誤解の多い異端の宗教、浄土真宗のことを理解してもらうために
歎異抄のなかの有名なくだりの話をもうひとつふたつ先に書いておきたい。
親鸞が唯円に、おまえは私のことを信じるかと訪ねるところがあります。
それにたいして唯円はとうぜん「もちろんです」と応える。
「ならば私のいうことは何でも聞くか?」
「かなずおおせのとおりにします。」
すると親鸞は、
「よろしい、ではまず人を千人殺してみよ、そうすれば浄土への往生は間違いない」
というと唯円は
「おことばではございますが、私には千人どころか、ひとりでも自分では殺すことはできそうにありません」
「ならばどうして親鸞の言うことに決して背かないといったのか」
ここに究極の合理主義的宗教(そんな定義がなりたつのかはわからない)の問題提起があります。
この問答ばかり有名になってしまい、オウム教団のときにも引き合いにだされたりしましたが、大事なのはこの次の親鸞の言葉です。
親鸞のことばは次のとおり。
「これでわかったであろう。
もしなにごとも自分の意志によって事が成るとしたら、浄土へ行くために千人を殺せと言われれば、ほんとうに殺すかもしれないではないか。
それができないというのは、べつにそなたの心が善いからではないのだよ。
それは自分の意志によって、殺すことができぬのではない。
なんらかの状況においては、人は苦もなく百人、千人を殺すこともありうるのだ。
このように、自分の心が善であれば往生にも良く、悪であれば往生の妨げになるなどと自分で判断してはならない。
自分の意志によって善となっているのではなく、
悪をなすのも、悪の意志によってなされるものではない。
阿弥陀仏はそれを前提として、善悪かかわりなく救うと約束されたのである。
そのことを忘れないように」
ここに「他力」思想の魅力、修行や努力の積み重ねは大事であるが、それで簡単に人間が完成されるようなものではなく、さらに努力をしていないからといって、その人間存在を安易に卑しめるようなものではないという親鸞の深い人間観がある。
人間とは、究極には了解しえない存在かもしれないという怖れの感覚、人間というこの未知なる存在の前に、まず辞を低くして心を澄ましてみようとする謙虚な姿勢が親鸞の思想、「他力」の考えのなかにはあふれている。
このことを前提にして、最も有名な
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」」
の意味に静かに耳をかたむけなければならない。
がっ!
この親鸞の深遠な問いかけ、
歴史を振りかえると、インテリ知識人にとても注目されているにもかかわらず
あるいは日本の宗教改革ともいわれる鎌倉仏教の高い評価のわりに、
現実の信仰やその後の日本人の日常意識の間には根付いていない。
そのことを語り、
突破口を見出すために
親鸞のから時を経て、蓮如以降の時代に
あまり知られていないフランス革命より早く大規模に実現した
一向一揆衆によ平等思想社会「百姓ノ持チタル国」のことを
これから考察してみたいのです。
いったい、いつになったら本題に入れるのか
はたまた入れないのか?
私も知~らないっ。
正林堂店長の雑記帖 2008/2/26(火) より転載
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