蛤御門の変について「幕末史」半藤一利著 新潮文庫
池田屋事件と蛤御門の変はセットになっています。新選組は、攘夷派の浪士が池田屋に集まって、放火と惨殺を行うという計画を知り、襲撃をかける。切り込んだ新選組は近藤勇ほか7名。周囲は桑名藩と会津藩が取り囲んでいました。新選組はだれも傷つかず、攘夷派は、闘死10人、重傷3人、捕縛者9人。これで長州藩を主体とする攘夷派の中核部分が壊滅します。そこでいきり立った長州藩は、長州にいる三条実美ら七卿と藩主親子の無実を勝ち取る理由で京へ出兵します。
7月18日の朝、家老の福原越後他3名は、御所を目指します。対する京都は「長州来る」と会津兵を中心に、京に残っていた薩摩、桑名の藩兵が御所を守り、長州兵を迎え撃ちました。まず、木島又兵衛の一隊が蛤御門に殺到、大激戦となります。さらに前関白の鷹司さん宅の前でも激戦が繰り広げられ、もともと「朝敵になる」とこの戦に反対だった久坂玄瑞は「利あらず」と悟って切腹したのでした。25歳でした。
蛤御門の変(禁門の変)は、7月19日午前6時に始まり、午前11時に終わって京の町は丸焼けになりました。約2万8000戸が焼失、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。21日になって下火になりましたが、市民は住むに家なく、昼は死体にたかる蠅、夜は蚊に責められたといいます。残敵討伐を割り当てられた新選組は、100人が山崎の天王山へ向かい、ここでも大激戦となります。40名が亡くなりました。
蛤御門での死者数は、長州側265人、迎え撃った会津60人、薩摩8人、越前15人、彦根9人、桑名3人、淀2人でした。会津は本気で戦い、長州の完敗でした。
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