ちょっとわけのかわらない三題話ですが、おつきあいください。
北京五輪の放送は、ほとんど観れなかったけど、
それでも運良く、女子サッカーのドイツ戦と
ソフトボールの決勝戦だけはみれた。
このふたつだけでも、十分満足させてくれる内容でした。
ソフトボールについては、もう十分語られていることでしょうが、
女子サッカーの躍進とその実力の高さを見せつけたドイツ戦は、ほんとにすばらしかった。結局は負けちゃったけどね。
男子でもあれだけワンタッチでパス回しをすることはそうは出来ない。
今後がとても楽しみです。
で、北京五輪が終わってから湧き出したのが、他国と比較してみたときの日本のスポーツ予算の低さでした。
メダルひとつ増やすのに、約1億円の増額が世界相場のような論調。
日本も、中国、韓国、イギリス並に増やせと。
たとえ同等にまでとはいかなくても、日本の現状はあまりにも低すぎると。
日本の予算が低すぎることは納得できるのだけど、だからといって中国やイギリスの真似をしても、なんなんだと言いたい。
そこで、世界のメダルの獲得数を見てみると
おおよそは、メダル獲得数のベースは国力≒人口の関係にあり、大国アメリカ、中国、ロシアが上位を占めるのが基本構造。
比較的、国力よりも健闘しているのは、レジャーやスポーツの盛んなオーストラリア、カナダあたりだろうか。
そうした前提でみると、日本は、おおまかに妥当なレベルにあり、どちらかといえば、
体の小さいわりには十分健闘しているともいえる。
ところが、こうした前提でずっと気になっていたのが、インドです。
今や中国とならんで、既存の先進国を脅かす存在で、ITや科学技術の分野では、今やインドのエンジニア抜きでは成り立たないほど、世界の中枢を支えている。
人口規模だけでなく、国力の進展もめまぐるしい。
ところが、ことスポーツとなると、
なぜかインドは、いかなる分野をみても、あまり顔を見ない。
中国ほどではなくとも、少しは上位に出てきそうなものだけど、
どんな競技を見ても、インドが上位に加わってくることはない。
カレーを食べると、競争心が無くなるのか?
そういわれてみれば、
確かにカレーを食うと満足してしまい、もう他にはなにもいらない気分になる。
でもインドに限らず、なんとなくインドから東南アジアにかけての民族は、競い合うという雰囲気ではない。
すぐにしゃがんでしまい。まわりの様子をただぼーっと眺めてしまいそうな感じ?
これはなにか文化、民族性の問題なのだろうか?
それとも、インド洋を吹き抜ける風のなせるワザ?
でも、私からすれば、スポーツはダメでも、エンジニアとすばらしい音楽文化を持っているだけで、すばらしい国であることには違いない。
インドがメダルの数にこだわらない国家戦略をとっているわけではないだろうが、
ここで気づいてほしいのは、国力=人口規模=経済力の構造にかかわりない、それぞれの国の魅力、独自の強さをいかにつくるか、ということに
もっともっとスポーツも含めて目を向けるべきではないだろうかということです。
経済力と同じく、軍事力の議論でも同じなのだけど、ものの強さを常に「量」でしか比べられないひとたち。
「量」が大事な指標に違いないのだけど、
国が小さいのに
体が小さいのに
なぜこの国は、この分野ではかくも強いのだろう
と言われてはじめて尊敬されるのではないだろうか。
強くなるには、国力=人口=経済力=軍事力を増やさなければ勝てない
の論理では、ほんとうの競争にはなっていない。
スポーツこそ、最もこうした論理から脱却するべき分野でしょうに。
で、わたしが思うに、
そうした「量」の比較に左右されない真の「強さ」を実現するような
スポーツ振興政策を日本こそが、とるべきではないだろうか―、
ということで、三題話の最後、
「草の者」の登場となるわけです。
総じて、スポーツ競技者というのは、選手として活躍する期間が短いだけではなく、
引退後の生活の保証がないのも特徴で、運良く、監督やコーチとしてその世界にとどまれる例は、確率からいえば極めて低い。
そればかりか、身体的にも、スポーツ選手の方がなぜか短命である場合が多い。
芸術家や農林漁業の自営業者のほうがずっと、
相場でいえはスポーツ選手よりも長生きしていると思う。
かといって、かつての社会主義国のように、メダル獲得者に一生安心して暮らせる年金生活を保障することが、20歳そこらで栄誉を得た選手の生涯を考えると、それがほんとうの幸せになっているとも思えない。
こうした構造を考えたとき、
国が真にスポーツ振興に力を入れるということを考えるならば、
メダルの獲得数を増やすことに何十、何百億の金をつぎ込むことが良いことといえるだろうか。
そんなことに何百億つぎ込むよりは!
「草の者」の事業に10億ばかし、つぎ込んだほうが遥かに国民のためになるのではないだろうか。
いや、5億でもいい。
つまり、競技としてのスポーツを問題にする前に、
子供の読み・書き(プラス書道)・計算の能力をしっかりつけることが、その後の学力、思考能力を大きく左右するように、個別競技を問う前の基礎体力、
つまり、
「強靭な足腰」を小さいときから鍛え、
社会人から高齢者になっても、その鍛錬を国民の基礎活動と位置づけることができれば、
スポーツの領域に限らず、あらゆる領域に波及する
国民の健康増進に最も効果のかる活動となるのです。
こうした鍛錬に、私の「草の者」の活動ほど適した運動はない。
闇夜であろうが、
崖であろうが、
激流越えであろうが、
道のあるなしにかかわりなく、一夜にして100キロを駆け抜ける能力を持った日本国民が育てば、
いかなる外国の軍事力に対しても、徹底ゲリラ戦で闘い生き残ることができる。
あらゆる競技に適応できる基礎体力を持った国民が育つ。
年衰えても、足腰だけはしゃんとした老人となり
施設のお世話になる必要はなくなる。
いつまでもうじうじ考えず、スパッと行動に移れる国民ができる。
すばらしいではないですか。
5億といわず
3億ぐらいでもできるんじゃないかな?
ね。
「かみつけの国 草の者研究所」に、
どお?
北京五輪の放送は、ほとんど観れなかったけど、
それでも運良く、女子サッカーのドイツ戦と
ソフトボールの決勝戦だけはみれた。
このふたつだけでも、十分満足させてくれる内容でした。
ソフトボールについては、もう十分語られていることでしょうが、
女子サッカーの躍進とその実力の高さを見せつけたドイツ戦は、ほんとにすばらしかった。結局は負けちゃったけどね。
男子でもあれだけワンタッチでパス回しをすることはそうは出来ない。
今後がとても楽しみです。
で、北京五輪が終わってから湧き出したのが、他国と比較してみたときの日本のスポーツ予算の低さでした。
メダルひとつ増やすのに、約1億円の増額が世界相場のような論調。
日本も、中国、韓国、イギリス並に増やせと。
たとえ同等にまでとはいかなくても、日本の現状はあまりにも低すぎると。
日本の予算が低すぎることは納得できるのだけど、だからといって中国やイギリスの真似をしても、なんなんだと言いたい。
そこで、世界のメダルの獲得数を見てみると
おおよそは、メダル獲得数のベースは国力≒人口の関係にあり、大国アメリカ、中国、ロシアが上位を占めるのが基本構造。
比較的、国力よりも健闘しているのは、レジャーやスポーツの盛んなオーストラリア、カナダあたりだろうか。
そうした前提でみると、日本は、おおまかに妥当なレベルにあり、どちらかといえば、
体の小さいわりには十分健闘しているともいえる。
ところが、こうした前提でずっと気になっていたのが、インドです。
今や中国とならんで、既存の先進国を脅かす存在で、ITや科学技術の分野では、今やインドのエンジニア抜きでは成り立たないほど、世界の中枢を支えている。
人口規模だけでなく、国力の進展もめまぐるしい。
ところが、ことスポーツとなると、
なぜかインドは、いかなる分野をみても、あまり顔を見ない。
中国ほどではなくとも、少しは上位に出てきそうなものだけど、
どんな競技を見ても、インドが上位に加わってくることはない。
カレーを食べると、競争心が無くなるのか?
そういわれてみれば、
確かにカレーを食うと満足してしまい、もう他にはなにもいらない気分になる。
でもインドに限らず、なんとなくインドから東南アジアにかけての民族は、競い合うという雰囲気ではない。
すぐにしゃがんでしまい。まわりの様子をただぼーっと眺めてしまいそうな感じ?
これはなにか文化、民族性の問題なのだろうか?
それとも、インド洋を吹き抜ける風のなせるワザ?
でも、私からすれば、スポーツはダメでも、エンジニアとすばらしい音楽文化を持っているだけで、すばらしい国であることには違いない。
インドがメダルの数にこだわらない国家戦略をとっているわけではないだろうが、
ここで気づいてほしいのは、国力=人口規模=経済力の構造にかかわりない、それぞれの国の魅力、独自の強さをいかにつくるか、ということに
もっともっとスポーツも含めて目を向けるべきではないだろうかということです。
経済力と同じく、軍事力の議論でも同じなのだけど、ものの強さを常に「量」でしか比べられないひとたち。
「量」が大事な指標に違いないのだけど、
国が小さいのに
体が小さいのに
なぜこの国は、この分野ではかくも強いのだろう
と言われてはじめて尊敬されるのではないだろうか。
強くなるには、国力=人口=経済力=軍事力を増やさなければ勝てない
の論理では、ほんとうの競争にはなっていない。
スポーツこそ、最もこうした論理から脱却するべき分野でしょうに。
で、わたしが思うに、
そうした「量」の比較に左右されない真の「強さ」を実現するような
スポーツ振興政策を日本こそが、とるべきではないだろうか―、
ということで、三題話の最後、
「草の者」の登場となるわけです。
総じて、スポーツ競技者というのは、選手として活躍する期間が短いだけではなく、
引退後の生活の保証がないのも特徴で、運良く、監督やコーチとしてその世界にとどまれる例は、確率からいえば極めて低い。
そればかりか、身体的にも、スポーツ選手の方がなぜか短命である場合が多い。
芸術家や農林漁業の自営業者のほうがずっと、
相場でいえはスポーツ選手よりも長生きしていると思う。
かといって、かつての社会主義国のように、メダル獲得者に一生安心して暮らせる年金生活を保障することが、20歳そこらで栄誉を得た選手の生涯を考えると、それがほんとうの幸せになっているとも思えない。
こうした構造を考えたとき、
国が真にスポーツ振興に力を入れるということを考えるならば、
メダルの獲得数を増やすことに何十、何百億の金をつぎ込むことが良いことといえるだろうか。
そんなことに何百億つぎ込むよりは!
「草の者」の事業に10億ばかし、つぎ込んだほうが遥かに国民のためになるのではないだろうか。
いや、5億でもいい。
つまり、競技としてのスポーツを問題にする前に、
子供の読み・書き(プラス書道)・計算の能力をしっかりつけることが、その後の学力、思考能力を大きく左右するように、個別競技を問う前の基礎体力、
つまり、
「強靭な足腰」を小さいときから鍛え、
社会人から高齢者になっても、その鍛錬を国民の基礎活動と位置づけることができれば、
スポーツの領域に限らず、あらゆる領域に波及する
国民の健康増進に最も効果のかる活動となるのです。
こうした鍛錬に、私の「草の者」の活動ほど適した運動はない。
闇夜であろうが、
崖であろうが、
激流越えであろうが、
道のあるなしにかかわりなく、一夜にして100キロを駆け抜ける能力を持った日本国民が育てば、
いかなる外国の軍事力に対しても、徹底ゲリラ戦で闘い生き残ることができる。
あらゆる競技に適応できる基礎体力を持った国民が育つ。
年衰えても、足腰だけはしゃんとした老人となり
施設のお世話になる必要はなくなる。
いつまでもうじうじ考えず、スパッと行動に移れる国民ができる。
すばらしいではないですか。
5億といわず
3億ぐらいでもできるんじゃないかな?
ね。
「かみつけの国 草の者研究所」に、
どお?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます