「ケツパーの梅じ~」から「仕立て屋銀次」にたどり着いた。
こんなスリ師がいたんだね。知らなかった。
彼は歴史上最大の掏摸の元締めで、彼の逮捕には二個小隊の警察隊が動員されたという。逮捕のきっかけは「金時計事件」。元新潟県知事の男性が市電の中で金時計を紛失。伊藤博文から贈られた大切な記念の品とのことで、元知事は、「スリの親分に頼めば返してくれると聞いている、頼んでみてくれ」と被害届に百円札を添えて赤坂署に提出。
赤坂署の署長は、当時1,500人ほどいた東京のスリに君臨する二大巨頭、仕立屋銀次と湯島の吉に出頭を求めるが、仕立屋銀次は出頭せず出世の機会と面目を失いそうになった署長は怒り、部下を率いて日暮里村の大邸宅で1909(明治42)年6月23日逮捕劇となったのだった。
署長は、元知事に恩を売り、当時の最高権力者伊藤博文にゴマをするつもりだったとも言われている。
逮捕時の格好は丸顔5部刈り、鼻下に八の字ひげをたくわえ、フラノの単衣にセルの単羽織、鼠縮緬(ねずみ色の一面に細かなしぼを出した絹織物)の兵児帯に紺たびをはき、黒の山高帽、左の薬指に白金の指輪、甲斐絹(かいき=海気)細巻きの洋傘と、一見立派な紳士であった。赤坂署では署長自身が銀次らを取り調べ、一方で子分やその他親分株次々と検挙。銀次は例の如く「今度だけは許されたい」と哀訴歎願したが署長ははねつけ「警察界の大痛快時!」と市民は拍手したという。
捜査が進むにつれ、一大秘密結社のようなおおがかりな組織が浮かび上がった。「金融機関」として質店を開かせ、故売人と連絡して関西と盗品の交換をする。盗品変造には貴金属商、紺屋(染め物屋)、仕立屋などがあたり、文書の往復や盗品の送受に通信機関を設け、電話を架設し、遊興には待合(待合茶屋)を開いて芸妓出張所を営業し、社会的には赤十字功章者となるなど、警察の目を巧みに逃れていたという(朝日クロニクル『週刊20世紀』)。
銀次は元は仕立屋だったが、根岸に住むスリの親分清水の娘と内縁関係となり、ついには東京市内だけで子分は250余人、京阪地方から上京したスリも必ず銀次の元に寄って渡りをつけていた。財産をなした上は、上は北豊島軍日暮里村の村会議員となり、名誉職を利用して上流社会に入り込んで一代悪事をと深謀遠慮を巡らしていたらしい。
以前箱師(車内専門のすり)を専門だったが、徐徐に各地各方面に手を広げ、家に十万に近き財産を蓄え、本所区に数十戸の地所家作を有し、さながら大富豪の生活をなし居ていた。
銀次が君臨していた明治30年代は,国家が近代化して久しいにもかかわらず,刑事警察の方面ではいまだ旧幕時代の因習が残っており,警察とスリとが「持ちつ持たれつ」の関係,今風に言えば,思いっきり「癒着」していたよう。スリ業界にとっては,天国のような時代だった。配下の者の1日の「仕事」の内容と,警察からの被害報告をつきあわせて,配下の者がピンハネしていないか調べていたという。
明治の頃はこんなにすごい親分がいたんだね~。
こんな事が許されていた時代でもあったんだね。
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