文春文庫 ビジュアル版“幻の貸本マンガ大全集”より
巻末で、青林堂社長の長井勝一氏と、東考社社長である桜井昌一氏が対談している。
戦後のマンガ史を大きく括ると、昭和20年代の赤本マンガ、30年代の貸本マンガと月刊誌マンガ、40年代からの週刊誌マンガと言える。絵本とかぬり絵などの薄い本を赤本と呼ばれた。赤本の標準的ページ数が64ページ。しかし薄い赤本では読者が物足りなくなってきた。そこでページ数を増やすんですが、今度は単価が上がって売れない。こうして貸本が登場したと考えられます。昭和27年頃から、当初は古本を仕入れて貸していたのが、新刊を貸すようになって昭和30年頃関西地方を中心に急速に貸本屋の数が伸びます。すると発行部数が低下した赤本マンガが消滅してしまうんです。昭和31年頃には全国で貸本屋の数が3万軒になったと言われています。
貸本と言えば“影”とか“街”などの短編集ですが、なぜ作家ひとりの長編ではなかったかと言えば、当時は売れる作家がすくなかった。いても、なかなか描いてくれない。そこで短編でもいいからお願いします、となるわけです。それと当時は推理小説ブームでもあった。昭和31年、日の丸文庫が“影”を出して大ヒットします。手塚治虫は別格として、いわゆる劇画というものを作ったのは辰巳ヨシヒロであったと言っても良いと思う。その後、東京の劇画工房が立ち上がって さいとうたかお がすべてになった。白土三平も初めは“サスケ”で手塚治虫の影響を受けていたんです。
独自な形でいたのが、小島剛夕さん、平田弘史さん、水島新司さんです。小島剛夕さんの描くスピードは速かった。早いと絵が崩れるんですが、小島さんの絵は崩れなかったです。
当時の原画が残っていると良いんですが、再販(訂正:再版)なんて考えてなかったから、みんな切り抜いて読者にあげています。貸本は不衛生だし、内容も残酷だったのでPTAからは、悪書呼ばわりされて随分叩かれました。やがて大手の月間誌漫画時代から、“少年サンデー”や“少年マガジン”の週刊誌時代となり、貸本と貸本屋は時代から姿を消していくことになります。