花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

徘徊する天武天皇

2021年06月20日 | レモン色の町

富田浜海岸(ガイドマップの上、中央)に『聖武天皇御旧跡』とあり、

シャワーの上にも聖武天皇が立っていた。

そして、垂坂山の山頂にも『天武天皇神宮御遥拝所』の碑が立っていた写真がある。

富田の思い出の写真より“垂坂山”

出かけたときは、残念ながら見つけることができなかった。

Webで調べると大矢知にあった。後ろに小高い山はあるが、なんでもない場所である。ただここの地名が“斎宮”と訳有り地名である。

県指定記念物 史跡 天武天皇迹太川御遥拝所跡(てんむてんのうとおがわごようはいしょあと)  昭和16年5月21日指定

壬申の年(672年)、奈良県吉野に隠棲していた大海人皇子(おおあまのみこ・ 後の天武天皇)は、近江朝廷と皇位の継承をめぐって、兵をあげました。世にいう壬申の乱です。

吉野から名張、鈴鹿、伊勢へと進んできた大海人皇子は、朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)の近辺で、伊勢神宮を遥拝し、戦勝を祈ったということが「日本書紀」に記されています。

この地が遥拝所の推定地として指定されたのは、「天武天皇のろしの松」と伝承されている老松があったことによります。

樹齢500年を超えたこの松は、今も指定地のシンボルとして市民に親しまれています。   平成11年3月31日  四日市教育委員会

ところが、平成20年にはこう書き換えられていました。

付記:「のろしの松」は、平成14年に枯死したので、管理者の大矢知斎宮自治会が、平成18年に槙を植樹されました。   

平成20年3月31日  四日市教育委員会

垂坂山の碑を移設したわけでもなさそうだ。文字が違う。見つけられなかっただけだろうか。

天武天皇さんは、富田浜、垂坂山、大矢知とかなり徘徊されたご様子だ。

訂正!:後期高齢に成り上がったせいか、聖武天皇さんと天武天皇さんが、ごちゃごちゃになってしまいました。徘徊呼ばわりされた天武天皇様、ならびに、誤解を招きかねない状況になった、後期高齢者を含む、御厚意を頂いている皆様には、深く陳謝申し上げます(舌)。ところで、下総人さんからもコメントいただきましたが、ヤマトタケル氏も四日市を通過いたしております。またまた、宿題が増えました!


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4 コメント

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垂坂山 (タケオです)
2021-06-21 18:42:25
通りがかり様  勉強になります
ありがとうございます
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Unknown (通りがかり)
2021-06-21 14:13:52
糠塚山山頂の天武天皇神宮御遙拝所碑にご記憶が
あるのでしたら、垂坂山と糠塚山の両山ルートの
遠足だったのではないでしょうか。私自身子ども
の頃の記憶を辿れば断片的で、順路などは尚更覚
えていません。

また遙拝所については、どこの川を迹太川と推定
するかによって場所は変わります。天武天皇神宮
御遙拝所碑が建っ糠塚山の場合は米洗川で、天武
天皇迹太川御遙拝所跡の場合は十四川です。

尚、最近の有識者内の研究では、多くが三滝川か
海蔵川説を唱えており、中でも両川の合流地点か
昔は繋がっていた河口地点を推しています。
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徘徊の事 (タケオです)
2021-06-21 09:04:24
大変失礼いたしました。
年のせいか、聖武天皇、天武天皇様が、頭の中で入れ替わり、ごっちゃになりました。
今朝、わたくしもヤマトタケルのことを思っておりました(脳みその徘徊?)。三大聖人の大決戦!でございます。
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Unknown (伊勢生まれの下総人)
2021-06-21 01:14:24
日本武尊の足が三重に曲ったことに因んで命名されたとも伝えられる三重の地。
このブログ記事には聖武天皇、天武天皇のニ神が登場されています。
このうち、天武天皇が徘徊されたということでしょうか。
明日は我が身。とても他人事とは思えません。
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