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歩く人びと (郷土史講座より)

2010年02月12日 | 上野国「草の者」研究所
 渋川市立図書館主催の郷土史講座、大島史郎さんの「渋川び江戸時代における庶民の旅」についてふたたび書いておきます。

 庶民の旅をテーマにした講演でしたが、私にとっては「歩く」ということに関した内容のものとして格別の興味がわく内容でした。


 講演資料のメインは渋川村木暮家に残っていた伊勢参りの記録です。

「伊勢  天保十三年
   日記
  大々   寅正月吉日」

といった表紙のついた立派な記録です。

一部抜粋すると、

正月九日 一 安中宿 金井宗助  泊り
  十日 一 追分宿 越後や   泊り
 十一日 一 上田宿       泊り
 十二日 一 坂木(ママ)宿 平林惣右衛門 泊り
 十三日 一 善光寺 藤や平五郎 泊り

   (略、須原、松坂などを経て)

二月一日 一 伊勢地 紅や    泊り
  二日 一 なはり 休
  二日 一 長谷 ごまや    泊り
  三日 一 なら 小乃や善助  泊り
  
 (略 吉野、高野山、大坂、ひめじ、あかし、西ノ宮、大坂、宇治、京都、大津、等をへて)

三月五日 一 飯田 亀や小兵衛  泊り
  六日 一 いるべ 大和や   泊り
  七日 一 平井出 休
  同  一 諏訪 かめや    泊り
     中仙道飯田道追分アリ
  九日 一 塩名田 万や惣左衛門 泊り
  十日 一 坂本  松葉や   泊り
 十一日 一 松井田 休
  同   一 高崎 さかへや  泊り


 お伊勢参りとはいうものの、善光寺を経て、奈良、吉野、高野山、姫路までまわって二カ月半にものぼる旅をしています。

 随分贅沢な旅をしているように思えますが、
天保年間にお伊勢参りをした人の数は、500万人とも言われ、宝永年間にも350万人もの人が行っていたというから、当時の人口からしても相当な数の人がこうした旅をしていたことになります。

これらの数字から当時の庶民の暮らしは、かつての封建時代といった圧政のイメージとはだいぶ違う、意外と豊かな暮らしがあったことが想像されます。

現実には、講の仲間の間で積み立てを行い、くじ引きで当たった人が行っていたそうです。
それで当たった人は、借金をしてでも行った記録があるようです。

 ちょうど昨年に、あかぎ出版から『祈りの道 善光寺』(1,800円)という本が出ています。この本を見て、上州から善光寺参りが格別盛んであったのかと思いましたが、大島先生に聞いてみたところ、必ずしも善光寺参りが突出していたのではなく、お伊勢参りのコースに善光寺も入っていたため、それだけ盛んであったのであろうということでした。

 こうした人が歩いて移動すること、街道を旅することなどについては、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかで、上州の古道・諸街道のページなどで追っていることですが、
個人的に「上州草の者研究所」の活動、大疾歩(おおのり)などとともに大変興味を持っていることです。

 真田氏の領地、沼田から上田までを限りなく最短距離で走破する企画、この春こそ成し遂げなければなりません。
 そうした人が歩くことの実態を、ちょうど最近読んでいた、池田弥三郎著『日本故事物語』上巻(河出書房新社)のなかに、興味深い記述をみることができたので、ここに一部紹介させていただきます。


 江戸時代の公儀の飛脚なども、最も速いものは、江戸京都間を東海道経由で二十九時(58時間)で走っている。これは「無剋」といって、文字通り昼夜兼行で、途中の訊問もなく、大井川などの渡しにも渡河の優先権をもっていた。東海道百二十五里二十丁をマラソン選手の半分位のスピードで走破している勘定になる。記録的なのは、京都と静岡との間を往復した飛脚で、1日に八十里歩いたことになるそうだ。

民間の三度飛脚だと、並便は京より江戸への片道に三十日を要するが、その上に十日限り(ぎり)といって、片道十日に出発・到着の日を入れて十二日かかるもの、六日限り(定六)といって、大体七日で到着するもの、さらに確実に六日という保証付きの正六、もと速いものになると四日限りや三日限りの仕立飛脚があった。

もっとも別仕立てとなると、速いことも速いが、料金のほうも三日限りで三十両、六日限りでも金八両という莫大なものであたらしい。

 元禄十四年三月十四日、浅野長矩の刃傷を国許に報ずるため、藩士速水藤左衛門・萱野三平の両名は巳の刻に江戸を出立、早駕籠を乗り継いで五日にして播州赤穂に到着したという。これなど相当な速さであるが、

   大急ぎ三枚

などという三枚は三枚肩のことで、かごかきが三人ついて急行したものから生じたことばである。しかし、私が子どもの時分に聞いた「大急ぎ三枚」「三枚で頼むぜ」なども、もう聞かれない。ものごとの移り変わりこそ、韋駄天より早いかもしれない。

 もう一人付け加えると、例の俳人松尾芭蕉である。「奥の細道」でみても、その旅行の第一日は、千住まで舟で行き、午前十一時頃にあがってここで昼飯をすまし、人々に別れ、午過ぎから歩きだして、その日は粕壁に泊っている。千住粕壁間は曾良は九里と記している。街道の里程で七里たらずである。大へんな健脚であって、この旅行中、長い時は一日に十三里も歩いている。超人的だが、伊賀出身の芭蕉は、忍者の歩行の術を心得ていたのであろうと言われている。
(ここまで引用)

 今、はじまったオリンピックなどの競技としての特殊技能ではなく、人々の日常の姿としての「歩く」力、あるいは職業としての「歩く」「走る」力。これらを私たちの基礎身体能力として取り戻すことにどれだけ重要な意義があるか、繰り返し時間をかけて追及していきたいと思っています。
 体力の衰えた子どもたちには、「歩育」などという言葉もあるようです。
 安全のための車での送迎もやむをえない実情もあるかもしれませんが、学校帰りに道草を食いながらあちこちイタズラをしながら帰ることが、どれだけ身体能力と感性を鍛えることか、また意義のあることか、いくら強調してもしたりない思いがあります。

人間は、考える「足」ですから。

 みなさん、健康な人間を目指すなら、30kmくらいはいつでも歩けるようになりましょう。
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