいそと帰りました。
前田もあの頃が、一番活気?があったのかなあ!
社会保険事務所
(
hobashira
)
2011-12-21 09:43:54
ひまわりさんへ、おはようございます。
祇園町のバス道路、よく通るんですね。
古めかしい建物、ヒノヤマのマが抜けた看板、
目立ちますから。
九州北部は神功皇后にまつわる話は多いですね。
それだけ歴史的に、九州北部は重要な箇所だと。
岸の浦の社会保険事務所には、
年金を貰う手続きで、お世話になったが、
前田 → 紅梅 → 岸の浦 と変わったんですか、
次はコムシティかな?
仲宿八幡宮
(
natukasii
)
2011-12-23 09:22:28
hobashiraさん、こんにちは
生まれた頃は高見神社が氏神様でしたが、
桃園に来てからは仲宿八幡宮が氏神様でした。
宮司畑野さんのお嬢さんに家庭教師をして頂き、
小学校の頃兄弟二人で神社のお宅に行きました。
やさしく美しい先生でした。
新しい社が出来た時には、
盛大に餅撒きがあって祇園東映の入場券や
お金も包んで撒きました。
餅撒きの8ミリを逆回しで見たりして、
滑稽な様子を楽しんだ事が懐かしい思い出です。
当時は祭りには舞台も出来て、
妹も踊りの初舞台をやりました。
祭りの頃は起業際みたいに人が溢れていました。
昔のままの懐かしい景色です。
ありがとうございます。
東映のスターは、
(
hobashira
)
2011-12-23 21:22:00
natukasiiさんへ、今晩は!
仲宿八幡宮に、思い出があるんですね。
今の宮司も波多野さんで、私より一級下で、面識はあります。
ずっと、花尾の同窓会(花尾会)の会長をしていました。
(今年、改選されて名誉顧問かな?)
この辺り、変わっているような、ないような?
祇園東映、ありましたね。
中村錦之助、東千代之介、片岡知恵蔵、夢中になっていました。
祇園東映の跡は、スーパーになっていたが、今は住宅?
どの辺だったか? です。
親類縁者なのかな?
(
caramelpapa
)
2011-12-23 22:46:37
黒崎の岡田宮も
折尾の鷹見神社も
波多野さんですよね
先祖は同じ方とか
この地方では
神職は波多野姓でなければいけないとか
あったりして?
祇園東映
(
natukasii
)
2011-12-23 23:03:45
hobashiraさん、今晩は
祇園東映は山手通りを一筋下がって、
(仲宿八幡宮の裏門の通り)
祇園町銀天街の一筋西の通り
(銀天街のこうや乾物店を西に)
その交差点の西南角にあったように、
記憶していますが、
有楽は二番館ですが、
祇園東映は封切館でした。
社長は椛島さんという興行師さんでした。
祇園銀天街は今でも市場が残っていますか?
市場は名前のとおり、
中央市場から仕込む魚や野菜の生鮮食品を
扱ったお店が並んでいました。
当時、銀天街に3つに市場があったように
記憶していますが、日本中でも有数の規模
だと思います。
今までそれ以上の商店街は見たことは
ありません。
仲宿八幡宮
(
鉄王育ち
)
2011-12-23 23:31:38
私の祖先は、曽祖父の代まで大字前田字和井田という、今はなき地番に住んでいました。
地番が消滅しているため、地図上で特定することは、もうできません。
恐らく八幡製鉄所厚板工場や、その隣の黒崎播磨の辺りだと思います。
そのご縁か、仲宿八幡には私と同じ苗字の名前が刻まれた鳥居や柵石がたくさんあります。
高校生の頃、我が家系が発展できないのは、祖先が佐吾七惨殺事件い関係しているのではなかろうかと、親に内緒でルーツを調べ始めました。
そのお陰で、八幡の郷土史をたくさん知ることができました。
そのせいか、例え祖先がどんな暮らしや所業をしようとも、私に命を与えてくれたことを感謝せねばならないと考えるようになりました。
祖先に唾を吐くのは、やはり罰当たりなことです。
八幡の神社、波多野家は、
(
hobashira
)
2011-12-24 13:37:54
caramelpapaさんへ、
考えることは同じですね。 私も気が付いていました。
それで、同窓会の時、
この仲宿八幡の波多野さんに、聞いた事があります。
殆ど親戚関係だそうです。
昔からそうで、
まあ酒の席だから、あまり突っ込んで聞きませんでしたが。
祇園町銀天街・市場
(
hobashira
)
2011-12-24 14:04:01
natukasiiさんへ、
祇園東映の場所は大体分かりますよ。(でも、その確証がね、)
祇園町銀天街の中に面した「〇〇市場」、数箇所あります。
(3箇所ですか、今度確認しときます。)
生鮮食品を扱った店が多く、ここが一番、活気付いていますね。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/a2/c38aeaccc0eb8e91c67e070bc0d6870e.jpg
この写真はバス道路より、ちょっと下がった所です。
堀川市場の看板がみえます。
(銀天街から)平野の方向へ延びています。
こうやさんは、昔とイメージが違うと思いますが。
ご先祖様には感謝を、
(
hobashira
)
2011-12-24 14:23:09
鉄王育ちさんへ、
あなたが言うように「和井田」は、
今の製鉄所厚板工場、黒崎播磨の辺りだと思います。
お小夜狭吾七を祀った社は、厚板工場の近くにあったそうです。
先祖のルーツ調べですか?
そうですね。 今ある命は、ご先祖様に感謝しないと。
多分、
仲宿八幡も牛守神社も、お参りしていると思いますが、
また、どうですか?
「恋占い石」も出来ています。
今更、恋占いしても~? ですか?
hobashira様
(
鉄王育ち
)
2011-12-25 20:43:12
いろいろとネットを調べると、「石油コンビナート等特別防災区域を指定する政令 (昭和五十一年七月九日政令第百九十二号)最終改正:平成二三年八月三〇日政令第二六六号」 なる政令
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S51/S51SE192.html
に、「福岡県北九州市の区域のうち次の区域」として、「字和井田」が掲載されています。なのに、法務局では「抹消されて存在しない字」としています。どうなっているのでしょうか。
ところで、ヒノヤマ醤油とは、不思議な縁があります。
私の父方の亡祖父が、戦後米ぬかや養鶏用の配合飼料を製造して八幡製鉄所の「分配所」に卸すために、工場として借り受けていた、八幡東区七条にあった建物の奥には、ヒノヤマ醤油の麹室跡がありました。
叔母が嫁いだ創立者の家系の叔父が、最近になって教えてくれました。
また、その叔父の従兄のお孫さんは、今私と同じ事務所で勤務しています。
仲宿八幡様には、毎年初詣にお参りしています。
もちろん、牛守神社にも。
「もしそうでしたら、どうぞお許しください」と、毎年お願いしています。
私の氏神様は豊山八幡様なのですが。
恋占い石。。。
ははは!もはやそんな歳ではありませんです(笑)
製鐵所構内では、
(
hobashira
)
2011-12-26 08:38:45
鉄王育ちさんへ、
これは最終改正が今年の8月で、「字和井田」載ってますね。
まあ、お役所(官庁)は、縦割り社会ですから??
製鐵所構内では、古くからの地名を組織名として使っていました。
東田、西田、洞岡、前田、西前田、尾倉、堂山、高見、・・・
(東田高炉、尾倉鋳工、高見輸送、とか・・・)
これって、大体分りますよね。(大字名かな?)
製鉄所構内
(
鉄王育ち
)
2011-12-26 18:58:16
hobashira様
はい、父が定年まで新日鉄八幡に勤務していたことと、私自身が新日鉄の子会社に勤務して、1年間八幡製鉄所の構内で仕事をしていたため、構内各地の地名はよく知っています。
私が構内勤務していたときの事務所の住所が、「大字前田字中塚」でしたね。
私はずっと君津製鉄所に勤務していましたので、定年間近な父と、一時期にせよ同じ構内で働けたことを、とても嬉しく思いました。
構内の住所は、
(
hobashira
)
2011-12-26 22:36:35
鉄王育ちさんへ、今晩は!
これはとんだ失礼をば、致しました。
構内で働いていたんですね。
子会社の場合は、そこの事務所の住所がちゃんとあるんですか、
当り前かな?
製鐵所の場合は、枝光1-1-1で、
あとは組織名で郵便物は届きます。
尤も、あとは構内便になりますけど。
「大字前田字中塚」とは、西門辺り?
郵便物は郵便屋さんが、配達してくれる?
そう言えば、西門近くの構内に郵便局があった。
北門を入って、洞海湾の近くにもありました。
又、洞海湾の艀の仕事で?
船の中で生活している人達がいましたね。
構内で買い物帰りのおばちゃんや、小学生をみかけたことがあります。
水上町とい言ってたかな?
hobashira様
(
鉄王育ち
)
2011-12-27 12:43:56
「字中塚」は、仰るとおり西門から入って少し北へ向かったところでした。
外からの郵便物は、局員が直接配達に来ていましたよ。
事務所から更に北へ進むと、昭和5年ごろに建造された「西田発電所」の大きな建物と大きな煙突が、まだ残っていました。
以下は、同発電所で使われていたタービンです。
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/museum/tenji/tenji71.html
牛守神社は、和井田から移されたのですね。
私の先祖も和井田に住んでいました。
やはり、佐吾七の受難に関わったのでしょうか。
私の自宅には、明治5年に没した先祖から始まる、戸籍謄本が残っています。
戦災を免れて、現在の八幡東区役所に保管されていたものだそうです。
この時から祖父の代まで、本籍地は和井田でした。
200年前の出来事は?
(
hobashira
)
2011-12-27 21:56:43
鉄王育ちさんへ、今晩は!
西田発電所、知ってますよ。 西田電力掛と言っていました。
(そこの土地の名前が組織名に使われている。)
ここで使われていたタービンの羽根が川崎にあるんですか?
なぜ、ナゼ、何故? です。
近代化遺産・産業文化財なら、何故こちらで保存しなかったのかなあ?
和井田に住んでいたからと言って、別に事件とは・・・?
佐吾七を妬んだ数人の若者が、仲宿八幡の夏祭りの夜、
彼を海岸につれ出して、リンチを加えた?
その海岸が、前田の和井田海岸だった。
あなたの先祖に、当時、年頃の若者がいたのか?分らないでしょう。
今からおよそ200年前の話ですよ。
hobashira様
(
鉄王育ち
)
2011-12-28 15:52:13
hobashira様も、製鉄所にお勤めだったのですか?
ずいぶん、構内の地名にお詳しいようなので。
子会社に入社した当初、普通の会社が「係」と書くところを、新日鉄では「掛」と書くことを、奇妙に思ったものでした。
調べてみると、明治時代の役所の名残でした。
佐吾七は、正しくは「沢七」なのですね。
藤田の浄蓮寺に、狭吾七の過去張があり、
「天明四年八月二十日 到岸智澤信士 豊前下毛群 跡田村 沢七」
と、記されているそうです。
天明四年は1784年。
明治維新の83年前ですね。
当家の過去は明治5年にまでしか遡ることができませんので、それ以前の祖先については、知る由もありません。
恐らく、苗字も持たなかったことでしょう。
それにしても、hobashira様のブログの、情報量の多さに感嘆しています。
ためになる情報が満載で、大変ありがたいです。
「近所をぶらっと」とお書きになった記事の写真を見ると、私が通ったH小学校のすぐ近くかなあと思ったりします。
ご近所に、アマチュア無線のアンテナが所狭しと林立しているお宅がありませんか?
あのお宅
(
caramelpapa
)
2011-12-28 18:47:46
かなり前から
目立っていますよね?
個人情報は、
(
hobashira
)
2011-12-28 22:33:59
鉄王育ちさん & caramelpapaさん、今晩は!
最近(10年前)まで、鉄王APに住んでいました。
まあ、個人情報ですから、これくらいに。
「近所をぶらっと」とは、
2010年6月2日の「近くをぶらり(徘徊)」のことですね。
引野小学校の近くの川で、春はハナミズキの並木が綺麗で、
我が徘徊コースの、ひとつになっています。(何回もアップしています。)
アマチュア無線のアンテナが沢山立っている家、ありますね。
caramelpapaさんも気が付いている?
で、我が家ですか? まだ南の方です。(これも個人情報で、)
処で、鉄王育ちさんへは、
ソフトバンクの孫社長と小学校が同じで、同じ年代?
あっ、個人情報ですね。
おはようございます。
(
鉄王育ち
)
2011-12-29 09:09:57
はい、孫君とは同級生です。
幼稚園から中学校1年の2学期に彼が転校するまで、一緒でした。
先月、彼が転校して初めて、30年ぶりに会う機会を得たのですが、熱く優しい、昔のままの彼でした。
私は4歳から16歳までを112棟で過ごし、17歳から21歳までを、その当時新たに建設された314棟で過ごし、東京の学校、君津製鉄所を経て八幡に戻り、24年前から隣の市に住んでいます。
こんばんは!
(
hobashira
)
2011-12-29 22:53:04
鉄王育ちさんへ、今晩は!
そうでしたか、世界の孫社長を君付けで呼べる幼馴染。
ホークスを買収してオーナーになった時、話題になりましたね。
近くの学校、我が家の子供達も通った学校です。
hobashira様
(
鉄王育ち
)
2011-12-30 03:29:12
こんばんは。
やっと仕事納めをすることができました。
真夜中に一人、ビールを楽しんでいます。
あの、「アンテナ林立」のお宅は、中学生のころの私にとって、憧れの的でした。
アマチュア無線の免許が欲しくて欲しくて、あのお宅や、萩原団地の屋上に林立していたアンテナなど、とにかくアマチュア無線のアンテナが建っている所を、友人と自転車でくまなく見て回りました。
あのお宅の周辺にも、新日鉄の社宅にも、それこそ「佃煮ができるほど」同級生がいました。
あらゆる公園が、常に子供たちで賑わっていました。
少しの地面があれば「釘刺し」「だんちん」「パッチン」で遊び、公園では「世界一周」や、ビー玉を使った「商売」などに、子供が群れていました。
隔世の感があります。
なぜだろう。
今でもその当時の同級生の多くと、強い絆で繋がっています。
きっと、引野中学校時代の英語の恩師、Y先生のおかげなのでしょう。
来年も宜しく、
(
hobashira
)
2011-12-31 20:47:53
鉄王育ちさんへ、こんにちは!
仕事納めの日は、かなり遅くなったようですね。
私も現役の頃は、友達と黒崎で呑んで帰ることもあったです。
「寅さん」の正月映画を観て帰る事もあったな。
遊びに、「釘刺し」「だんちん」「パッチン」、
私の頃と変らんじゃないですか、
一回りは違うけど、八幡は何処も同じかな?
アマチュア無線に憧れていたんですか?
最近、やっている人は、結構多いですね。
製鐵所にクラブがあって起業祭の時、公開無線局をやっていました。
私の周りにも何人かいました。
中学生の頃、そんなに憧れてたのなら、友達とあのお宅に行って、
「見学させて下さい。」と言えば、色々説明してくれたと思いますよ。
アマチュア無線をやってる人は、
話好き・世話好きで、自慢家が多いですから。
今からでも遅くない、挑戦してみたら!!
今年は昔の鉄王地区の情報など、色々有難うございました。
来年も宜しくお願いします。
懐かしくてつい
(
横浜の住人
)
2012-05-12 09:36:21
十数年前に亡くなった祖母が昔、この醤油工場で働いてました。
小学生の頃に何度か工場を見学しまたよ。
昔は商店街も活気があり沢山の人が往き来してましたね。
今も叔父が祇園町に住んでいますが、しばらく訪ねていないので町の様子も随分と変わっているのでしょうね。
ちなみに従兄弟が某神社の宮司ですが、やはり姓は波多野です。
祇園町の名物建物だった
(
hobashira
)
2012-05-12 18:39:14
横浜の住人さんへ、今晩は! ようこそ!
この「ヒノヤマ醤油」は、古いですよね。
お祖母様がここで働いていたんですか、
子供の頃、工場の中へ、それは懐かしいでしょうね。
私は中学の時、横を通っていたし、高校の時も。
中には入ったことはないが、
辺りに、醤油独特の匂いがしてたのを覚えています。
祇園町の古い建物、特徴のある建物は、
数年前から、これだけになってしまったようでした。
それだけに、残念です。
紅梅町の方へ引っ越したそうですが、
建物に、幼い頃の自分を重ねてただけで、
悪いけど、新しいのには興味ないです。
八幡の神社の宮司さんは、
殆ど波多野姓で親戚関係らしですね。
横浜の住人さんも? あっ、これは個人情報ですね。
これからも、偶に覗いて下さい。
今後も宜しくです。
祇園町
(
思い出いっぱい
)
2015-03-08 23:46:37
久しぶりに祇園町を通ってみると変わってしまった。
高校生の時は(1960年代)ヒノヤマ醤油先の商店街の信号機から
山側に入ってすぐの所の牛乳店の牛乳配達をしていました。
配達地域は製鉄のアパート全般でしたので知っていたつもりが、今では面影が見えて来ない程の街の変わりようです。
藤川電器や日石のスタンドも無くなった様な?
ヒシMのサイダーラムネ、3本立映画館ゆうらく?
懐かしいな。
街は綺麗になったが、なにか寂しい街にも見えます。
これから先どう変わるのか分かりませんが、人が大勢いたあの時代が一番楽しかった様に思えます。
思い出いっぱいさんへ、
(
hobashira
)
2015-03-09 22:29:07
今晩は~! ようこそです。
以前、この辺りに住んでいたんですね。
もう、桃園も平野のアパートも無くなりまして、
私も青春の思い出が、消えていくようです。
映画館の3本立て、懐かしいですね。
祗園東映、有楽、それに洋画専門もあった。(信用金庫の下の方に、)
有楽は、まだやっていますが、成人映画専門です。
(でも、建物は変わっていないから懐かしいです。)
今年のさくら通りの「さくら祭り」は、4月5日(日)です。
行って、この辺りを歩こうと思います。(子供の頃、過ごした所ですから。)
ヒノヤマ醤油
(
旅屋の親父
)
2016-10-12 09:43:04
昭和24年?頃火事でそれまでの工場が全焼し、写真はその後に再建された工場ですが確かに今はありませんね。
自宅から北の空が真っ赤に染まっていた当時の火事を思い出します。
祇園町商店街には良くゆきました。「吉岡松栄堂」という和菓子屋さんがあり高校時代(八幡中央)そこの娘さんとお付き合いをしていました。初恋ですね。
平野小学校、花尾中学校でした。
旅屋の親父さんへ、
(
hobashira
)
2016-10-12 19:04:34
今晩は~! コメント有難うございます。
昭和24年頃ですか? 知らないです。
と言うのも、私が平野のアパートに来たのが昭和27年ですから。
子供の頃、見慣れた建物・光景が無くなるのは、寂しいですね。
私も、平野→花尾→中央です。多分、同年代か、先輩の方ですね。
高校時代に付き合っていた人がいた、羨ましいなあ!
年に1回は、この辺りに来て散策しています。
昔の賑わいは無いが、やっぱり、いいですね。
子供の頃から青春時代を過ごした我が故郷になっています。
懐かしい風景
(
Dio
)
2018-01-11 16:45:45
こんにちは。懐かしい写真ありがとうございます。
昭和51年に生まれてからずっと 我が家は、お醤油はヒノヤマさんです。
結婚して今は八幡駅そばに住んでおりますが、仲宿八幡宮さんが産土神様であり、氏神様です。
ヒノヤマの工場から 美味しいお醤油の香りを嗅いで育ちました。懐かしい風景です。色々思い出しちゃいます。うれしくて涙出そう。。。
建物が無くなれば 記憶も一緒に消えてしまいそう…なんてことは絶対にありませんが 笑
貴重な写真かと思います。
ありがとうございます。
Dioさんへ、
(
hobashira
)
2018-01-11 22:32:22
今晩は~! コメント有難うございます。
ヒノヤマ醤油が無くなったのを見た時、ショックでしたね。
建物はかなり古るかったから、建替えかな?と思っていましたが。
Dioさんところは、ヒノヤマ醤油を使っていたんですか。
我が家はどうかなあ? 記憶にないです。(男だから?)
建物が無くなっても、記憶は残っていますよ。
改めて、この写真を見ると、中学時代の頃が鮮明に思い出されます。
私は平野アパート(社宅)に住んでいましたが、
この辺りが故郷だと思っています。
横から失礼します。
(
元祇園町住人
)
2018-01-18 13:13:23
前田小学校を検索していたら、花尾中学校からこのブログにたどり着きました。
私は、前田小学校→花尾中学校→八幡中央高校の出身です。
祇園東映・仲宿八幡宮・ヒノヤマ醤油・等々、懐かしい名詞が出てきたので、ついつい書き込んでしまいました。
懐かしい思い出いっぱいです。
元祇園町住人さんへ、
(
hobashira
)
2018-01-18 23:26:07
今晩は~! コメント有難うございます。
祇園東映をご存知とは、かなり年配の方ですね。
中学時代(花尾)、東映のチャンバラ物が全盛期。
勉強がおろそかになるで?、生徒の入場禁止令(学校が決めて)が出て、
それでも、観に行く者がいましたね。
月曜日の全校生徒朝礼?(朝会?)で、
観に行った者は前へ出ろ!みんなの前で、かなり絞られていた。
補導の先生が、館内でチェックしていたとか。
私は禁止令が出てからは行ってませんよ。
私は平野⇒花尾⇒中央でこの辺りが、一番懐かしいです。
祇園東映
(
元祇園町住人
)
2018-01-22 11:58:36
こんにちは。
このブログ、閉鎖されているようですね。
投稿した後で気が付きました。
お返事いただき、ありがとうございます。
祇園東映は、私の祖父が時々行っていたと記憶しています。
そして、祇園東映の事務所?金庫?から、拳銃が発見され警察が捜査していた記憶があります。
多分、それが原因で映画館が閉鎖になったと思い込んでいますが、本当に小さい頃だったので、それが記憶なのか、思い込みなのかはわかりません。
ただ、拳銃で見つかった というインパクトが残っています。
祇園東映の空き地は、スーパー大栄からディスカウントストアに変わったのか、またその逆なのかも記憶があいまいです。
ただ、スーパー大栄は祇園町商店街へ店が移動しました。
私の幼いころの記憶として、祇園東映の映画の看板で「四谷怪談」お岩様の怖いというイメージがあります。
映画鑑賞については、私は東映の映画より東宝の映画に興味がありました。
「ゴジラシリーズ」「若大将シリーズ」「無責男シリーズ」ですね。
中学、高校と個人で映画は禁止されていて、規則を破ると制裁がありました(笑)
元祇園町住人さんへ
(
hobashira
)
2018-01-22 22:01:25
今晩は~! 再度のコメント有難うございます。
別に大した理由はないのですが、去年の4月にちょうど10年になり、
初めあれば終わり、切れ目のいい所で閉鎖しました。
祇園東映で拳銃発覚事件ですか? そう云えばあったような?
もう、よっぽどの限りは忘却の彼方です。
昔の学校は学期毎?に、映写会がありましたね。
祇園東映ではなかったが、春の町の太陽館? 黒崎の映画館とかで。
それと、夏休みに学校(平野小)のグランドで、青空映写会?
アラカンの鞍馬天狗とかが記憶に残っています。
昔の思い出は尽きないですね。
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バス停のベンチを置いて
けっこう話題になりましたよね
何年前だっけ?
上本町の
キッコーヨシって名前の醤油屋さん
知人が勤めていました
昨年か一昨年
実にお久しぶりに尋ねたら
こちらも移転されたみたい
四十年も前の話だから
驚いたのが宝田市場
形はあれども
ただの民家になっていました
ついでに寄った
山王市場は解体されていました
「ヒノヤマ醬油」さんは初めて聞く名前でした。
でも地元では有名なお醬油屋さんなんですね。
歴史を感じさせる古い建物ですが、ある日突然消えちゃってると
ショックですよね。
面白いな~バス停の待合室を提供してくれてたのね。
どうやら移転してたようですが、あの建物が味があって良かったのにね。
結構傷んでいたのでしょうね。
恋占い石って面白いなぁ。
私もやってみたいです。
大吉狙いで・・・
あらぁ~ ほんと寂しいですね。
前田の辺りに行くと 泣けてきます。。。
会社は 西八幡門の人道の前でした。
建設会社で 資材置き場は電車通りを挟んで山側でした。
通りに前田食堂がありました。外食は高いからお弁当だったけど・・・・
社会保険事務所も近かったし 日雇労働者の人がいく職安もありました。
仕事があったら迎えに来た業者の所に行って
なかったら失業保険のようなの・・・を貰うようなところ・
私社会保険の係でしたから このあたりウロウロしました。。。
職安近くのバイトは高給だと
道に立つ行為を
友人達が行っていたようです
また
すんごくうろ覚えですが
公共工事の契約金額が
ある程度の金額に達すると
請負業者は無技能なんたらを
一定数雇わなくてはならない
それをしなくてもいいようにするには
職安に行ってなんたらかたら
ってのが思い出されました
全然わかっていませんね
下上津役団地って
北九州市住宅供給公社が売り出した
宅地はやけに広いが
道が異様に狭いあの団地ですよね?
って
本当に逸れて
ごめんなさい
この道は最近ではお墓参りに行くときに通るのですよ
この醤油屋さんの看板見ていました
前田や祇園町には縁がなかったので仲宿八幡宮は
知りませんでした
神功皇后にまつわる神社は数多くありますね
そういえば社会保険事務所が紅梅町(今は黒崎)に移る前は
その辺りにありましたよね
勤めていたんだわぁ~
日雇い給付の窓口にいて確か不正受給??かなにかで
ニュースに出たとか出なかったとか・・・
やはり青春時代そのものですね
このバス停、話題になりましたか、知らなかったです。
気が付いたら、こんな風になっていました。
ここの祇園町商店街、寂れていると言われているけど、
この日、平日の昼だったが、結構人出がありました。
この時、気が付いたんだけど、
ここの商店街の大通りに面した、狭い脇道に商店が並んでいて、
入り口の上に「○○市場」と書いた看板が、何箇所かあった。
商店街と市場は違うんですね。
福岡県には、醤油醸造所が結構多いです。
まあ、ヒノヤマ醤油も、そのひとつだろう。
店で見つけたら、買ってみて下さい。
そう言う私んとこは、使ったことないです。
恋占い石、写真で分るように真新しいです。
大吉狙いですか、右に寄るといいです。
まあ、ローカルだけど、話題になるのかなぁ!?
前田の日雇労働者の職安、知ってますよ。
高校卒業して、
ブラブラしてた時、友人と行ったことがあります。
でもね、
その日の職を求めての、大勢のおじさん達を見たとき、
遊び半分の若者が来る所じゃないと、
いそいそと帰りました。
前田もあの頃が、一番活気?があったのかなあ!
祇園町のバス道路、よく通るんですね。
古めかしい建物、ヒノヤマのマが抜けた看板、
目立ちますから。
九州北部は神功皇后にまつわる話は多いですね。
それだけ歴史的に、九州北部は重要な箇所だと。
岸の浦の社会保険事務所には、
年金を貰う手続きで、お世話になったが、
前田 → 紅梅 → 岸の浦 と変わったんですか、
次はコムシティかな?
生まれた頃は高見神社が氏神様でしたが、
桃園に来てからは仲宿八幡宮が氏神様でした。
宮司畑野さんのお嬢さんに家庭教師をして頂き、
小学校の頃兄弟二人で神社のお宅に行きました。
やさしく美しい先生でした。
新しい社が出来た時には、
盛大に餅撒きがあって祇園東映の入場券や
お金も包んで撒きました。
餅撒きの8ミリを逆回しで見たりして、
滑稽な様子を楽しんだ事が懐かしい思い出です。
当時は祭りには舞台も出来て、
妹も踊りの初舞台をやりました。
祭りの頃は起業際みたいに人が溢れていました。
昔のままの懐かしい景色です。
ありがとうございます。
仲宿八幡宮に、思い出があるんですね。
今の宮司も波多野さんで、私より一級下で、面識はあります。
ずっと、花尾の同窓会(花尾会)の会長をしていました。
(今年、改選されて名誉顧問かな?)
この辺り、変わっているような、ないような?
祇園東映、ありましたね。
中村錦之助、東千代之介、片岡知恵蔵、夢中になっていました。
祇園東映の跡は、スーパーになっていたが、今は住宅?
どの辺だったか? です。
折尾の鷹見神社も
波多野さんですよね
先祖は同じ方とか
この地方では
神職は波多野姓でなければいけないとか
あったりして?
祇園東映は山手通りを一筋下がって、
(仲宿八幡宮の裏門の通り)
祇園町銀天街の一筋西の通り
(銀天街のこうや乾物店を西に)
その交差点の西南角にあったように、
記憶していますが、
有楽は二番館ですが、
祇園東映は封切館でした。
社長は椛島さんという興行師さんでした。
祇園銀天街は今でも市場が残っていますか?
市場は名前のとおり、
中央市場から仕込む魚や野菜の生鮮食品を
扱ったお店が並んでいました。
当時、銀天街に3つに市場があったように
記憶していますが、日本中でも有数の規模
だと思います。
今までそれ以上の商店街は見たことは
ありません。
地番が消滅しているため、地図上で特定することは、もうできません。
恐らく八幡製鉄所厚板工場や、その隣の黒崎播磨の辺りだと思います。
そのご縁か、仲宿八幡には私と同じ苗字の名前が刻まれた鳥居や柵石がたくさんあります。
高校生の頃、我が家系が発展できないのは、祖先が佐吾七惨殺事件い関係しているのではなかろうかと、親に内緒でルーツを調べ始めました。
そのお陰で、八幡の郷土史をたくさん知ることができました。
そのせいか、例え祖先がどんな暮らしや所業をしようとも、私に命を与えてくれたことを感謝せねばならないと考えるようになりました。
祖先に唾を吐くのは、やはり罰当たりなことです。
考えることは同じですね。 私も気が付いていました。
それで、同窓会の時、
この仲宿八幡の波多野さんに、聞いた事があります。
殆ど親戚関係だそうです。
昔からそうで、
まあ酒の席だから、あまり突っ込んで聞きませんでしたが。
祇園東映の場所は大体分かりますよ。(でも、その確証がね、)
祇園町銀天街の中に面した「〇〇市場」、数箇所あります。
(3箇所ですか、今度確認しときます。)
生鮮食品を扱った店が多く、ここが一番、活気付いていますね。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/a2/c38aeaccc0eb8e91c67e070bc0d6870e.jpg
この写真はバス道路より、ちょっと下がった所です。
堀川市場の看板がみえます。
(銀天街から)平野の方向へ延びています。
こうやさんは、昔とイメージが違うと思いますが。
あなたが言うように「和井田」は、
今の製鉄所厚板工場、黒崎播磨の辺りだと思います。
お小夜狭吾七を祀った社は、厚板工場の近くにあったそうです。
先祖のルーツ調べですか?
そうですね。 今ある命は、ご先祖様に感謝しないと。
多分、
仲宿八幡も牛守神社も、お参りしていると思いますが、
また、どうですか?
「恋占い石」も出来ています。
今更、恋占いしても~? ですか?
ところで、ヒノヤマ醤油とは、不思議な縁があります。
私の父方の亡祖父が、戦後米ぬかや養鶏用の配合飼料を製造して八幡製鉄所の「分配所」に卸すために、工場として借り受けていた、八幡東区七条にあった建物の奥には、ヒノヤマ醤油の麹室跡がありました。
叔母が嫁いだ創立者の家系の叔父が、最近になって教えてくれました。
また、その叔父の従兄のお孫さんは、今私と同じ事務所で勤務しています。
仲宿八幡様には、毎年初詣にお参りしています。
もちろん、牛守神社にも。
「もしそうでしたら、どうぞお許しください」と、毎年お願いしています。
私の氏神様は豊山八幡様なのですが。
恋占い石。。。
ははは!もはやそんな歳ではありませんです(笑)
これは最終改正が今年の8月で、「字和井田」載ってますね。
まあ、お役所(官庁)は、縦割り社会ですから??
製鐵所構内では、古くからの地名を組織名として使っていました。
東田、西田、洞岡、前田、西前田、尾倉、堂山、高見、・・・
(東田高炉、尾倉鋳工、高見輸送、とか・・・)
これって、大体分りますよね。(大字名かな?)
はい、父が定年まで新日鉄八幡に勤務していたことと、私自身が新日鉄の子会社に勤務して、1年間八幡製鉄所の構内で仕事をしていたため、構内各地の地名はよく知っています。
私が構内勤務していたときの事務所の住所が、「大字前田字中塚」でしたね。
私はずっと君津製鉄所に勤務していましたので、定年間近な父と、一時期にせよ同じ構内で働けたことを、とても嬉しく思いました。
これはとんだ失礼をば、致しました。
構内で働いていたんですね。
子会社の場合は、そこの事務所の住所がちゃんとあるんですか、
当り前かな?
製鐵所の場合は、枝光1-1-1で、
あとは組織名で郵便物は届きます。
尤も、あとは構内便になりますけど。
「大字前田字中塚」とは、西門辺り?
郵便物は郵便屋さんが、配達してくれる?
そう言えば、西門近くの構内に郵便局があった。
北門を入って、洞海湾の近くにもありました。
又、洞海湾の艀の仕事で?
船の中で生活している人達がいましたね。
構内で買い物帰りのおばちゃんや、小学生をみかけたことがあります。
水上町とい言ってたかな?
外からの郵便物は、局員が直接配達に来ていましたよ。
事務所から更に北へ進むと、昭和5年ごろに建造された「西田発電所」の大きな建物と大きな煙突が、まだ残っていました。
以下は、同発電所で使われていたタービンです。
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/museum/tenji/tenji71.html
牛守神社は、和井田から移されたのですね。
私の先祖も和井田に住んでいました。
やはり、佐吾七の受難に関わったのでしょうか。
私の自宅には、明治5年に没した先祖から始まる、戸籍謄本が残っています。
戦災を免れて、現在の八幡東区役所に保管されていたものだそうです。
この時から祖父の代まで、本籍地は和井田でした。
西田発電所、知ってますよ。 西田電力掛と言っていました。
(そこの土地の名前が組織名に使われている。)
ここで使われていたタービンの羽根が川崎にあるんですか?
なぜ、ナゼ、何故? です。
近代化遺産・産業文化財なら、何故こちらで保存しなかったのかなあ?
和井田に住んでいたからと言って、別に事件とは・・・?
佐吾七を妬んだ数人の若者が、仲宿八幡の夏祭りの夜、
彼を海岸につれ出して、リンチを加えた?
その海岸が、前田の和井田海岸だった。
あなたの先祖に、当時、年頃の若者がいたのか?分らないでしょう。
今からおよそ200年前の話ですよ。
ずいぶん、構内の地名にお詳しいようなので。
子会社に入社した当初、普通の会社が「係」と書くところを、新日鉄では「掛」と書くことを、奇妙に思ったものでした。
調べてみると、明治時代の役所の名残でした。
佐吾七は、正しくは「沢七」なのですね。
藤田の浄蓮寺に、狭吾七の過去張があり、
「天明四年八月二十日 到岸智澤信士 豊前下毛群 跡田村 沢七」
と、記されているそうです。
天明四年は1784年。
明治維新の83年前ですね。
当家の過去は明治5年にまでしか遡ることができませんので、それ以前の祖先については、知る由もありません。
恐らく、苗字も持たなかったことでしょう。
それにしても、hobashira様のブログの、情報量の多さに感嘆しています。
ためになる情報が満載で、大変ありがたいです。
「近所をぶらっと」とお書きになった記事の写真を見ると、私が通ったH小学校のすぐ近くかなあと思ったりします。
ご近所に、アマチュア無線のアンテナが所狭しと林立しているお宅がありませんか?
目立っていますよね?
最近(10年前)まで、鉄王APに住んでいました。
まあ、個人情報ですから、これくらいに。
「近所をぶらっと」とは、
2010年6月2日の「近くをぶらり(徘徊)」のことですね。
引野小学校の近くの川で、春はハナミズキの並木が綺麗で、
我が徘徊コースの、ひとつになっています。(何回もアップしています。)
アマチュア無線のアンテナが沢山立っている家、ありますね。
caramelpapaさんも気が付いている?
で、我が家ですか? まだ南の方です。(これも個人情報で、)
処で、鉄王育ちさんへは、
ソフトバンクの孫社長と小学校が同じで、同じ年代?
あっ、個人情報ですね。
幼稚園から中学校1年の2学期に彼が転校するまで、一緒でした。
先月、彼が転校して初めて、30年ぶりに会う機会を得たのですが、熱く優しい、昔のままの彼でした。
私は4歳から16歳までを112棟で過ごし、17歳から21歳までを、その当時新たに建設された314棟で過ごし、東京の学校、君津製鉄所を経て八幡に戻り、24年前から隣の市に住んでいます。
そうでしたか、世界の孫社長を君付けで呼べる幼馴染。
ホークスを買収してオーナーになった時、話題になりましたね。
近くの学校、我が家の子供達も通った学校です。
やっと仕事納めをすることができました。
真夜中に一人、ビールを楽しんでいます。
あの、「アンテナ林立」のお宅は、中学生のころの私にとって、憧れの的でした。
アマチュア無線の免許が欲しくて欲しくて、あのお宅や、萩原団地の屋上に林立していたアンテナなど、とにかくアマチュア無線のアンテナが建っている所を、友人と自転車でくまなく見て回りました。
あのお宅の周辺にも、新日鉄の社宅にも、それこそ「佃煮ができるほど」同級生がいました。
あらゆる公園が、常に子供たちで賑わっていました。
少しの地面があれば「釘刺し」「だんちん」「パッチン」で遊び、公園では「世界一周」や、ビー玉を使った「商売」などに、子供が群れていました。
隔世の感があります。
なぜだろう。
今でもその当時の同級生の多くと、強い絆で繋がっています。
きっと、引野中学校時代の英語の恩師、Y先生のおかげなのでしょう。
仕事納めの日は、かなり遅くなったようですね。
私も現役の頃は、友達と黒崎で呑んで帰ることもあったです。
「寅さん」の正月映画を観て帰る事もあったな。
遊びに、「釘刺し」「だんちん」「パッチン」、
私の頃と変らんじゃないですか、
一回りは違うけど、八幡は何処も同じかな?
アマチュア無線に憧れていたんですか?
最近、やっている人は、結構多いですね。
製鐵所にクラブがあって起業祭の時、公開無線局をやっていました。
私の周りにも何人かいました。
中学生の頃、そんなに憧れてたのなら、友達とあのお宅に行って、
「見学させて下さい。」と言えば、色々説明してくれたと思いますよ。
アマチュア無線をやってる人は、
話好き・世話好きで、自慢家が多いですから。
今からでも遅くない、挑戦してみたら!!
今年は昔の鉄王地区の情報など、色々有難うございました。
来年も宜しくお願いします。
小学生の頃に何度か工場を見学しまたよ。
昔は商店街も活気があり沢山の人が往き来してましたね。
今も叔父が祇園町に住んでいますが、しばらく訪ねていないので町の様子も随分と変わっているのでしょうね。
ちなみに従兄弟が某神社の宮司ですが、やはり姓は波多野です。
この「ヒノヤマ醤油」は、古いですよね。
お祖母様がここで働いていたんですか、
子供の頃、工場の中へ、それは懐かしいでしょうね。
私は中学の時、横を通っていたし、高校の時も。
中には入ったことはないが、
辺りに、醤油独特の匂いがしてたのを覚えています。
祇園町の古い建物、特徴のある建物は、
数年前から、これだけになってしまったようでした。
それだけに、残念です。
紅梅町の方へ引っ越したそうですが、
建物に、幼い頃の自分を重ねてただけで、
悪いけど、新しいのには興味ないです。
八幡の神社の宮司さんは、
殆ど波多野姓で親戚関係らしですね。
横浜の住人さんも? あっ、これは個人情報ですね。
これからも、偶に覗いて下さい。
今後も宜しくです。
高校生の時は(1960年代)ヒノヤマ醤油先の商店街の信号機から
山側に入ってすぐの所の牛乳店の牛乳配達をしていました。
配達地域は製鉄のアパート全般でしたので知っていたつもりが、今では面影が見えて来ない程の街の変わりようです。
藤川電器や日石のスタンドも無くなった様な?
ヒシMのサイダーラムネ、3本立映画館ゆうらく?
懐かしいな。
街は綺麗になったが、なにか寂しい街にも見えます。
これから先どう変わるのか分かりませんが、人が大勢いたあの時代が一番楽しかった様に思えます。
以前、この辺りに住んでいたんですね。
もう、桃園も平野のアパートも無くなりまして、
私も青春の思い出が、消えていくようです。
映画館の3本立て、懐かしいですね。
祗園東映、有楽、それに洋画専門もあった。(信用金庫の下の方に、)
有楽は、まだやっていますが、成人映画専門です。
(でも、建物は変わっていないから懐かしいです。)
今年のさくら通りの「さくら祭り」は、4月5日(日)です。
行って、この辺りを歩こうと思います。(子供の頃、過ごした所ですから。)
自宅から北の空が真っ赤に染まっていた当時の火事を思い出します。
祇園町商店街には良くゆきました。「吉岡松栄堂」という和菓子屋さんがあり高校時代(八幡中央)そこの娘さんとお付き合いをしていました。初恋ですね。
平野小学校、花尾中学校でした。
昭和24年頃ですか? 知らないです。
と言うのも、私が平野のアパートに来たのが昭和27年ですから。
子供の頃、見慣れた建物・光景が無くなるのは、寂しいですね。
私も、平野→花尾→中央です。多分、同年代か、先輩の方ですね。
高校時代に付き合っていた人がいた、羨ましいなあ!
年に1回は、この辺りに来て散策しています。
昔の賑わいは無いが、やっぱり、いいですね。
子供の頃から青春時代を過ごした我が故郷になっています。
昭和51年に生まれてからずっと 我が家は、お醤油はヒノヤマさんです。
結婚して今は八幡駅そばに住んでおりますが、仲宿八幡宮さんが産土神様であり、氏神様です。
ヒノヤマの工場から 美味しいお醤油の香りを嗅いで育ちました。懐かしい風景です。色々思い出しちゃいます。うれしくて涙出そう。。。
建物が無くなれば 記憶も一緒に消えてしまいそう…なんてことは絶対にありませんが 笑
貴重な写真かと思います。
ありがとうございます。
ヒノヤマ醤油が無くなったのを見た時、ショックでしたね。
建物はかなり古るかったから、建替えかな?と思っていましたが。
Dioさんところは、ヒノヤマ醤油を使っていたんですか。
我が家はどうかなあ? 記憶にないです。(男だから?)
建物が無くなっても、記憶は残っていますよ。
改めて、この写真を見ると、中学時代の頃が鮮明に思い出されます。
私は平野アパート(社宅)に住んでいましたが、
この辺りが故郷だと思っています。
私は、前田小学校→花尾中学校→八幡中央高校の出身です。
祇園東映・仲宿八幡宮・ヒノヤマ醤油・等々、懐かしい名詞が出てきたので、ついつい書き込んでしまいました。
懐かしい思い出いっぱいです。
祇園東映をご存知とは、かなり年配の方ですね。
中学時代(花尾)、東映のチャンバラ物が全盛期。
勉強がおろそかになるで?、生徒の入場禁止令(学校が決めて)が出て、
それでも、観に行く者がいましたね。
月曜日の全校生徒朝礼?(朝会?)で、
観に行った者は前へ出ろ!みんなの前で、かなり絞られていた。
補導の先生が、館内でチェックしていたとか。
私は禁止令が出てからは行ってませんよ。
私は平野⇒花尾⇒中央でこの辺りが、一番懐かしいです。
このブログ、閉鎖されているようですね。
投稿した後で気が付きました。
お返事いただき、ありがとうございます。
祇園東映は、私の祖父が時々行っていたと記憶しています。
そして、祇園東映の事務所?金庫?から、拳銃が発見され警察が捜査していた記憶があります。
多分、それが原因で映画館が閉鎖になったと思い込んでいますが、本当に小さい頃だったので、それが記憶なのか、思い込みなのかはわかりません。
ただ、拳銃で見つかった というインパクトが残っています。
祇園東映の空き地は、スーパー大栄からディスカウントストアに変わったのか、またその逆なのかも記憶があいまいです。
ただ、スーパー大栄は祇園町商店街へ店が移動しました。
私の幼いころの記憶として、祇園東映の映画の看板で「四谷怪談」お岩様の怖いというイメージがあります。
映画鑑賞については、私は東映の映画より東宝の映画に興味がありました。
「ゴジラシリーズ」「若大将シリーズ」「無責男シリーズ」ですね。
中学、高校と個人で映画は禁止されていて、規則を破ると制裁がありました(笑)
別に大した理由はないのですが、去年の4月にちょうど10年になり、
初めあれば終わり、切れ目のいい所で閉鎖しました。
祇園東映で拳銃発覚事件ですか? そう云えばあったような?
もう、よっぽどの限りは忘却の彼方です。
昔の学校は学期毎?に、映写会がありましたね。
祇園東映ではなかったが、春の町の太陽館? 黒崎の映画館とかで。
それと、夏休みに学校(平野小)のグランドで、青空映写会?
アラカンの鞍馬天狗とかが記憶に残っています。
昔の思い出は尽きないですね。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。