今日も寒暖計は4℃と暖かい朝、でも朝なのに暗めです。
二日前ソウルでPM2.5の警報が出ていましたから、中国から
偏西風に乗り、日本にまでやってきたのですね。
若草山や御蓋山もぼっとシルエットで、マスクが必要?
突然二階から物音が、チビギャングが3人お泊りでまだ金曜日
インフルエンザBも流行っており、朝食を済ませて学校へ送り
出さなければ・・・、マスクをさせた方が良いのでしょうか。
9時 15時
奈良市の測定で昨日の23時に最高値が41μg/m3
(日平均35以下)で、通りでお昼から晴れてきてよかった。
『華の国のPM2.5や寒の入り』
愚句
1月19日、今年もまた忘れていたことが・・・
今日は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の明恵上人が
亡くなられた日、1232(寛喜4)年『明惠忌』にあたります。
鎌倉時代の僧で華厳宗中興の祖、京都栂尾高山寺を草創され
寺宝の鳥獣人物戯画は有名ですが、明恵上人に関わるものが
多く所蔵され、明恵上人像や明恵上人樹上座禅像等です。
国宝・明恵上人樹上座禅像
また和歌にも長けられ、家集『明恵上人和歌集』があります。
『あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月』
『むらさきの 雲のうえへにぞ みをやどす
風にみだるる 藤をしたてて』等・・・
そして忘れてならないのは、栄西師から譲られた茶の種子5個を
栂尾に撒き茶園を開き、さらに宇治茶発祥にも足跡を残された。
この発祥のエピソードを伝える上人の歌碑『駒蹄影園碑』を
訪れていたことを思い出しました。
『栂山の 尾上の茶の木 分け植ゑて あとぞ生ふべし 駒の足影』
大和高原の茶園
(大和の茶の元は、空海さんといわれております)
なんと奈良にも縁があるのです。、
『春日権現験記』という講演で「春日権現験記絵」巻17にも
明恵上人の名前が出てきたのには、びっくりしました。
俗説として
”明恵は常に春日明神と直接対面することが出来るが、
解脱は牆を隔ててしか対面がかなわない。”と
笠置伝記に興福寺で出家され、南都仏教界随一の解脱上人
(貞慶)が笠置寺へ移られた時、
所用で明恵上人が訪れたが不在であった。
『来てみればここもみやこにすみなして
おもひしほどは棄ぬ也けり』
との歌を遺して、会わずに帰えられた。
解脱上人はそれを恥じ、巨石と雲海の笠置寺を出て、
木津川の対岸の海住山寺へと移られたと。
何故、ここまで春日の神に気に入られたのでしょうか。
インドでへ渡ろうと二度も企画するも、春日の神の神託や
病気で断念されており、ウィキペディアには明恵上人をして
”無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れる
ところがいささかもなかった。かれの打ち立てた華厳密教
は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいよう様々に工夫
されたものであった”と 合掌
二日前ソウルでPM2.5の警報が出ていましたから、中国から
偏西風に乗り、日本にまでやってきたのですね。
若草山や御蓋山もぼっとシルエットで、マスクが必要?
突然二階から物音が、チビギャングが3人お泊りでまだ金曜日
インフルエンザBも流行っており、朝食を済ませて学校へ送り
出さなければ・・・、マスクをさせた方が良いのでしょうか。
9時 15時
奈良市の測定で昨日の23時に最高値が41μg/m3
(日平均35以下)で、通りでお昼から晴れてきてよかった。
『華の国のPM2.5や寒の入り』
愚句
1月19日、今年もまた忘れていたことが・・・
今日は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の明恵上人が
亡くなられた日、1232(寛喜4)年『明惠忌』にあたります。
鎌倉時代の僧で華厳宗中興の祖、京都栂尾高山寺を草創され
寺宝の鳥獣人物戯画は有名ですが、明恵上人に関わるものが
多く所蔵され、明恵上人像や明恵上人樹上座禅像等です。
国宝・明恵上人樹上座禅像
また和歌にも長けられ、家集『明恵上人和歌集』があります。
『あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月』
『むらさきの 雲のうえへにぞ みをやどす
風にみだるる 藤をしたてて』等・・・
そして忘れてならないのは、栄西師から譲られた茶の種子5個を
栂尾に撒き茶園を開き、さらに宇治茶発祥にも足跡を残された。
この発祥のエピソードを伝える上人の歌碑『駒蹄影園碑』を
訪れていたことを思い出しました。
『栂山の 尾上の茶の木 分け植ゑて あとぞ生ふべし 駒の足影』
大和高原の茶園
(大和の茶の元は、空海さんといわれております)
なんと奈良にも縁があるのです。、
『春日権現験記』という講演で「春日権現験記絵」巻17にも
明恵上人の名前が出てきたのには、びっくりしました。
俗説として
”明恵は常に春日明神と直接対面することが出来るが、
解脱は牆を隔ててしか対面がかなわない。”と
笠置伝記に興福寺で出家され、南都仏教界随一の解脱上人
(貞慶)が笠置寺へ移られた時、
所用で明恵上人が訪れたが不在であった。
『来てみればここもみやこにすみなして
おもひしほどは棄ぬ也けり』
との歌を遺して、会わずに帰えられた。
解脱上人はそれを恥じ、巨石と雲海の笠置寺を出て、
木津川の対岸の海住山寺へと移られたと。
何故、ここまで春日の神に気に入られたのでしょうか。
インドでへ渡ろうと二度も企画するも、春日の神の神託や
病気で断念されており、ウィキペディアには明恵上人をして
”無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れる
ところがいささかもなかった。かれの打ち立てた華厳密教
は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいよう様々に工夫
されたものであった”と 合掌