江田町の諏訪駅から路地を南に入ったところに「近畿館」ができたのが終戦後間もない昭和21年のこと。
当初、実演興業だったのが、その年の8月29日「キャピタル劇場」と改名して洋画専門館となった。(こけら落としにアメリカ映画「呪いの家」を上映)
その後23年秋に大改造をして「諏訪劇場」となりテレビ時代以前の娯楽の殿堂として県下でも1,2位を争う興行収入を上げていた。(もう1館は津の曙座)
「諏訪劇場」は昭和37年に「四日市東映」となり、昭和43年2月にジャスコに売却するまで続いた。(ジャスコB館となり、現在はマンションが建つ)
辻俊文さんの写真
終戦直後から昭和33年頃にかけ地方の劇場では、歌謡曲や軽演劇が上映された。大都市の劇場が焼失したため多くの芸能人が地方巡業に回ったためだ。これが大ヒットした。
なんと辻さんの写真に美空ひばりが来ていた写真があった。
カメラを構える辻さんをにらむお兄さん方
この年、美空ひばりは塩酸をかけられるという事件に遭遇していた。劇場入り口の物々しい雰囲気から緊張感が伝わる。よくぞ撮れたものだ。
小生が幼少のころ、親父とともに「月光仮面」を観に出かけたが、併映の1本が終わると変なおばさんが出てきて歌謡曲を歌いだした。確かに美空ひばりではなかった。
早くおしまいになって「月光仮面」が始まらないかと期待していたが、ついに終焉の9時30分となった。
“スカ”をつかまされた気分だったが、歌の途中で月光仮面の寸劇があり「まあ、許すか」という思いで帰った記憶がある。
美空ひばりと云えば、弁天小僧に扮したひばりがもろ肌脱いで「知らざぁ 云って 聞かせぁしょう」と啖呵を切るシーンを見たときには、妙に興奮した。
昭和30年代は東映時代劇の全盛期で、市川歌右衛門と片岡千恵像が同じ映画に出るのはお正月映画のときだった。
毎週上映が変わっていたから、大変な量産だったのだろう。
多少の当たり外れがあっても、劇場には多くの人が押し掛けた。
多くの人が、正義の味方が悪人を懲らしめるという世界に、酔いしれていた。
当初、実演興業だったのが、その年の8月29日「キャピタル劇場」と改名して洋画専門館となった。(こけら落としにアメリカ映画「呪いの家」を上映)
その後23年秋に大改造をして「諏訪劇場」となりテレビ時代以前の娯楽の殿堂として県下でも1,2位を争う興行収入を上げていた。(もう1館は津の曙座)
「諏訪劇場」は昭和37年に「四日市東映」となり、昭和43年2月にジャスコに売却するまで続いた。(ジャスコB館となり、現在はマンションが建つ)
辻俊文さんの写真
終戦直後から昭和33年頃にかけ地方の劇場では、歌謡曲や軽演劇が上映された。大都市の劇場が焼失したため多くの芸能人が地方巡業に回ったためだ。これが大ヒットした。
なんと辻さんの写真に美空ひばりが来ていた写真があった。
カメラを構える辻さんをにらむお兄さん方
この年、美空ひばりは塩酸をかけられるという事件に遭遇していた。劇場入り口の物々しい雰囲気から緊張感が伝わる。よくぞ撮れたものだ。
小生が幼少のころ、親父とともに「月光仮面」を観に出かけたが、併映の1本が終わると変なおばさんが出てきて歌謡曲を歌いだした。確かに美空ひばりではなかった。
早くおしまいになって「月光仮面」が始まらないかと期待していたが、ついに終焉の9時30分となった。
“スカ”をつかまされた気分だったが、歌の途中で月光仮面の寸劇があり「まあ、許すか」という思いで帰った記憶がある。
美空ひばりと云えば、弁天小僧に扮したひばりがもろ肌脱いで「知らざぁ 云って 聞かせぁしょう」と啖呵を切るシーンを見たときには、妙に興奮した。
昭和30年代は東映時代劇の全盛期で、市川歌右衛門と片岡千恵像が同じ映画に出るのはお正月映画のときだった。
毎週上映が変わっていたから、大変な量産だったのだろう。
多少の当たり外れがあっても、劇場には多くの人が押し掛けた。
多くの人が、正義の味方が悪人を懲らしめるという世界に、酔いしれていた。
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