売れない落語家という存在は、哀愁があるのに人を笑わせる性癖がどうにもおかしくて映画向き。森田芳光のメジャーデビュー作「の・ようなもの」(’81)がまさしくそれだった。「へたくそ!」と面罵されて落ち込む志ん魚(しんとと)が、道中づけするシーンは今でも忘れられない。あの傑作に匹敵する、と言いたくなるほど「しゃべれども しゃべれども」はいい。佐藤多佳子の原作も(特に前半)泣かせるが、映画は違った形でしみじみさせてくれる。
ストーリーははっきりと「坊っちゃん」が下敷きになっている。古典落語しかやらず、いつも和服を着ている頑固な二つ目(国分太一)が主人公。両親が死んでしまい、祖母(八千草薫)と二人で住んでいる。つまり、彼女がキヨにあたるのだろう。あこがれのマドンナはインテリのもとに嫁いでしまうし、嫌味な兄弟子は赤シャツだろうか。逆に言うと、あの「坊っちゃん」を現代でやろうと思えば、落語家という古典的な設定は必然だったということかな。
その売れない落語家が、ひょんなことから『他人にうまく自分の思いを伝えられない美女(香里奈)』『大阪弁がぬけなくて(実は意識的に共通語を拒否している)クラスでいじめられている小学生』『打撃理論に精通しているのにうまく解説できない元プロ野球選手(松重豊)』の三人に落語「まんじゅうこわい」を教えることになる……
原作では、実は落語を習得することで彼らの人生がそれほど好転するわけではない。いじめはそう簡単になくならないし、美女とプロ野球選手のしゃべりが格段にうまくなるわけでもない。でも、コミュニケーション不全におちいっていた彼らと、そして落語が好きで好きでたまらないのになかなか上達しなかった落語家は、ほんの少しだけ気持ちを素直に口にできるようになっていく。
映画はわかりやすさが求められるメディアだから、ストーリーはもっとドラマティックだ。落語教室の面々が催した発表会で、無口な美女が選んだ噺は「まんじゅうこわい」ではなく、主人公の意表をつく。その演目こそが、彼女の気持ちをあらわすものだったのだ。まさか『落語それ自体』を愛の告白に設定するとは。脚本(奥寺佐渡子)のうまさにうなる。
背筋を伸ばして下町を歩く国分が意外なほどいい。で、得な役とはいえ、香里奈って女優はきれいですなあ。いつも全身黒づくめ。そうやって世間に敵対しているかのような彼女がほおずき市で見せた浴衣姿には、いくら石部金吉の主人公でも心をうばわれずには……で、ラストの主人公のびっくりするような決めゼリフにつながる。なるほど、あのセリフ(お楽しみにしてください)を言わせるには、和服を着た主人公でなければならないわけだ。まことに、おあとがよろしいお話。必見!
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