花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市漫歩マップ⑤国際振興大博覧会

2021年10月19日 | レモン色の町

昭和13年 会場跡地

昭和11年3月25日から5月13日まで 四日市港の第2期修築工事完成記念として、第2号地(千歳町)を会場に“国際振興四日市大博覧会”が開催され、来場者は120万人を超えて大成功でした。

千歳橋を渡ると正門のモニュメントがそびえ立ちます。仏教館の巨大な仏像が望みながら橋を渡る来場者には、気持ちの高まりが押さえきれなかったと想像されます。

左が千歳橋。会場中央に仏教館が建ちます。公会堂と商工会議所も建っています。

鳥観図が鮮明でないのが残念です・・・って 犯人は私カモ!

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四日市漫歩マップ④ 幻の合同駅

2021年10月18日 | レモン色の町

椙山 満先生の“北勢軽便王国物語”をWebで見つけた時は驚いた。

大正5年11月の撮影で、左に四日市鉄道、右が三重軌道の合同駅になっている。この駅舎は大正5年3月に出来て、昭和3年に伊勢電鉄の路線になるまでの約12年間存在していた。その後、両線は東海道沿いの諏訪駅が始発駅となっている。

大正11年マップの合同駅の位置である。上が西方向で2本の線路は諏訪駅へと向かう。三重軌道の線路が左方向へ曲がっているのは、阿瀬知川岸に荷物の積み下ろし場があったからだ。

東向きに撮られた絵葉書。右に立派な山門の善光寺が建ち、正面に合同駅が望める。初めの写真からずっと後ろへ下がった位置になる。

大正15年

大正期の街の並び。“よっかいち”から左へ二本の線路が伸びる。この頃の四日市鉄道の“諏訪駅”は東海道の西側、三重軌道の“諏訪前”は東海道の東に、別々にあった。

下の時刻表を見ていただきたい。湯の山行の電車と内部行のコッペル車が、午前7時20分、同時に発車して諏訪まで並行して進んでいる。四日市着の時刻表にも、6時25分と10時27分が同時刻に終着している。少し競い合って走る両列車を、見たかった!みてみたかった!

椙山先生 ありがとうございました。

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四日市漫歩マップ③商工会議所

2021年10月17日 | レモン色の町

明治44年

明治44年の地図を見ると、浜往還通り、中町(訂正:浜町)に“商工會議所”の文字が見える。当時としては1等地である。

通り沿いにそびえているのが、明治38年できた“四日市商工会議所”。

昭和15年

昭和5年、四日市港第2修築工事が完成したのに合わせて、新しく出来た埋立地へ移転する。昭和11年3月 この千歳町で“国産振興四日市大博覧会”が開催される。(三角の処が博覧会会場跡地)

横には公会堂が出来る。どちらも小菅剣之助氏の寄贈であった。通りを挟んだ右側には“市立病院”が建つ。

商工会議所の内部“議事室”である。“財を生かすは大道に有り”の横額が架けられている。当時の流行だったのか?旧図書館とよく似た間取りである。

戦後、市内の中央通りへ、商工会議所は建て直され、公会堂は移転された。当時商工会議所の屋上には“東芝”の巨大なネオン塔が立っていた。

昭和53年

<追記>

昭和21年5月、 空襲後の空撮である。商工会議所の建物は、移築後、そのまま板硝子の物として残されたのだろう。空襲で焼失したと思っていたが、これを見る限り焼失は免れたようだ。

昭和25年5月:四日市商工会議所、現在の中央通りに竣工

昭和25年2月:市公会堂、千歳町から幸町(市役所西側)に移転落成 とあった

 

 

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四日市漫歩マップ②図書館

2021年10月16日 | レモン色の町

明治44年の地図であります。“保光苑”とあるのは現在の諏訪公園。明治44年日露戦争戦勝記念として、諏訪神社裏の公園を“保光苑”として市民に開放されました。

旧図書館は、大正天皇御大典記念として大正5年6月に竣工しています。この時、“保光苑”は“諏訪公園”と改称されました。神社本殿裏の池の向こうに少し覗いている建物が旧図書館です。

木造2階建てのしゃれた建物でした。

大正11年の地図には、諏訪公園の下に“図書館”の文字が読めます。

大礼記念四日市市立図書館熊澤文庫とありました

昭和4年1月15日、東海の飛将軍と云われた熊澤一衛氏が、旧図書館の前に熊澤館を竣工させます。右端に旧図書館が覗いています。下の写真を見てください。四日市市立図書館刊の“写された四日市”に、珍しい写真を見つけました。

左が熊澤館、その奥に旧図書館が建ちます。森 昭源さんがお持ちの絵はがきで、昭和時代とだけありました。旧図書館は、児童館として利用されていたようです。昭和20年6月18日の空襲で熊澤館は残りましたが、旧図書館は消失します。

戦時中一時、病院として利用されましたが、昭和24年3月1日、再び図書館として復活されました。

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四日市漫歩マップ①掖済会

2021年10月15日 | レモン色の町

明治28年の鳥観図 港に燈台が立つ

掖済会という不思議な名前の建物が、旧港の北側にあった。そう思ったのは1年ほど前のことである。

明治40年発行の“四日市史” イカリのマークになっている

腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。

明治44年の地図には“掖済会”の文字が確認できる

掖済会(四日市海員寄宿舎とある)

明治期までは海水浴というレジャーはなく、海水に浸かる行為は医療用とされていた。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場としては最初に開かれた場所で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。

大正期の掖済会前海水浴場 飛行機が着水している

大正11年のマップでは“海員掖済会”となっている

大正期の掖済会 人の気配がないところを見ると 秋か?

大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機三機が浜辺に着水しており、多くの人が集まって来ている。

大正13年10月12日の空撮

大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、三滝川河口の為か、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。上の空撮でその様子がよく分かる。

掖済会は今も健在で、一般の病院と同になって全国で稼働している。

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稲葉翁伝 エピローグ 検証

2021年10月10日 | レモン色の町

ここまでの築港の歴史をたどってみる

昭和3年 昌栄橋北詰めに完成した三右衛門像 

明治6年 9月 三右衛門の手で起工

明治7年 9月 県による継続の説得ありこの時 埋立九分完成

明治7年10月30日 内務省より土木賦課金 築港税の請求

一時中断

明治8年 1月 県による工事着手の通達

明治9年 3月 三右衛門 大坂高等裁判所へ上訴

明治9年12月 伊勢暴動

明治11年6月 4日 三右衛門敗訴 内務省へ申し出る

明治11年9月20日 内務省来四 調整案出る

明治13年3月15日 三右衛門による再開の起工式

三右衛門 明治14年から借地料を徴収

明治17年5月 港完成

明治20年   借地収入は4千円、三右衛門 半分を債務返済にまわす

明治18年10月24日 三右衛門が県に提出「四日市両波止残業仕様概算書」・「四日市港新開地残業仕様概算書」

明治17年 三右衛門の造った港

県のホームページを再掲載する

明治17年6月の議会で、四日市築港事業が政府直轄となるよう請願の是非を問う。岩村定高県令は「築港ノ計画未タ定マラサレハ」と発言。「稲葉の失敗」という見方もあった。

岩村県令は四日市港の欠点を指摘。1つは波止場と避難場所がない。総工費50万円はかかるが三右衛門の築港は工費総額が7万円程度であった。三右衛門はいったん工事を中断して残務を政府管轄事業に期待し、動静を見守ったのか?
4万6千平方メートルの埋立地は、三右衛門の私有地。明治14年から借地料を徴収、明治20年ごろの借地収入はおよそ4千円。でその半分を築港工事の債務返済に充てた事実がある。 (県史編さんグループ 石原佳樹)

稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)

明治27年完成の潮吹き防波堤

此処で明治11年6月の内務省より出た調停案を列記する

・工事は、県が指導監督して稲葉三右衛門が施行する

・埋立地の地券は速やかに公布し、県は、徴収保管は止める事。

・今までの工事の費用は両者の負担として、現状のまま稲葉が工事を引き継ぐ。

・波止場完成の折には、港を公共のものとする。

・工事は3年以内で完成させ、見積金額以内で納める事。

結審後、三右衛門は引き続き工事を継続した。それまでの工事費用は両者負担となったのか?その後、残された工期は3年となり当初の見積金額で施工せよとなっている。

稲葉三右衛門翁は、この段階で費用と工期は不十分と考えていたのではなかったか?

現在残る稲葉家の土地は、北納屋(訂正:中納屋)の住居のみである。 おわり 

※皆様のご意見(コメント)をお待ち申し上げております

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稲葉翁伝 最終回 竣工

2021年10月09日 | レモン色の町

明治13年3月15日、澄み渡った青空の元 起工式が行われ、工事は再開された。かねて申し入れていた桑名城跡の石材が運ばれ、美濃や赤坂から雇い入れたい石工が、手際よく石垣を組んでいく。伊勢暴動以来、南町や北町に引き上げた妓楼も、再び高砂町で普請を始める。県から地券も少しずつ公布され、貸地料も返してくれるようになった。

伊勢暴動(明治9年)で焼失する前の高砂町の賑わい 水谷百石(訂正:水谷百碩)画“明治初年高砂町遊郭”

明治17年5月5日、高砂町荷上場前の広場で落成式が挙行され、当時の四日市の知名人を含む数百名が集まった。明治3年10月悲願を起こしてより、17年5月までの15年間、しかもその間、真に工事に没頭できたのは5年余に過ぎなかった。総工費20万円、昭和30年当時のお金に換算しても5億3千500万円が投入されたのである。帰宅後、家族関係者を前に、三右衛門はしみじみと語った、

「みなさん有難う、本当に有難う。今日の事あるはみんな皆さんのお陰や、私のようなものをよう助けて下された。三右衛門からお礼を申します。明日は、得願時(稲葉家の菩提寺)と法泉寺(川原町 山中伝四郎の墓)へお参りして、先代様と兄さんに報告をしたうえ、その足で高須(三右衛門の実家)へまいります。これで私も日本晴れの気持ちや。何もないが、心ばかりのお祝いをやりましょう。」

その後も、三右衛門は補足工事や、債務工事に1年余没頭している。一切の残務を済ませ、三右衛門の手に残ったのは、中納屋の家と屋敷だけで、稲場町、高砂町両町の土地も蔵町の倉庫も人手に渡っていた。明治21年、稲葉三右衛門は藍綬褒章を受ける。

稲葉三右衛門

夙(つと)に四日市港の壅塞(ようそく)を憂ひ力を築港事業に尽くし海浜1万4千坪を開築し溝渠(こうきょ)を穿<鑿(うが)>ちて漕輸(そうゆ)を通じ埠頭を築いて船舶を便にし為に一家の資財を傾くるに至る其績方に顕(あらわ)る仍(よ)って明治14年2月7日勅定(ちょくじょう)の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を賜ひその善行を表彰す。賞勲局総裁 柳原前光・同 副総裁 大給 恒 明治21年1月5日

“郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史”の著者 大島重敬氏は、最後をこう締めくくっている。『為に一家の資財を傾くるに至る』の一句は、真情を知る者の肺肝を衝(つ)き、以って後人の範とするに足るであろう。

下の写真は、四日市市立博物館刊の“写された四日市”より写させていただいた

 

築港竣工後(明治17年)の堤防である。堤防が海面よりわずかに顔をのぞかせていて、三右衛門によって築かれた港の写真としては唯一のものとある。

明治27年竣工の“潮吹き防波堤”に比べると確かに低く粗末なものと云える。

県が“未完成”の一言で片付けるのはもっともと云えるが・・・  エピローグにつづく

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稲葉翁伝㉕ 再開

2021年10月08日 | レモン色の町

明治11年6月 大阪高等裁判所で三右衛門は敗訴に終わったが、その後、県による工事の進捗はなかった。理由は、財政上施行困難という事だった。三右衛門は、内務省に訴え出る。こうして内務省による実地検分が行われ調整案が出された。

明治21年竣工の開栄橋 橋の左側の洋館は四日市郵便局(明治21年竣工)、その向かいが四日市倉庫㈱本社、その奥の洋館は四日市銀行である。稲葉邸はその向かいあたりか?(明治時代)四日市博物館刊“写された四日市”より

・工事は、県が指導監督して稲葉三右衛門が施行する

・埋立地の地券は速やかに公布し(埋め立てで出来た土地は売却するなりして換金する?)、県は、徴収保管は止める事(工事完成まで待つことなく、都度 運転資金に回す?)

・今までの工事の費用は両者(県と稲葉)の負担として、現状のまま稲葉が工事を引き継ぐ。

・波止場完成の折には、港を公共のものとする。

・工事は3年以内で完成させ、見積金額以内で納める事。

であり、双方相当の難色があったが、結局 内務省の結論に従うことになった。こうして明治7年末より県との間で争ってきた懸案も一応の決着がつき、三右衛門の手で工事は再開されることになった。しかし問題の地券はなかなか交付されない。やむを得ず、三菱汽船の近藤廉平を訪ね、稲場町にある2千坪の土地を将来支店にすることを条件に2万円、それと高須にある実家の実兄 吉田耕平から1万円を借り受けて願書をつくり県へ提出した。

明治19年に置かれた四日市灯台の外観を詳しく知ることができる。また、堤防が高く築かれていたこともよく分かる写真である(大正時代)四日市博物館刊“写された四日市”より

明治13年3月13日、ようやく工事の免許が下り着工の運びとなった。しかし、完成された堤防は昭和17年竣工時点ではここまで高く築かれてはいなかった。    稲葉翁伝 最終回へ・・・

郷土秘話 港の出来るまで より

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稲葉翁伝㉔ 暗殺

2021年10月06日 | レモン色の町

明治11年、稲葉三右衛門は三菱汽船の支店長 大井水哉と共に上京、岩崎彌太郎邸を訪れた。

岩崎彌太郎

「そうか、そりゃ無茶だ。待てよ、この5月に大久保がやられてから(暗殺)後は大隈(重信)が内務卿兼ねておる筈じゃから会って話をするといい。」ということで、岩崎は大隈重信を紹介した。(この頃 大隈は立憲君主制を議会に諮る件で伊藤博文と対立 イソガシイ)

大久保利通暗殺 漫画版日本の歴史12 監修 山本博文 より

「うむ、そうか、いろいろ苦労なさるそうじゃのう。大隈からの連絡じゃと云って、事の詳細を土木局長へ伝えてくれ。俺は三重県には縁がある。桑名の諸戸清六には世話になったよ。」と、気さくな一面を見せた。時の土木局長は、土佐出身の山浦順三という、評判のやり手で快活な男だった。

「県令も裁判で勝った後だから鼻息も荒ろうし、本省へ呼ぶよりもこちらから現場へ出向いた方がよさそうだ。」こうして、大井と三右衛門は滞在約1か月の後、来四を土産に四日市へ帰った。

敗訴以来、世間の目には厳しいものがあったが、少しずつ同情する噂も出始めた。

「ほんにお気の毒や、あんなに一生懸命になって御座るのに、お上の仕打ちはひどすぎる、何とかならんもんやろかなあ。」一方、回漕会社も解散してしまい、三菱汽船となり、稲葉家の店も、日増しに忙しさを増していた。

明治11年9月20日、四日市港調査のために山浦土木局長、技師1名、属官1名が三菱汽船の千年丸で上陸した。その日、一行は思案橋の吉高屋旅館に投宿している。

<閑話休題>

稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)

県のホームページに、築港事業の最後の仕上げをしたのは県であることが記されています。現在紹介の記事は明治11年。事業の中断で議会にて問題になったのは明治17年、タイムリミットは6年間。事の成り行きをこの本はどう書いているのか? さて、いかなる展開を見せるのでせうか? 乞うご期待!  四日市秘史 港の出来るまでより

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稲葉翁伝㉓ 判決

2021年10月04日 | レモン色の町

明治9年の伊勢暴動を機に、岩村参事は“民意の赴くところを察し、庶心改革に志し、築港工事をも中止してしまった”と、『郷土秘史 港の出来るまで』にあった。少しビビったのだろう。

雪の開栄橋(明治30年頃)四日市の100年より

さて、大阪高等裁判所に提訴した原告 稲葉三右衛門、被告 三重県令岩村定高の件は、十数回の口頭弁論が行われるに至ったが、原告の稲葉三右衛門は『埋め立て工事が仕上がった部分から官に買い上げてもらって資金にしたい』という主張に対して、県は『工事がすべて完成しない限り一部の利用は許されない』との対立に終始した。要は、企業本位の個人事業と、杓子定規の官府行政とを、裁判所がどう判断するかにあった。

明治11年6月4日、結審が出た、原告側 稲葉三右衛門の敗訴となったのだ。今回の築港事業は共同事業であるにもかかわらず、工事途中にして、原告が権利の独占を主張するのはおかしい、という判決であった。(この辺り文章が難解でうまく説明できません。申し訳ない)

当初は知らんふりをしていた県は、築港事業の進捗状況と回船会社からの陳情で、取り組むことになった。初めから個人では無理と踏んでいた岩村は、資金面で難航する三右衛門の築港工事を県で引き継げないかと考えるようになった。と、こういう事ではないでしょうか?

稲葉三右衛門翁

「上等裁判所ともあろうものが、碌な審理もせずに、あんたと県庁の共同事業だなんて。どう勘違いをしたんでしょう。」稲葉家の奥座敷、客は三菱汽船の初代支店長 大井水哉は興奮して言った。こうなれば政治家に頼むしかない、という結論で、再び上京の運びとなった。  つづく

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