4月に入って二つの葬儀に参列した。
ひとつは松ちゃん。本人の遺言で家族葬にされた。松ちゃんの人柄に多くの知り合いが集まり、故人を偲んで涙で送る会となった。
送ることばが述べられ、一人ひとりが祭壇に花を添えた。白木の位牌には“松山 茂之霊”と書かれていた。
もうひとつは、ごく普通の葬儀。友人のお父さんが高齢で亡くなられ、僧侶の読経と焼香で送られた。
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今、ベストセラーになっている一冊の本がある。
幻冬舎刊「葬式は 要らない」島田裕巳著。
世界でも類を見ないほど高額な葬儀が、日本では慣例となっている。法名も、少し上のランクを望めば、数十万と言うお金がかかる。僧侶への御礼を含むと二百数十万円というお金が必要となる。島田氏は、現在の葬儀に疑問を投げかけている。
家族間の関係が薄れ、個人主義がすすむ現代は、不況が追い討ちをかけて、高額な葬儀の出費は不要なのだと島田氏は語る。
これは、日本の宗教界関係者にとっては脅威だ。故人に対して敬虔な心を忘れることは、気持ちが廃り他人を大切にすることがなくなって、犯罪にまで至る危惧を感じる。素直に頭を下げることを教える宗教は絶対必要だと説く、ということになるだろう。
形式ばかりを説き葬儀のみに奔走する僧侶では、これからの時代ますます見放されることになるのか。
ここにもう一冊の本がある。「植木等伝 わかっちゃいるけどやめられない」戸井十月著 小学館文庫。
植木等は、寺の家に生まれ育った。小さい頃から、特高に検挙され収監された父親に代わり、檀家回りをして僧侶を務める。
そんな彼は、一時、東京本郷の真浄寺という由緒ある寺に預けられる。
こんな文章があった。
真浄寺11代目の住職“福寿”は、福沢諭吉が支持する朝鮮「独立党」の金玉均をかくまったり、14代目住職の“慧眼”もまた、昭和11年の二・二六事件の際には総理大臣の岡田啓介をかくまったりしている。秘書官が「殺されるかもしれませんよ」と言うと「殺されてもかまわぬ」と答えたと言うからなかなかの豪傑坊主だったのだろう。
福寿は徹底した平等思想の持ち主で「世の中にはいろいろな川がある。しかし、海に流れ入ってしまえば、一味平等な海水である」と説いて、権力者と庶民、富者と貧者を一切分け隔てしなかったらしい。
慧眼もまた同じ思想を受け継ぎ、権力者だからといって法事の順番を優先させることもしなかった。それどころか貧しい家の葬式には、香典として葬式費用を置いて帰ったというのだから本物のヒューマニストだったのだろう。
とあった。
宗教に生きる僧侶たるもの、何らかのかたちで尊敬に値する人であることが必要なのか。
願わくば、松ちゃんへの思いが年回に変わる形で営まれ、長い年月にわたって思い起こされることを望む次第です。
ひとつは松ちゃん。本人の遺言で家族葬にされた。松ちゃんの人柄に多くの知り合いが集まり、故人を偲んで涙で送る会となった。
送ることばが述べられ、一人ひとりが祭壇に花を添えた。白木の位牌には“松山 茂之霊”と書かれていた。
もうひとつは、ごく普通の葬儀。友人のお父さんが高齢で亡くなられ、僧侶の読経と焼香で送られた。
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今、ベストセラーになっている一冊の本がある。
幻冬舎刊「葬式は 要らない」島田裕巳著。
世界でも類を見ないほど高額な葬儀が、日本では慣例となっている。法名も、少し上のランクを望めば、数十万と言うお金がかかる。僧侶への御礼を含むと二百数十万円というお金が必要となる。島田氏は、現在の葬儀に疑問を投げかけている。
家族間の関係が薄れ、個人主義がすすむ現代は、不況が追い討ちをかけて、高額な葬儀の出費は不要なのだと島田氏は語る。
これは、日本の宗教界関係者にとっては脅威だ。故人に対して敬虔な心を忘れることは、気持ちが廃り他人を大切にすることがなくなって、犯罪にまで至る危惧を感じる。素直に頭を下げることを教える宗教は絶対必要だと説く、ということになるだろう。
形式ばかりを説き葬儀のみに奔走する僧侶では、これからの時代ますます見放されることになるのか。
ここにもう一冊の本がある。「植木等伝 わかっちゃいるけどやめられない」戸井十月著 小学館文庫。
植木等は、寺の家に生まれ育った。小さい頃から、特高に検挙され収監された父親に代わり、檀家回りをして僧侶を務める。
そんな彼は、一時、東京本郷の真浄寺という由緒ある寺に預けられる。
こんな文章があった。
真浄寺11代目の住職“福寿”は、福沢諭吉が支持する朝鮮「独立党」の金玉均をかくまったり、14代目住職の“慧眼”もまた、昭和11年の二・二六事件の際には総理大臣の岡田啓介をかくまったりしている。秘書官が「殺されるかもしれませんよ」と言うと「殺されてもかまわぬ」と答えたと言うからなかなかの豪傑坊主だったのだろう。
福寿は徹底した平等思想の持ち主で「世の中にはいろいろな川がある。しかし、海に流れ入ってしまえば、一味平等な海水である」と説いて、権力者と庶民、富者と貧者を一切分け隔てしなかったらしい。
慧眼もまた同じ思想を受け継ぎ、権力者だからといって法事の順番を優先させることもしなかった。それどころか貧しい家の葬式には、香典として葬式費用を置いて帰ったというのだから本物のヒューマニストだったのだろう。
とあった。
宗教に生きる僧侶たるもの、何らかのかたちで尊敬に値する人であることが必要なのか。
願わくば、松ちゃんへの思いが年回に変わる形で営まれ、長い年月にわたって思い起こされることを望む次第です。