西国街道からは少し離れていますが、171号線沿いに弁慶の泉がありました。(2020.02.15)
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左上は箕面川で、弁慶の泉はその伏流水だそうです。
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箕面市瀬川の弁慶の鏡水と比べると、雲泥の差の立派さです。
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ちょっとした公園になっています。
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きれいな水面が見えました。現役でしょうか?
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石碑があります。
義経主従が兄頼朝に追われ西国に落ちる際、この清水を飲んだという伝説です。
伝弁慶の泉由来記
この泉は、享保二十(1735)年の摂津志に
在今在家村 其味冷甘 谷伝弁慶 止渇干此
としるされている
としるされている
文治元(1185)年、追われる身となった源義経が西国街道を逃れて河尻(尼崎)
まで行く途中、多田蔵人行網や豊島冠者の武士団に前途をさえぎられたために、義経
とともに武蔵坊弁慶もよく奮戦し、この泉でのどの渇きを潤したとつたえれれている。
またこの泉は今在家村一帯の灌漑用水としても重要な役割を果たしてきた由緒ある泉である。
池田市史跡名勝天然記念物 史跡第三号
昭和五十三年十月三十一日指定 池田市教育委員会
池田市史跡名勝天然記念物 史跡第三号
昭和五十三年十月三十一日指定 池田市教育委員会