鵜の森公園の一角に建てられた“四日市空襲殉難碑”。碑の裏面にはこう刻まれている。
「昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争は、ポツダム宣言受諾によって、昭和20年8月15日遂にわが国の敗戦に終わった。この間、アメリカ空軍爆撃機B29による日本本土への空襲は日増しに激化し、戦禍はとどまるところを知らなかった。海軍燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市市は、前後6回にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。わけても、最初の爆撃を受けた6月18日の災禍は凄惨の一語に尽きる」
例年行われる6月18日の四日市空襲犠牲者慰霊献花式は、新型コロナ禍のため中止となっていました。
<四日市空襲について>市のサイトより
昭和20年6月18日、本市は大規模な空襲に見舞われました。太平洋戦争の長期化と深刻な戦況が続く中で、昭和19年にサイパン島やグアム島が陥落すると、米軍による日本本土への本格的な空襲が始まりました。最初は東京や大阪、名古屋などの主要都市が攻撃されました。
昭和20年6月、米軍の新作戦によって、空襲の攻撃目標が中小都市に拡大されました。18日未明、本市は、浜松市や大牟田市、鹿児島市とともに中小都市空襲の第1回目の攻撃目標とされ、運命の日を迎えました。グアム島の近くのテニアン島北飛行場を発進した攻撃機は、硫黄島の上空から伊良湖岬を経て、伊勢湾に到着。本市を攻撃した後、熊野灘に去っていきました。米軍の中小都市空襲『作戦任務報告書』によると、このときの攻撃機の総数は89機、18日の午前1時28分から3時5分までの間に、高度2,100メートルの上空から、6~100ポンドの焼夷弾を約3万個、合計567.3トンを投下。全市の35パーセントに当たる約3.18平方キロメートルの市街地が焼失しました。
当時の四日市警察署『沿革誌』によると、この空襲で罹災者47,153人、死者736人、行方不明者63人、負傷者1,500人。住家の全焼11,140戸、半焼250戸、非住家の全焼1,252戸、半焼165戸と、一夜にして市街地は焦土と化し、多くの市民の尊い生命と貴重な財産が奪われました。
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