花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

一枚の写真 その謎は?②

2024年11月25日 | レモン色の町

これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???

水谷さんからお借りしました 陳謝!

※ 11月28日 図書館で調べたところ、四日市市の年表に 昭和39年2月19日 ロシア兵送還終了とありました。これはその時の写真ではないでしょうか?

消印は明治39年4月30日、前回掲載のロシア兵が高砂町港から艀(はしけ)に乗る写真と同日だろう。“相合橋俘虜通過ノ光景”となっていて、大勢のロシア兵が日本人に先導されて港へと向かっている。明治37年2月に対露宣戦を布告し、翌 明治38年9月に“日露講和条約調印”を行っている。資源の乏しい日本は何よりも短期決戦であった。四日市が受け入れたロシア兵は、明治38年8月から乗船帰国させているが、この写真の日付は39年4月となっているから、8月から翌年4月までの間の“冬”ということだろう。

相生橋の幅は二間くらいか?相生橋西詰の家屋の様子から道幅も狭そうだ。明治40年 関西鉄道が国営となり、東口の国鉄四日市駅が陸上交通の玄関口となった。明治43年、四日市市は、港の整備を進めるとともに、諏訪神社から国鉄四日市駅を通って湊までを結ぶ直線道路の諏訪新道を計画、海運と陸運を結ぶ四大事業に掛かった。ただ、国鉄四日市駅から相生橋までの十二間道路の完成は大正12年に遅れた。従って、当時は家屋の入り組んだ狭い道だったことも納得できる。

ところで、歩いて橋を渡るロシア兵さんは、百名以上いるではないか?“欧州館”以外にどこに宿泊していたのか。当時はまだ四日市駅が出来たばかりで駅前整備もこれからだったろう。ここの戦前の家並みを“旧四日市を語る会”の皆さんが調べてみえた。

これを見ると、本町通から一本北へ入ると旅館が目に付く。当然四日市の表玄関だったから商人宿は多くなるだろうが、ロシア人の捕虜さんはこの付近一帯に逗留していたのではないかと、勝手に考えてみた。

勝手の良い話でした!

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