合成写真でございます
現在の垂坂山の山頂は、昔の面影はなく、木々が生い茂り下界を見渡すことはできない。坂道を上り詰めた南側に墓碑が立っていた。
垂坂山古戦場の史跡
一、北畠系譜によると南北朝の頃、文中元年(1372年)北畠の重臣大宮親子入道が二千騎を率いて同山に陣取った。
一方、足利派の伊賀、伊勢の守護仁木義長 富田の豪族南部左京亮頼勝は。五百騎でこの山に攻め上ったが、大宮父子入道の戦略にかかり囲まれて谷底に追い落とされ さんざんに打ちのめされ全滅した。
一、また、戦国時代織田信長が伊勢を攻めた時付近の女子供農民たちが同山上にあった寺院に逃れたが滝川一益らのために焼き討ちされて多くの死者を出したという。 昭和33年4月20日
ここから北方面、四日市を含む北伊勢地域は、古代より発達をみ、遺跡等も多く発掘されて歴史の様々な舞台となった地域である。
四日市学講座③“戦国時代の北伊勢”へ つづく
垂坂山山頂にて
富田地区 懐かしの写真集より
※ この写真が、遥拝の碑が立つ糠塚山なのか垂坂山古戦場跡なのか、分からない。
見えますので糠塚山だと思います。
ただし現在の御遥拝所跡は写真奥からの広い道路が途
切れた左側(十四側左岸)へ移設されています。
四日市市や県の遙拝所の説明には移設の記述がありま
せんので移設の理由は分かりませんが、富田山城線の
開通が関係しているのかと勝手に推測しています。
マップでは、糠塚山の北西に垂坂山山頂があるので、垂坂山は広かったのでしょうか?でも、遠足で出かけたところはここでした。一度 調べに行ってきます。
ところで、垂坂山山頂の碑の文字と、大矢知の碑の文字が一致しないのは、なぜでしょう?