表題の画像:顕彰碑から新大阪駅まで大水道の上に新幹線が建設されました。
阪急淡路駅西500m、新幹線高架下にある中島大水道顕彰碑を見てきました。
(2020.01.30)
中島とは、現新淀川(明治後期以前は中津川)と神崎川(古くは三国川)
に囲われた東淀川、淀川、西淀川の細長い地域のことです。
その細長い中島に江戸時代、排水路・中島大水道9.5kmが開削されました。
リーダー三庄屋により、農民の力で50日間・2000両(現在1両10万円とし
て2億円以上?)を工面して完成させました。
幕府が許可しないため、やむなく行った工事の責任をとり、三庄屋は自決
したそうです。(新大阪駅近くの、さいの木神社に合祀されています)
淀川流域は、利水でたくさんの恩恵を受けながら、絶えず水害や排水難の
苦難にあえぎ、それを克服してきた歴史に思いを馳せました。
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(地図上の位置アイコンをクリックすると画像と記事が表示されます)
わずか50日で全長9.5kmの水路を開削したとは驚きです。
すでに部分的にあった水路を、つないでいったのでは?と想像しますが
それを成し遂げた農民の切迫した思いを知ることができます。
中島大水道の起点にある顕彰碑です。淀川三区を流れています。
現在ではほとんどが暗渠化され実態を見ることはできません。
新幹線や十三バイパスの一部は、水路の跡地を使用しています。
”中島大水道は、北中島地区の農民が、度重なる水害と水はけの悪さに
耐えかねて切り開き、東は西成郡増島村(現東淀川区淡路地区)から西は
申新田(現此花区伝法地区)に至る九.五キロメートルに及び大用排水路
であった。延宝二年(一六七四)から同四年にかけて三義人と言い伝え
られている北大同村の沢田久左衛門、山口村の西尾六右衛門、新家村の
一柳太郎衛門などを先頭に、二十二か村の庄屋や村民が幕府に公儀普請
による水道開さくの願いをくりかえしたが、莫大な工事費がかかるので、
幕府は百姓自前の普請として水道開さくを許可した。
庄屋たちは二十二か村の村民を説得し、資金約二千両を募って延宝六年の
春わずか五十日で水路を貫通させるという偉業をなしとげた。
以来、明治三十二年(一八九九)の淀川改修至るまで、たゆまぬ維持、
補修により二百二十余年にわたって、その機能を果たし続け、地域の人々
にはかりしれない恩恵をもたらした。
ここに、今日の東淀川区、淀川区及び西淀川区の発展の礎を築いた先覚者
の義挙を末永く顕彰するため、この碑を建立する。
昭和六十三年五月吉日 発起人 東淀川農協協同組合組合理事長 村上英世”
新太郎松樋跡
新太郎松とは地名のようですが、どこにつながっていたのかは不明です。
阪急淡路駅周辺では高架立体工事が進行していました。
次は、新大阪界隈を探訪します。