花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め89関西鉄道⑲

2020年07月12日 | レモン色の町

井上勝 江戸末期、長州藩命で伊藤博文と共に密航、ロンドンで鉄道技術を学ぶ。帰国後、鉄道建設に尽力。日本の鉄道の父 とよばれた。

井上勝鉄道局長も、ボイルの提案に絶対的な信頼をおいていて、東海道は「舟楫(しゅうしゅう)馬車ノ利、共ニ相通セサルナシ」といった状況につきこれ以上鉄道を敷く必要はないと考えていた。こうして中山道での施設工事がすすめられ、明治17年明治天皇隣席のもと、東京上野〜高崎間の開業式が行われた。またこの頃、信越鉄道の高崎〜直江津間も開通し、人々は新潟から船で直江津に出、直江津からは鉄道で東京に向かうようになり、北國街道、三国街道、会津街道及び清水峠越新道など街道沿いの村々はさびれていった。

一方明治16年、敦賀~長浜(滋賀)間が竣工、中山道構想は西方面からも進められた。井上勝鉄道局長は、長浜から関ヶ原、関ヶ原から大垣まで鉄道を延ばし、大垣から舟運により四日市までつなぐことで「初メテ敦賀、四日市ノ両港ヲ連接シ、水陸運輸ノ一大効用ヲ現出スル」ことが出来ると考えていた。

さて明治15年、稲葉三右ヱ門らにより濃勢鉄道会社設立の請願が県へ出されている。関ヶ原〜四日市港間は揖斐川舟運でつながっているだけであり、四日市〜垂井間に鉄道を敷設して四日市築港をも挙行したいということだった。稲葉三右ヱ門の旧四日市港の登場である。

JR四日市前に立つ稲葉三右ヱ門像

話を中山道での敷設工事の話に戻すが、東海道経由への変更が画策されていた。二等技師の原口要(かなめ)は「なぜ人烟稠密(じんえんちゅうみつ)、しかも土地概ね平坦な東海道を措き(おき)、天嶮(てんけん)を犯してまでも中仙道に敷設することとしたのであろう」と疑問を持ち、中山道の測量調査に続き、東海道の踏査を試みた。<再び つづく>

 

 

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市井からの眺め88関西鉄道⑱

2020年07月11日 | レモン色の町

東京~京都間の幹線鉄道は、明治4年頃までは東海道経由の路線として考えられていたようである。老川慶喜著“日本鉄道史”中公新書より

東海道線であれば、なぜ四日市を通り鈴鹿峠を越え、土山へと東海道筋を通さなかったのか。近江商人や伊勢商人をバックに伊勢の人々は、意地になり民間で関西鉄道を起こした。明治21年のこと、本社は四日市である。これにさかのぼる明治4年、政府は真剣に中山道経由の東京~大阪間路線を考えていた。品川〜横浜間を1号機関車が走る1年ほど前のことである。

工部省の土木員 佐藤与之助と小野友五郎は、東海道筋の路線調査を行い、「東海道筋鉄道巡覧書」を提出した。それによると、トンネル採掘を避け、山を迂回するため、東京から熱田までは東海道を行き、熱田からは美濃路の西方を進んで、中山道につないで京都に達し、京都からは淀川右岸を通るという309キロにも及ぶ経路をたどるのが良策とあった。

海沿いの東海道は、アメリカの蒸気船をはじめ数社の海外海運会社が、蒸気船による航路を開設していて、わざに多額の費用を費やして東海道筋に鉄道を施設しても、それほどの利用は高まらないという判断があった。それより、中山道を通したほうが「産物輸送、山国開化ノ一端」になるのではないかということだった。おそらく外国の海運会社が良い顔をしなかったのではなかったか(邪推)。

リチャード・ウイカルス・ボイル

そこで建築師長のボイルが、中三道筋(訂正:中山道筋)の調査・測量を試みた。結論は、

「東海道ハ 全国最良ノ地ニシテ 海浜ニ接シ水運ノ便アリ。之ニ反シ 中山道ハ道路険悪ニシテ運輸不便ナルヲ以テ 之ニ鉄道ヲ施設スルハ 広大ナル荒地ヲ開拓シ 且ツ両京及ビ南北両海ノ交通ヲ容易ナラシムヘシ」

工部省の佐藤と小野、更に建築師長のボイルの調査によっても、東西両京間鉄道は東海道経由ではなく中山道経由であるという説が優位となった。 <つづく>

大坂朝日新聞 明治31年11月18日付関西鉄道広告 (値引きするわ 手荷物無料配達があるわ 車内に行商人が売り込みに来るわ えらいことです)

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市井からの眺め87関西鉄道⑰

2020年07月08日 | レモン色の町

下総人さんから、久しぶりのコメントです。これが義経号か?の言葉に・・・
答:これは一号機関車です。しかし、なんと酷い装飾。
イギリス製なのに、ランプはアメリカ型。塗装も本当はグリーンではなかったかと思われます。
私の記憶では、ドリームランドに入線したのは、イギリス製の一号機関車とアメリカ製の義経号(弁慶号と同型)を模したディーゼルエンジンの機関車だったと思います。開園当時の姿はオリジナルに忠実だったように思います。

と、いうことは下総さんもドリームランドへ出かけているんですね。二台の機関車が、園の周囲を回っていた様子がイラストからわかります。写真から伺えるのは、手入れのしていない機関車の悲しい姿でした。

下の写真:弁慶号機関車(7100型蒸気機関車)製造年:明治13年(鉄道記念物)

北海道ではアメリカ製のSLで鉄道運転が始まった。先頭部のカウキャッチャー、火の粉止め機能を備えた大きな煙突、まるでウエスタン映画に出てきそう。

銘板に1880年(明治13年)の文字が貼ってある。

ドリームランドの弁慶号(レプリカ)

1号機関車(150型蒸気機関車)製造年:明治4年(国指定重要文化財)

明治5年新橋〜横浜間で運転を開始。当時の機関車はすべてイギリスからの輸入だった。日本へ輸入され最初に検査を受けたのが1号機関車。

銘板には製造年の1871年の文字が。

1号機関車には銘板と共に日本語のプレーとも掲げられている。国鉄での役目を終えたあと、島原鉄道に移籍した。その後、国鉄へ返還される際に別れを惜しむ社長の言葉が取り付けられていた“惜別 感無量”。

 埼玉県さいたま市 鉄道博物館「時空旅人」“日本鉄道歴史紀行”より

 

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市井からの眺め86関西鉄道⑯

2020年07月07日 | レモン色の町

昭和36年当時の園内

中学生のころ、家族旅行で奈良ドリームランドを訪れた。会場に入るとメインストリートには両側にお土産屋さんがずらり並んでいて心が躍った。はっきり記憶にあるのは、兄が馬に乗れと言ったことだ。私は断ると「どうして乗らないのか?」と詰め寄る。見ていると大人を乗せた馬が走り出し、その人は顔色を変えていた。恐ろしかったが、結局乗ることとなった。

昭和36年

今思うと、会場はディズニーランドを凝縮したようだった。当時、ディズニーランドを模倣しようとウォルトディズニーに掛け合ったが相手にしてもらえなかったそうで、ドリームランドの写真を見たウォルトディズニーは、そっくりに激怒したそうだ。東京ディズニーランドを造るにあたっては、かなり苦労したと書いてあった。

平成6年

昭和36年、軍の土地だったところに遊園を造った。当時としては大きな話題だったろうが、そのノウハウはディズニーランドの模倣とは、恐れ入った。

こちらが義経号か?

 

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市井からの眺め85関西鉄道⑮

2020年07月06日 | レモン色の町

関西鉄道大仏駅について(駅跡地に建つ記念碑より)

明治28年に草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植から大阪方面への進出をはかり、2年後の30年11月に加茂まで開通した。

ここから梅谷を経て黒髭山トンネルを下り、明治31年4月、この地の北側法蓮の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は、市民・観光客にも親しまれ、大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大寺に参拝していた。奈良駅へはその年の12月到達したが、乗り入れが実現したのは翌32年5月であった。その後、路線が木津経由に変更となり、明治40年8月までの約9年間で廃止された。

昭和39年頃までは、トンネルも残っていたが、当時の面影は今は見られない。

    平成4年4月   奈良市

前々回紹介の高山禮蔵氏の解説「関西鉄道の黒髭山トンネルなど」(昭和50年発刊)の続きである。

しかし、この区間の線路状態は、大仏駅を発車した列車が一条通の踏切を過ぎると黒髭山トンネルまで約1キロの間を、蒸気機関車では限度一杯と思われる約1000分の30の登り勾配で構築されている。トンネルは約100メートル程度の短いものであり、その先の丘陵地帯も緩やかな下り勾配で加茂駅へ向かうのである。従って、大仏駅を発車した列車は急勾配を登るのに苦労し、加茂駅を発車した列車はトンネルを過ぎると、乗客は眼下に広がる風景、巨大な大仏殿や興福寺の五重塔などの姿に心を奪われたかもしれないが、機関士は当時ブレーキ装置の貧弱な列車をピタリ大仏殿に停車させる苦労がつきまとった。

昭和39年 

写真で見るようにトンネルの入口には社紋が2個取り付けてある。それにしてもこのトンネル、出来上がって約10年間汽車が走ったが、そのあと約60年は道路として使用され、昭和40年頃、道路拡張のため取り壊され切通しとなっている。トンネル跡の南西方にドリームランドがあり、ジーゼルエンジンで走る帝国車輛(現 東急車両)製の「義経号」が「開拓便」型の客車を引っ張って走っているのもこのトンネルを走った汽車と何らかの目に見えぬつながりがあったのかもしれない。

閉鎖後のドリームランド

中学生の頃、奈良のドリームランド(昭和36年〜平成18年)を訪れた。その後、子供を連れて再び出かけたが、往時の賑やかな面影はなかった。開拓史ゾーンのあった覚えがあるが、「義経号」を見た記憶はない。

当時の「義経号」

<追記> 只今、ネットで“磨墨”=“加茂駅構内”の写真を見つけた。機関車庫の全景が写されている。もう少しはっきりした写真が見たかったが・・・。

加茂駅構内

同じ写真だ

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市井からの眺め84関西鉄道⑭

2020年07月05日 | レモン色の町

<閑話休題> 前回気になった、図の右下にある“京終”という駅名について

奈良町(ならまち)といえば、歴史的な町並みが残る奈良市の旧市街地のこと。現在、奈良町の北方は「きたまち」と呼ばれ、新たな観光名所となっています。では、奈良町の南方は?そこには「京終」と呼ばれる地域があり、かつては奈良の南の玄関口として賑わいました。しかし、この「京終」、いったい何と読むか、ご存知ですか?正解は「キョウバテ」。その名のとおり、京(平城京)の果て(終わるところ)という意味に由来します。バス停の「北京終町」の読みは、京終が「キョウバテ」ですから「キタキョウバテチョウ」とよみます。北京おわり町ではありません

もう一つ“大仏鉄道”について「関西のお出かけ情報サイト eoお出かけ」より

加茂駅に停車中の磨墨(するすみ)

「大仏鉄道」とは、明治時代の鉄道会社「関西(かんせい)鉄道」の加茂と奈良を最短距離で結んだ、約10キロの路線のこと。明治31年、加茂駅から大仏駅(現在の奈良駅北1.1km)の区間が開通。大仏駅は、奈良の大仏(東大寺大仏殿)の最寄り駅として、すごく賑わった。翌年には奈良駅まで延伸している。しかし、起伏の多い路線だったため、明治40年、平坦なルート(現在の関西本線)の開通とともに廃線に追い込まれた。わずか9年という短い歴史と当時の資料の乏しさから、「幻の大仏鉄道」と呼ばれている。廃線巡りのコースとして有名だそうです。

※ 面白いユーチューブを見つけました。加茂駅に停車の磨墨(するすみ)でなく電光(いなずま)が出発し、大仏駅へ向かって走るCG映像です。途中、赤橋を渡り、緩い坂を上って黒髭トンネルをくぐります。(申し訳ありませんが、例のごとくコピー、貼り付けでご覧ください)

https://www.youtube.com/watch?v=eKESrBryJHg

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市井からの眺め83関西鉄道⑬

2020年07月04日 | レモン色の町

関西鉄道略史の巻末に、高山禮蔵氏が「関西鉄道の黒髭山トンネルなど」で投稿されている。

明治28年、四日市から名古屋に達した関西鉄道は、明治30年鉾先を西へ転じ、伊賀路を上野から木津川の渓流に沿いに京都府南部の加茂に達した。

更に奈良への直進コースを取り、明治23年に全通した湊町・奈良間の大阪鉄道に結び、官設鉄道の向こうを張って名阪間直結ルートの確立を目指す主要幹線にまで最長した。しかしこのプランは大阪鉄道との協議がはかどらなかったのか、別途に加茂から分岐して未開業の城河・営業中の浪花の両鉄道を買収し路線を延長、大阪市内東部の網島駅を設けて大阪でのターミナルとした。名阪間直通運転が開始されたのは明治31年のことである。

注:京終(きょうばて)駅

さて加茂・大仏間の開業が明治31年4月19日であり、延長工事はさらに進められて奈良駅への乗り入れ運転が開始されたのは1年後の明治32年5月21日であった。大阪鉄道の奈良駅へ南北双方から奈良鉄道が乗り入れており、更に関西鉄道も乗り入れて、奈良駅のダイヤの調整は時間がかかったと思われる。

以後、明治40年8月21日木津駅北方の線路変更による運転経路の変更で、奈良・加茂間を通過する列車が木津経由になるまでの10年間、特に明治33年6月6日大阪鉄道が関西鉄道に買収され、湊町へ重点を移してからは、奈良・大仏・加茂のルートはメインラインとなっていた。今や幻となった大仏鉄道は、明治41年11月に廃止されている。

昭和40年頃の黒髭山トンネル跡 関西鉄道のマークが望める

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市井からの眺め82関西鉄道⑫

2020年07月01日 | レモン色の町

値引き合戦の弊害に、大隈重信卿が官営鉄道側に苦言を言い渡した。

大隈重信

また、明治37年1月には名古屋商工会議所が逓信大臣に対して競争は混乱を招いている旨の建議を行っている。

こうして、明治37年4月、大阪府知事ほか国会議員2名による調停が行われ、4月25日に鉄道作業局長官と関西鉄道社長との間で協定書が取り交わされた。

協定の大要は、旅客については名古屋・大阪間および名古屋・草津間の運賃は局社同一とし、値引きを行うときは協議の上行うこと。貨物については名古屋・大阪間に発着するものはその運賃を同一とし、この区間における貨物の全数量中 輸送分担量を協定して実際輸送量をなるべく協定の線に適合するよう努めることであった。マ、両社仲良く運営してくださいということです。

昭和37年1月23日の鉄道時報より「切符お買い求めの御方に新鮮なる御弁当進呈」

こうして激しい競争に終止符が打たれたが、この背景には、日露戦争による貨物輸送への強い要請が、官設・私設両鉄道ともいたずらな競争を許さない情勢にあったためと思われる(明治37年2月6日、日露戦争が勃発している。兵士、兵器、物資等の国内輸送が最重要になっているときに「値引き合戦をしている場合か!」との軍の逆鱗に触れたことも大いに影響しているのだろう)

明治39年の鉄道国有法の成立により、明治40年10月1日、関西鉄道は国有となり、競争は完全に終息した。

追記:下総様からご指摘をいただきました。

前出の亀山駅構内で、車庫に入っているのが「鬼鹿毛」で、入れ替え作業をしているのが「望月」でした。双眼鏡で見ましたが、分からなかったです?

陳謝!

追記の追記

下総人さんからメールが!

鬼鹿毛は電光(いなづま)や雷(いかづち)と同様に、列車が加太越え(鈴鹿峠の加太トンネル)をするときの助っ人機関車(補機という)。望月は入れ替え用の小型機関車。機関車の入れ替えを機関車がするというのは少し変ですよね。ですから昔の微かな記憶が蘇ったのです。

余談ながら、現在の状況は知りませんが、私が“撮り鉄”だった1970年の頃、この加太越えはデゴイチが2輛、前ひき後押しナンダ坂コンナ坂と童謡そのものの風景が見られました。

また、写真にある機関車は、このころまだ使われていました。あの頃が、懐かしいです

下総人様 ありがとうございました。風景が目に浮かぶようです。見れるものなら見たいです。

 

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