車の旅の友
ラジオ、特にインターネットラジオはアーカイブを初回から順に聴ける。
今は少し勉強したくなったらユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』を聴いて、疲れたら松本人志『放送室』を聴いている。
サピエンスの歴史と馬鹿話を交互に聴く。
脳内が掻き回される。
最近考えている。
教育に関わる人達と自分との決定的な違い。
僕はすぐに「飽き始め」てしまい、学びや気づきを目的に自分がそのファシリテーションをしている様な気がしない。
すぐにふざけたり、笑いを求めてしまう。
それが空気を読めていないとすれば、一番理解しやすい。
「ホクトマンは空気を読まない」
その評価が一番マッチしている。
しかし『トリックスター』の自分としての言い分は違う。
ふざけたり、笑いのない学習は軍隊教育、国の為に小さな力を終結するための学習方法そのものなのではないか
体系的に大量生産する学習方法の名残りなのではないか
そして現在は保護者の立場が強くなって、SNSの力で人を抹殺できる。
テレビ業界も教育業界もクリエイターの牙も爪も完全にもがれた。
そりゃ当然だ。
自分自身(視聴者も保護者)もそんな学習方法が染み付いて評価基準が単一だから
これからAIや、さらには新しい技術革新が人間の知識や技術を追い越すだろう。
その時にどんな生き方を息子に伝えるのだろう?
歴史を学ぶ事と同時に、「当たり前を壊す」「独創的な在り方」「クリエイティビティ」を同時に備えておかないと死ぬ。
生きたまま死ぬ。
ゾンビ
ゾンビができない事、それが「ふざけたり」「笑う」ことなのだ。
「空気を読む」究極の生命体(生きてない?)はゾンビなのだ。
映画やTVドラマやゲームでゾンビものが流行るのも皮肉なものである。
僕なら我が子をゾンビ清掃工場に預けたりしない。
『北海道の大地でナイフ一本で生きる術』と『火の周りでふざけて周りに笑いを生む術』を学ばせたい。