夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
81年11月10日の午後だった。まるで事件記者のように、わたしは銀座の会社を飛び
出して、すぐさま調布の撮影スタジオに電車を乗り継いで駆けつけたのだ。
東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
旅をした仲良しだったのだ。というのも、彼は学生時代に盛岡にいたことがあって、街の
ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
ないという噂を聞いていたので尋ねると、「いやー、この方が楽なんで・・」と苦笑。
彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
81年11月10日の午後だった。まるで事件記者のように、わたしは銀座の会社を飛び
出して、すぐさま調布の撮影スタジオに電車を乗り継いで駆けつけたのだ。
東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
旅をした仲良しだったのだ。というのも、彼は学生時代に盛岡にいたことがあって、街の
ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
ないという噂を聞いていたので尋ねると、「いやー、この方が楽なんで・・」と苦笑。
彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
81年11月10日の午後だった。まるで事件記者のように、わたしは銀座の会社を飛び
出して、すぐさま調布の撮影スタジオに電車を乗り継いで駆けつけたのだ。
東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
旅をした仲良しだったのだ。というのも、彼は学生時代に盛岡にいたことがあって、街の
ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
ないという噂を聞いていたので尋ねると、「いやー、この方が楽なんで・・」と苦笑。
彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
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東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
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ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
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彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
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・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
81年11月10日の午後だった。まるで事件記者のように、わたしは銀座の会社を飛び
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東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
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当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
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彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
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東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
旅をした仲良しだったのだ。というのも、彼は学生時代に盛岡にいたことがあって、街の
ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
ないという噂を聞いていたので尋ねると、「いやー、この方が楽なんで・・」と苦笑。
彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
に急いだ。わたしは正直少々がっかりして、三球三振した代打の気分だった。
彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。
夕陽に立つ秀次郎
あの高倉 健さんを紹介してくれたのは友人の東條忠義さんだった。
北海道出身のCMディレクターの彼は、なぜか盛岡の好きなひとだった。
「いま、健さんと撮影してるけど、スタジオに来るか?」という電話があったのは19
81年11月10日の午後だった。まるで事件記者のように、わたしは銀座の会社を飛び
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東條さんとは、男性用の化粧品コマーシャルの仕事で10年も前からのおつきあいで、
同じ年齢の寅年で、なぜかお互いにヘミングウェイのファンだったので、彼の有名な著書
の舞台をベースにしたアイデアで、その小説の現場にロケをしてCMを作っては、世界中
旅をした仲良しだったのだ。というのも、彼は学生時代に盛岡にいたことがあって、街の
ことは、かなり詳しく、よくロケ中にも話題になった。
当然のように、当時からわたしが無類の高倉 健ファンなのを知っていて、彼が監督し
ていたコーヒーのCMの撮影が、偶然その日にあったのだ。わたしは焦った。
駆けつけたスタジオでは、ちょうど照明の変更で、東條さんを見つけると、「ああ、い
ま健さんは、あそこら辺にいるよ・・」と、一緒に多摩川の土手に案内してくれた。
たしかに、憧れの健さんは、多摩川の土手に、晩秋の夕陽を眺めて立っていた。
「どうも、高倉です・・・・」と健さんは、あの照れ笑いをしていた。
わたしは当時も全ての健さん映画を見ていて、とくに「昭和残侠伝」シリーズの花田秀
次郎さんのファンだったので、そのことを話したら、「・・・そうすか。」と健さん。
「・・・あいつはまだ、たしか網走に入っていますよ・・」と苦笑したのだった。
噂の様に、健さんは立ったままで夕陽を見ている。東条さんからも、彼はほとんど坐ら
ないという噂を聞いていたので尋ねると、「いやー、この方が楽なんで・・」と苦笑。
彼はヘンリー・フォンダの大ファンで、特に彼の立ち姿に憧れていて、ハリウッドで会
った時に、本人に尋ねたら、やはりステージの仕事が多いので、立っている方が好きだ。
という言葉だったという。「ミスター・ロバーツ」は最高すよね。・・・あの役は、でき
たら、オレもやってみたいすね・・・と照れ笑い。
ちょうどカセットで彼が聞いていたのが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター
・ボージャングル」で、スタンダップ・コメディアンの歌。これを毎日聞いているのだと
いう。路上の立ち芸人の歌で、黒人ボードビリアンの素朴なスロー・ワルツ。
「立ち見、立ち読み、立ち食い、立ち話。・・・。男の特権。いいですね」と言うと、
「立ちションってのもいいすね・・・」と彼は笑った。
ほどなく照明さんが撮影再開の知らせに駆けつけたので、わたしは別れしなにサインを
求めたのだが、「いや、ここじゃ何なので、・・・あとで送ります・・」と彼はスタジオ
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彼は仕事中はサインをしないことは、東條さんからもよく聞いていたが、さすがにわた
しはシュンと溜め息をして、寂しく土手を降りた。
それから10日ほどして、わたしの自宅ポストには、大きな8×10のダイレクト・カ
ラープリントで、あの花田秀次郎さんの着流し姿に太い墨汁で「細越さんへ、高倉健」と
サインした大きな封書が届いたのだった。その翌年は年賀状も届いたのには感動した。
さすが、あの任侠映画のように「義理と人情」の、熱いひとだった。
きっと今頃は、コーヒー好きの東條さんと再会して、上で立ち話をしているだろう。