四日市駅を発車した途端、構内を出た地点の急カーブで、三両連結の最前車両の後部車輪が脱線した。横転はしていなかったが少し傾いていた。桑名行きであったから内側なのでよけいにカーブが急な方であった。人命の被害はなかった。この後、四日市駅と諏訪駅間の折り返し運転をしていた。
“旧四日市を語る”に掲載された昭和12年8月6日午後の出来事。“善光寺カーブ”での脱線事故の様子です。
昭和13年の地図
しかし、四日市と諏訪駅間の折り返し運転って・・・どうやったんでしょうか?当時はまだ三重軌道と四日市鉄道の狭軌を引き継いだままだった?から出来たのか?
昭和5年の善光寺カーブ 左に建つのは 合同駅が取り壊され新しく出来た四日市西驛
もうひとつ、遠くに見える大きな建物は何でしょう?空襲直後の空撮を掲載しますが、ここからは何も分かりません。三和商店街の西にあたるのでしょうか?
緊急追記:写真をお借りした水谷氏に、念の為「右向こうに建つ大きな建物は、何か?」とお尋ねしたところ、ご存じないと返事が返ってまいりました。では、善光寺カーブではなかったか?諏訪駅西の天理教へ至るカーブは、直線に湯の山線が走っているし、草ぼうぼうだし・・・違う気が致します。ではどこなのか?大きな建物は何なのでしょうか?
諏訪駅から西を見た写真 逆に撮られたものとは思えない?
申し訳ありません これでは解決編になっておりません!
この軌道跡を引き継いだ近鉄の前身会社の軌間は狭軌といっても在来JRの軌間と同じ3feet6inches(1067mm)。
狭軌というのは新幹線や現近鉄名古屋線の標準軌(1435mm)よりも狭い軌間に対して使われる言葉です。
なお、問題の写真はどう考えても天理教カーブではないでしょうか。
しかし、事故が起こった昭和十二年の記事中の “桑名行きであったから内側なのでよけいにカーブが急な方であった” の記述からは、この当時、既に複線になっていたことが伺えます。
四日市〜諏訪間の折り返し運転は事故が起きた内側ではなく外側の線路を使ったのではないでしょうか。
昭和12年の脱線事故の記述があったので、あたかも問題の写真が「昭和12年に撮られたもの」のように錯覚・誘導(笑)されてしまいましたが、写真の撮影された「時期」は問われてないですね、「場所」だけですよね?…であれば、「善光寺カーブ」の可能性十分にあると思います(写真ではその確証を得られる情報は今のところ見当たりませんけど)。
脱線事故の様子を回想した記述は、一度当時の新聞記事及び公文書との照合が必要のため、その情報の判断は付かないので保留です。証言者の方の日付(年号)違いの可能性も捨てきれませんので。