月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

牛頭馬頭

2019-01-13 17:37:18 | 祭と民俗の旅復刻版 伝説をめぐる

牛頭馬頭

  牛の頭に人間の体をもつ変化の者。馬の頭に人間の体を持つ変化の者。この二人?二匹?いったい何者なのでしょうか?

 この方達は「体は名を表す(本当は「名は体を表す」)」ということで、牛の頭の方が牛頭(ごず)、馬の頭の方が馬頭(めず)です。
 この方たちは一体何をする人なのでしょうか?
 この方達、実は地獄の住人です。例えば、「十王経」という地獄に落ちた者を断罪する十人の王(五番目は閻魔様!)について書かれたお経の、二番目の王、初江王の段にはこうあります。

 「牛頭は肩に棒を挟み、馬頭は叉(武器の一種)を擎(ささ)げる。(現世で)牛を苦しめ、牛を食べていたならば牛頭が多くやって来るし、馬に乗って、馬を苦しめていたならば馬頭が多くやってくる。」

 また、10世紀半ばに比叡山延暦寺の僧・源信が書いた「往生要集」には、

 「牛頭馬頭等の獄卒は、手に責め道具を持ち、地獄に落ちたものを山の間に追いやる。そうすると双方の山の距離がどんどん縮まり、やがて合わさる。間に入っていた者たちの体は砕け、血は流れて地を満たす。」

 恐ろしいですね。。。。そうです。この方達は地獄の鬼の一種と考えていいでしょう。
 
 さて、では何故地獄に、こういった牛頭馬頭がいると考えられるようになったのでしょうか?
 それは、上の十王経にヒントが隠されています。動物、特に牛や馬は人にコキ使われて一生を終える宿命にありました。その中で道教等の古代信仰では、人間の生活になくてはならない牛や馬に神性を認めていました。しかし、それは、生贄という形であらわれていました。牛に敬意を抱くのはいいのですが、殺してしまうのです。
 そうした習慣に疑問を投げかけていたのが、インドから流入した仏教でした。「日本霊異記」という仏教説話集にはこんな話があります。

 聖武太政天皇のころ、摂津の東成郡に住む金持ちの男が、神を祭るため毎年牛一頭を殺した。そのうちに重い病となった。殺生の罪が元だと悟り、その後は放生(捕らわれた動物を自由にしてやること)に勤める。いよいよ死に望んだとき、遺体を九日間は焼くなと妻に言う。
 その男、死んで閻魔庁にやって来た。そこに牛頭人身の者たちが、やって来る。「こいつは俺たちを殺しやがったんだ。今度は俺たちがこいつを切り刻んで刺身にして食ってやる!」
 そうして、切り刻まれようとしたとき、千万人の人間が、「このお方を助けてやってください!」と声を上げた。この声を聞き、閻魔様は、その男に無罪を言い渡す。千万人の人間の正体は、放生した動物達だった。その男はよみがえり、九十余歳まで生きた。その間男は、それまでの漢神信仰(道教)をやめ、仏に仕えて暮らしたという。

 地獄に牛頭馬頭がいるという考え方の背後には、動物達に死を強いる人間の罪悪感があったのです。このような罪悪感が、祇園会の祭神となる牛頭天王となり、祇園会で重要な役割を果たす「馬の頭部」の彫刻を胸にかける久世駒形稚児の元にもなったのではないでしょうか。
 「往生要集」を記した源信の活躍した時代と、祇園会の定例化の時代は共に10世紀末から11世紀初頭になることを考えると、荒唐無稽な説ではないと思います。

 

 

2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「伝説をめぐる」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


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