花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

思いやりのこころ

2010年01月08日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
          
図書館で借りた本「思いやりのこころ」木村耕一著 1万年堂出版
明治23年9月16日、600人を乗せたトルコ客船エルトゥールル号が、台風のため紀伊半島南端の大島付近で遭難した。
船は座礁し爆発沈没したのだ。午後8時30分暴風雨のなか、岸に泳ぎ着いた人は灯台の明かりを目指して決死で歩いた。
灯台の職員は驚いた。言葉も通じない血だらけの外国人が入り口に立っているではないか。
急いで村人に知らせ、大島の住民は総出で必死の捜索にあたった。
続々と負傷者が小学校や寺に運び込まれる。不眠不休で治療にあたる医者。裸になって負傷者を温める者。食べ物や衣服を提供する者。村人たちの必死の看病の末、69名のトルコ人が命をとりとめ、4日後に到着した救助船で神戸の病院へ運ばれた。
そのとき、言葉が通じないトルコと大島の人たちの間には、温かく固い絆が生まれていたのだ。
この話はトルコの教科書にも載せられるほど重要な出来事として語り継がれてきたという。
さて、1985年3月17日。イラン・イラク戦争のさなか、イラク大統領サダム・フセインは「イラン上空の飛行機すべてを2日後に攻撃する」と宣言した。
イランに滞在していた日本人500名は脱出を試みるが、当時、イランへ就航している日本の航空会社はなかった。外国のどの飛行機も自国民が優先される。
ようやく座席を確保できたのは半数の日本人で、残りの二百数十名は危険な場所に置き去りにされた。日本からの救援機はついに来なかったのだ。
その時である。
トルコ航空機が危険を侵してイランへ乗り入れ、空港で途方にくれていた日本人全員を救助したのだ。まさに間一髪であった。
「情けは人のためならず」
親切はめぐりめぐって自分に返ってくる。
百年後にかえった親切。いいお話があるものですねえ。