好天に恵まれた4日、山車の諏訪神社への練り入りが行われました。
四日市商店連合会の甕破り山車は、戦前の目抜き通りである竪町から中町を練って東へ進みます。このあたりは江戸時代から四日市宿の中心だったところで、本陣や高札場、問屋が軒を並べていました。往時には、芸子衆がにぎやかに歌や踊りを披露したと伝えられています。
この浜街道は西へ遠く近江の国につながり、東へは濱町、築地、納屋町から港への道が通っていました。
中町の練り受所で演技を披露した後西へ方向転換させ、竪町に戻って辻へ出ます。岡田屋発祥の地があった札の辻を左へ曲がり、旧東海道を南町へ進みます。
当時は東海道を旅する人々が泊まる旅籠や陣屋、料理屋や待合などが通りの両側に並んでいたそうです。
旧東海道から諏訪新道に出ました。
諏訪新道は、戦後四日市で一番賑やかになった通りで岡田屋や岡本総本店など四日市の大型店が並んでいました。
山車のすべてはこの通りで演技を披露し、昭和32年頃完成した四日市近鉄駅が正面に建つ中央通りから、諏訪栄町の商店街に入り、1号線沿いに諏訪神社へと練りこみました。いわば四日市の町の変遷をなぞるように進めた甕破り山車でした。
諏訪神社では四台のからくり山車が披露されました。右から中納屋の大入道、本町の岩戸山、新丁の官公、そして四日市商店連合会の甕破り山車です。
この後、南納屋の鯨舟が練りこんだそうですが、帰りに諏訪新道のところで喧嘩をしておりました、何が原因なのか分かりませんが、警察が止めに入っていたのを目撃させていただきました。酒と祭りの勢いは今も健在です。
余 談
この後、甕破り山車は「まっさん」にて食事会を開かせていただきました。
その席でのミステリー。
ひとつの膳が5人分でから揚げは五個。ところがひろっさんの分が足りなくなりました。消えたのです。
ひろっさんは「食べたい」と言うし、周りの人に問いただしましたが、二個食べた人はおりません。
さて、から揚げはどこに消えたのでしょうか?
この事件をぜひブログに載せろと言うご期待に応えて、ここに掲載させていただきました。
マ、どうでもいいことなのですが・・・・・
四日市商店連合会の甕破り山車は、戦前の目抜き通りである竪町から中町を練って東へ進みます。このあたりは江戸時代から四日市宿の中心だったところで、本陣や高札場、問屋が軒を並べていました。往時には、芸子衆がにぎやかに歌や踊りを披露したと伝えられています。
この浜街道は西へ遠く近江の国につながり、東へは濱町、築地、納屋町から港への道が通っていました。
中町の練り受所で演技を披露した後西へ方向転換させ、竪町に戻って辻へ出ます。岡田屋発祥の地があった札の辻を左へ曲がり、旧東海道を南町へ進みます。
当時は東海道を旅する人々が泊まる旅籠や陣屋、料理屋や待合などが通りの両側に並んでいたそうです。
旧東海道から諏訪新道に出ました。
諏訪新道は、戦後四日市で一番賑やかになった通りで岡田屋や岡本総本店など四日市の大型店が並んでいました。
山車のすべてはこの通りで演技を披露し、昭和32年頃完成した四日市近鉄駅が正面に建つ中央通りから、諏訪栄町の商店街に入り、1号線沿いに諏訪神社へと練りこみました。いわば四日市の町の変遷をなぞるように進めた甕破り山車でした。
諏訪神社では四台のからくり山車が披露されました。右から中納屋の大入道、本町の岩戸山、新丁の官公、そして四日市商店連合会の甕破り山車です。
この後、南納屋の鯨舟が練りこんだそうですが、帰りに諏訪新道のところで喧嘩をしておりました、何が原因なのか分かりませんが、警察が止めに入っていたのを目撃させていただきました。酒と祭りの勢いは今も健在です。
余 談
この後、甕破り山車は「まっさん」にて食事会を開かせていただきました。
その席でのミステリー。
ひとつの膳が5人分でから揚げは五個。ところがひろっさんの分が足りなくなりました。消えたのです。
ひろっさんは「食べたい」と言うし、周りの人に問いただしましたが、二個食べた人はおりません。
さて、から揚げはどこに消えたのでしょうか?
この事件をぜひブログに載せろと言うご期待に応えて、ここに掲載させていただきました。
マ、どうでもいいことなのですが・・・・・