明治44年
明治44年の地図を見ると、浜往還通り、中町(訂正:浜町)に“商工會議所”の文字が見える。当時としては1等地である。
通り沿いにそびえているのが、明治38年できた“四日市商工会議所”。
昭和15年
昭和5年、四日市港第2修築工事が完成したのに合わせて、新しく出来た埋立地へ移転する。昭和11年3月 この千歳町で“国産振興四日市大博覧会”が開催される。(三角の処が博覧会会場跡地)
横には公会堂が出来る。どちらも小菅剣之助氏の寄贈であった。通りを挟んだ右側には“市立病院”が建つ。
商工会議所の内部“議事室”である。“財を生かすは大道に有り”の横額が架けられている。当時の流行だったのか?旧図書館とよく似た間取りである。
戦後、市内の中央通りへ、商工会議所は建て直され、公会堂は移転された。当時商工会議所の屋上には“東芝”の巨大なネオン塔が立っていた。
昭和53年
<追記>
昭和21年5月、 空襲後の空撮である。商工会議所の建物は、移築後、そのまま板硝子の物として残されたのだろう。空襲で焼失したと思っていたが、これを見る限り焼失は免れたようだ。
昭和25年5月:四日市商工会議所、現在の中央通りに竣工
昭和25年2月:市公会堂、千歳町から幸町(市役所西側)に移転落成 とあった
商工会議所が市の中心へ移転後、その建物は日本板硝子四日市工場に引き継がれ、その事務所として活用されたのかと思っていましたが、私の記憶に残る事務所は、商工会議所の写真のような立派な建物ではなく、シンプルなコンクリート建築だったように思います。 謎ができました。
公会堂は、移転されたが、商工会議所は、中央通り沿いに建て直された。
さて、残った立派な建物はその後どうなったのか?まさか取り壊したわけではないでしょう。しばらくは使われていたはず・・・
さて、謎は謎を呼びます・・・
しかし、公会堂の移転前の写真と移転後の写真を比べると、移転後の建物は少し小さくなったように感じられ、商工会議所もなにかあったのかなと。
日本板硝子の四日市工場史の記録でも残っていれば、なにか判るかも知れませんね。
迎賓館は、商工会議所さんのホームページに教えてもらいました
21年10月再出発した商工会議所は、25年に新築落成するまで 何処でお店を開いていたのでしょうか? 商工会議所さんと板硝子さんへ出かける必要がありそうです
ヒ!
やっぱり、ナーム、ナ〜〜ムでしょうか?🙏🙏🙏
剛夕さんのテーマよりも興味深々です。