おなじみの写真です。空襲後 急遽建てられた諏訪駅はいわゆるバラック建てでした。昭和21年頃から昭和31年9月までの10年間、諏訪駅は今の1番街の真ん中にありました。『諏訪、行こ!』。買い物に、遊びに、多くの人々がこの駅を利用しました。
明治44年の地図です。内部八王子線も湯の山線も、この頃はまだありませんでした。
大正11年の地図です。当時、三重軌道の諏訪駅と、四日市鉄道の諏訪駅は別々の場所でした。四日市駅を出発した各列車は、それとなく競い合うように諏訪駅へと入りました。市役所は高等女学校(現・中央小学校)の西にありましたが、昭和には、現在の場所に移されます。
昭和13年、諏訪駅は東海道沿いに建てられます。この時は、内部・八王子線と湯の山線の合同駅となりました。
人家のひしめく東海道沿いに、諏訪驛は線路を挟んで北驛と南驛がありました。
さて?昭和13年には、諏訪駅が、三重軌道と四日市鉄道の始発駅となっていたはず・・・。
そこには出来たばかりの新車の付随車が停められていたように思います。この写真はわたしの手元に残っていると思います。明日、調べてみましょう。(笑)
この貨物駅らしきところに機回し線や転車台が設置されていた可能性は否定できないように思われます。
日永駅の駐泊所に関してのコメント、有難うございました。東海道沿いの模型屋さん…ジュニア模型店でしすかね多分。通勤時によく店舗前を通っていました。
それはそうと本日たまたまWikipe…で検索した「三重鉄道シハ31型気動車」の記事を読んでいたところ、
「シハ35・36は狭隘な諏訪駅構内に設置された転車台では転回できなかったため…」
という記述を発見(※根拠となるような脚注はなかった)しました。もしかしたら初期の諏訪駅には転車台があったかもしれない(電化される昭和23年までか)可能性が浮上してきました。興味は尽きません。 たいじゅ
駅の近くの東海道沿いにあった模型店の二代目のご主人は幼い頃、駐泊所に止まっていたコッペル(ドイツ製蒸気機関車)と遊んでいたとのことです。駐泊所があれば、転車台はあった可能性が高いと思います。
日永駅にあったという転車台についての証言に関しては、その時期などには言及されてはいなかったので単純に大正初期の日永~八王子村間開業の際のことを言っているのかも知れない(始発駅だから)ので何とも言えないですが・・・失礼しました たいじゅ
>武兵衛様
諏訪駅の転車台その他の施設に関するご意見、有難うございました。これまでのブログ記事及び写真からもそれらの施設(機回し線等)がなさそうな様子は確認させて頂いております。やっぱり折り返し運転してたのだろうか…? 知ってどうなるものでもないのに(笑)気になる~ 有難うございました
>下総人様
コメントいただき有難うございました。大東亜戦争の体験者ですら数少なくなっている現状、確かにこんなピンポイントな情報を覚えている人を探すこと自体難しいかもです(汗)…我ながら無茶な質問したなと思います、すみません(武兵衛様にも)。
残念ながら(?)始発駅の諏訪駅には武兵衛様のコメントの通り転車台含めた機回し施設はないとのことですので、少なくとも当時の内部・八王子線では分岐駅での日永駅まで機関車最後尾のまま(笑)バック運転していた公算が高くなってきました(たいじゅ現時点調査との照合による)。理由は地元住民の「日永駅と八王子駅には転車台があった」(『三重の軽便鉄道‐廃線の追跡調査‐』書内より)という証言からです。伊勢八王子駅の線路末端に転車台があったことは使用されなくなった状態の転車台の写真をネット上で確認できますが、残念ながら日永駅にあったという転車台の存在(おそらく昭和3~23年の間か?)は確認できていません。昭和初期の内部八王子線の時刻表などが残っていれば駅発着時間から多少の推測は出来ましょうが…。まだまだ調査が必要ですね 有難うございました たいじゅ
駅スペースの関係で機回し線をホームと平行して設置できない場合は、駅に入る少し手前に設けるという例はありました。
この機能は電化後も使われたはずです。なぜなれば、機関車が電動客車に置き換わっただけで、従えている客車は機関車牽引時代のものを使っていたからです。
その後、湯の山線に新しい3輛連接の電車が導入されましたが、これは現在のあすなろの電車と同じ固定編成で、列車の両端に運転席があり、動力車の付替えもなく、機回し線を必要としませんでした。
蛇足ながら、湯の山線の3輛連接電車は、同線の広軌化後、北勢線へ転出しました。
八王子内部線には転車台はなかった!と言い切っていいと思っています。現在のあすなろも折り返し運転です
先日 鹿化か天白川の踏切を渡って ゆっくりと上り坂になっているのを見ました
乗客みんなで 車両を押している様子を想像し ほほえましくなりました
旧三重交通で私が見たことがある転車台は、昭和38年3月に北勢線の終点、阿下喜駅の素通しの機関庫の奥にあったものだけです。これはその後埋め立てられたらしく、随分と後になって発掘され、山口県の下松から譲渡された機関車とともに保存されているようです。
話が跳んですみませんでした。
昭和13年の時期は、既に昭和3年に伊勢電気鉄道に省線四日市~諏訪前間の路線敷を譲渡し、三重鉄道(昭和6年四日市鉄道・三重軌道が合併)内部・八王子線及び湯の山線は統合後の諏訪駅(南駅?)が始発駅となっているかと思います(先述のブログ記事内容から)。
とすると、既に電化されている湯の山線の方はともかくとして未だ未電化の内部・八王子線は、ガソリン気動車あるいは蒸気機関車が客車連結で現役稼働していると想像します。であれば、始発駅の諏訪駅(少なくとも内部・八王子線側)にはターンテーブル、あるいは機回しのための線路が必要になるのではないだろうか、という疑問が出てきます。
(※たいじゅは、ガソリン気動車及び蒸気機関車のスペックに関しては全くの無知なので、上記車両は前進しかできない(後進できても早くない)、と思い込んでいます。この点ご注意下さい)
ただでさえ「満員の時は乗客が降りて押さないと坂を登れなかった」とさえ言われている内部・八王子線の蒸気機関車が、諏訪駅に到着した後そのまま何もせず連結客車を進行方向(機関車最後尾)にしたままバック運転で折り返して発車するとはとても思えず、この問題をどのように解決していたのかが気になっています。当時を知る人でなければ分からない内容かとは思いますが、諸先輩方であれば知ってるのではないか、あるいは何らかのヒントをお持ちではないかと思い、コメントさせて頂きました。宜しくお願い致します。 たいじゅ
伊勢電鉄が四日市へ乗り入れた時に、ここが単線だったら、ひょっとして、省線四日市駅に連絡せずに諏訪駅の近くに自社駅を作ったのでは? それは、昭和30年に近鉄四日市駅が開業した後の、海山道駅から河原町駅への円滑な流れの路線図を見ていると、やはり進出当時から自社駅構想があったのでは、、、、、。
そんな気がしてまいります。
まったくの別会社。たまたま四日市と諏訪駅間が並行していただけ、と考えたほうが分かりやすいデス。
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下総人さん 如何?
一つ質問をさせて下さい。記事最後の昭和13年の諏訪駅地図の時代は武兵衛様のブログ「レモン色の町No.56『椙山氏の思い出…⑦』」の記事から、南側にある四日市鉄道(始発の)諏訪駅に未電化の内部・八王子線と電化済の湯の山線、それぞれ別の線路(ホームは島式みたいですね)があったことは分かりますが、 両線併用的な形で使用されてはいなかったのでしょうか?何となくですが、(近くに浜田信号所があるとはいえ)始発駅が単線のみだと非常に効率が悪そうに思うのですが。どういった風に上り下りの電車を入れ違いさせていたのか、参考までにご教示頂ければと存じます。長文失礼しました。たいじゅ
八王子・内部 本線でゴザイマシタ
また、保っちゃんに叱られますナァ
四日市駅発の三重軌道(蒸気機関車)と四日市鉄道(電車)が、競うように走った当時を想像すると、タイムマシンの研究にいそしまなければならないと、居眠りしながら思っています。