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昭和24年に作られた小津安二郎の映画「晩春」は、父一人娘一人の穏やかな生活から、娘を嫁に出すお話です。
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住居のある北鎌倉から列車で二人は東京へ出る。
その列車内でのカメラ位置に奇妙な、観るものに不安を与えるような箇所がある、と吉田喜重は「小津安二郎の反映画」で述べております。
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このシーンです。最初、二人は立って列車に乗っています。
やがて車内は空いて、笠智秀が席に座っている。
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立ったままの原節子に「席をかわろうか」と声をかける。
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「まだいいですわ」と断る娘。
このときの娘の立ち位置は父親の左側。父親への目線は右下。
普通、対話をしているのなら、父親は娘の右。目線は当然左前方に向いていなければなりません。
「だがそれにしても「晩春」の父と娘が、電車の中でおだやかに、そしてなにげなく会話をかわす場面でありながら、なぜその日常的な平和な空間をかき乱し、われわれを硬直けいれん化させるようなショットをモンタージュしたのだろうか。映画の文法がまやかしでしかないことを示す戯れにしては、観客の感情をいたずらに刺激し、無意味な異化効果をまねくだけであったろう」
一般に、二人が対話をしている場面では、カメラは二人の目線を結ぶ線をまたいではならないとされています。二人が同一方向を見てしゃべっていては対話にならないからです。
「それでもあえて小津さんが試みざるをえなかったのは、みずからが描く父と娘のドラマがあまりにもおだやかであることに、小津さん自信が不安を感じたからに違いない。父と娘との平穏無事な暮らしぶりを描きながら、それが不自然なまでに過剰に心地よく思われるときには、逆の方向へと揺りもどす反対感情への平衡感覚を、小津さんはたえず身につけていたのである」
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かなり難しいブログとなりました。日常のありきたりな生活を繰り返し撮った作品であるにもかかわらず、得体の知れない理屈でしか探り出せないところに、小津監督の巨匠たる所以があるのでしょうか。