今から17年ほど前の2005年に書いた論考で、昨今多発している「拡大自殺」(多数の関係ない人を殺して生きた証を残して自殺すること)が今後ますます頻発する事とその理由について述べています。
十数年前に書いたものではありますが、未だにその問題の本質は変わっておらず、今後も益々大きな社会問題になっていくものと思われます。
同論考では、その原因の一つともなっている人間存在の無価値・無意味さを痛感させる無味乾燥な宇宙観・世界観の長年に渡る影響によって、現在の様な、疎外感と孤独感に絶望する人々が数多く生み出されている事をまず概観します。
そして、最先端の科学的知見によってこれまでの世界観とは本質的に異なる全く新しい有機的な宇宙観・世界観が新たに提示されつつある現状を概観します。
旧来の世界観では人類は無意味・無価値な存在であるかのように思われていましたが、最新科学が提示する世界観では人間一人一人が世界の在り方の最終決定権を持っている、つまり世界の主役であることが示唆されます。
それは今後の人類一人一人の生き方に大きな影響をもたらす、つまり、世界観・人生観の大転換が今後始まることを意味しているのでした。
ちょっと長い論考ではありますが、お時間のある時にでも読んで頂ければと思います。
現代人のこころの状況とそのゆくえについて
<序>
今日の日本の社会への要託として、“こころの時代”という呼びかけが言われている。では、なぜ今“こころの時代”なのか。少なくとも“こころの時代”という叫びは、現代社会における“こころの荒廃”の深刻化、それに対する危機感を反映していることは間違いない。
犯罪の低年齢化・凶悪化は否めないし、親殺し・子殺しなどもはや日常茶飯事になってしまった。
ところで、多くの人々にとってはこれらの“事件”は“特殊な”出来事であり、今の自分達には関わりのない事、或いは関わりがなくて良かったこととして片付けられる。
現代社会は科学技術と商業主義の拡大を原動力として発展してきた。そこでは、客観性と実利が第一義とされ、主観的な人間の精神性や信条が相対化または個別化される。そして、ときには不問ふされる。そして、共有できる精神的基盤・価値観が消失しつつある。その様な時代状況が人々の精神的疎外状況を生みやすくし、それが“こころの荒廃”の要因にもなっている。
本稿では、現代人が直面する精神的疎外状況の原因を探るに当たって、先ず、近代合理主義によって確立された近代的自我が啓蒙主義によって自由を獲得し、更にその後の機械論的自然科学の発展によって精神的基盤の根拠を喪失して行く過程を概観する。そして、その様な孤立的自由を獲得した近代的自我が、自らはその機械の部品の一部であると言う強迫観念からも自由になるために、自ら疎外状況を作っていくと言う現代的構図を見ていく。しかし、その強迫観念の源泉であった機械論的自然観の前提が新たに登場した量子物理学の数々の新発見によって覆りつつあり、それに代わる全く新しい世界像が示唆されはじめている。そのようなコペルニクス以来の世界観の大転換を迎えつつある現代において、近代的自我とその疎外状況が今後どのような変貌を遂げていくのか、その可能性について考察する。
<与えられた価値観から自ら見出す価値観へ>
1. 近代的「自我」の確立による価値基盤の相対化へ
‐近代合理主義の志向したもの‐
古来、人類は共同体を形成し、その共同体の掟やその共同体が共有する特定の信仰に基づく価値観を自分自身の価値観として受け入れ、それに従った生き方をすることによって、一応の安定した“こころの拠り所”を得ることが出来た。そして、今でもそういう生き方をしている人々は世界中に数多くいる。
しかし、西欧の近代化の過程で、ルネッサンスやその後の啓蒙思想などによって人間の“個”としての可能性とその自由の確立が志向されるようになった。それは、それまで“個”を従属させてきた共同体や宗教的な権威から“個”を開放しようとするものであった。
そして、権威から解放された個にとっての“こころの拠り所”はいわゆる“理性”であった。共同体の掟や宗教的な教えに盲目的に従うのではなく、自分自身の“理性”による判断をその最大の拠り所にするというものであった。いわゆる、近代合理主義の幕開けである。
しかし、その初期の段階においては“理性”と言うものは各人異なる相対的なものではなく、究極的には“神的なもの”につながる言わば絶対的なものととらえられた。この“神的なもの”とは、いわゆる正統派キリスト教の“啓示の神”ではなく、自分の内なる神であって、考える主体というものを突き詰めていくと其処に神がいたという、言わば“原理的な神”であった。更に、その後につづく啓蒙思想などによる、理神論的な神概念を前提としつつも究極的には人間の理性を最高位に置こうとする志向は、近代合理主義というものをより人間中心主義的な合理主義に変容させていくことになる。
ただ、多くの一般市民は啓蒙主義による自由・平等・民主主義による社会の変革の恩恵を享受しつつ、個人的には宗教改革によりそれまでの教会を介した信仰から個人の信仰へと変容をとげはしたが依然として旧来の“啓示の神”に対する信仰をその“こころの拠り所”にしていた訳であり、その状況は現代の欧米社会においてもつづいている。
近代合理主義は、政治・経済・社会・科学の変革において、主要な役割を果たして来た。しかし、一般市民の“こころのあり方” 個人的信条に関しては、啓蒙思想的な自由主義を志向する人々が増加している反面、キリスト教信仰が根強い欧米において、旧来どおりのキリスト教的世界観を維持し続ける人も多く、双方が二極化しつつある。
‐啓示宗教的価値観と近代合理主義的価値観との対立の現状‐
アメリカでは、堕胎問題に関して爆弾テロまで発生するほどの血で血を洗う闘争が繰り広げられている状況があるように、いわゆるキリスト教的原理主義を信奉するPro-Lifeの保守派と、近代合理主義的信条を持ついわゆるPro-Choiceのリベラル派との対立は想像以上に深刻になってきている。堕胎問題に限らず、いまや様々な政策においても、キリスト教的価値観を守るか、リベラルな近代合理主義的選択をするかが大統領選挙においても最大の争点となっており、アメリカ社会が思想的に分断されかねない様相を呈しはじめているのである。
先の大統領選挙においても、西海岸と東海岸の知識人の多い地域では反ブッシュのリベラル派が多かったのに対して、中部地域ではブッシュが“信心深い”と思い込んで、他のどのような政治課題にも優先してブッシュに投票した人が多かった。つまり、ブッシュ大統領が前回の選挙で勝てたのは、決してイラク政策やテロ対策などの政治問題への支持があったからではなく、単に彼が“信心深く”よりキリスト教的価値観に保守的であるという姿勢をアメリカ中部の保守層にアピールできたからというのが最大の要因であったのである。そして、その事実は選挙後の世論調査の結果でもあきらかになっている。
要するに、キリスト教的世界観とその価値観を深く信奉する保守派の人々は、近代合理主義的なリベラル思想によってキリスト教的価値観が破壊されることにただならぬ危機感を感じているわけである。
このように、近代合理主義が生まれた欧米社会においては、必ずしもその思想が個人の信条にまで浸透し尽くしているわけでは決してなく、むしろ、啓示の神に対する信仰とその救いを前提とするキリスト教的世界観と価値観が個人の信条として今も根強く残っており、近代合理主義的思想にとっては一大抵抗勢力になっている事を見落としてはならない。
しかし、それは元来、啓蒙主義を経た近代合理主義というものが、前述のように“啓示の神”に対する信仰とその呪縛から、各人の“理性”に基づく判断による“個”の開放を志向していた事実からしても、いわば当然の成り行きなのかもしれない。
同じように、昨今世界的な問題になりつつある、欧米とイスラム原理主義との対立も、一見、キリスト教とイスラム教との一神教同士の対立のように思われている節もあるが、実は当のイスラム教原理主義者が最も恐れているのは、いわゆる欧米的なものであり、当の彼ら自身がそれをキリスト教と混同している場合も多々見られるようだが、実の所その本質は上記の近代合理主義的自由思想なのである。そのような思想がイスラム社会に持ち込まれれば、彼らが長年保持し続けてきたイスラム教的な宗教的世界観や価値観が破壊されるのは避けられない事を、彼らは直感的に察知していると見るべきである。
‐科学的実証主義による近代合理主義の変容の経緯‐
一般的に近代合理主義は、その後さらに発展する科学的実証主義に繋がるものとされているが、その過程で大きな変質があった事にここで注目しなければならないであろう。
デカルトは、近代科学の機械論的自然観の元となったいわゆる物心二元論を唱えた。疑っても疑っても最後まで残るその疑っている自分の理性と言うものは否定しがたい実在であり、物理法則が支配する物質的延長の世界とは別の原理に基づいている。その起源はおそらく前述のような“原理的な神”に行き着くとデカルトは考える。同時に、これもまた神がつくりたもうたであろう物理法則が支配している物質的延長の世界は、その物理法則さえ究明できれば今後の展開が全て予見可能であるとし、いわゆるその後の機械論的自然観の端緒となった。
つまり、デカルト的物心二元論は物理法則が支配する物質的延長の世界とは別の精神的原理の実在を前提としていた訳で、いわゆる近代的自我の確立も本来それを前提とするものであった。
その後、哲学の世界では合理論と経験論の論争などが続いたが、自然科学の分野ではコペルニクス・ガリレオ・ニュートンの流れの中で、合理論と経験論を統合した科学的実証主義が確立されていった。
つまり、理性によって創出された理論でも、経験的な実験などによって実証されて初めて認められるという手法が確立したわけである。
ニュートンによる古典物理学の確立以降、自然科学は急速に発展し、機械論的自然観に基づいて宇宙から生物までその機械としての仕組みはどんどん解明されて、やがては、人間も高度な神経組織を持った最高級の機械であり、いずれは精神現象も物理法則で解明できるようになると信じられるように成ってきた。
つまり、科学的実証主義が物理現象の解明とその応用によって近現代文明の発展をもたらし、客観的に検証可能な物質的原理の実在性と有効性を証明してきたのに対し、もう一方の精神的原理の方は証明不能の形而上学の議論にとどまり、科学的実証主義の対象外となったまま、科学文明の進歩に取り残されることとなったのである。そして、やがてはそもそも精神的原理などと言う客観的実在の証明のしようのないものの存在自体が疑われるようになり、精神活動も高度な物理現象の一種とみなす方がより“科学的”で“合理的”であると言う見方が台頭してきたのである。
‐神的精神原理の喪失と近代的自我の孤立‐
ここにおいて、本来、精神的原理という絶対的基盤を前提に確立された近代的自我というものが、その後の科学的実証主義が唯物論的一元論に傾斜していくなかで、その精神的基盤の絶対性の拠り所を喪失していくという現象が生じてしまった。
ただし、古典物理学と科学的実証主義を確立したニュートンも、その後、相対性理論を発見したアインシュタインも、彼ら自身が決して唯物論者であったわけではない。彼ら自身は依然として前述の理神論者であったが、それはあくまで個人的信条のようなものであって、彼らの“主観的”信条とは関係の無い所で、古典物理学とその世界観に基づく近代の科学的実証主義の様々な成果は、多くの“科学者達”とその世界観を学んだ“近現代人”に、物質的原理の客観性と絶対性を確信させ、それに比して、精神的原理などと言うのものの実在性の疑わしさと根拠の希薄さを強烈に印象づけることになったことは否定できないであろう。
そう言う状況下では、もはや合理主義の「理」とは神的なものにつながる原理としての理ではなく、人間自身の理性或いは物理法則(それを創ったものが誰であろうが、居ようが居まいがもはやどうでもいい事)の「理」であり、理屈にあう論理的であると言うぐらいの意味の「理」に成ってしまった訳ある。そして、通常の学校教育で教えられる科学と言われるものは、このような唯物論的自然科学であり、現代人は知らず知らずの内にこの唯物論的自然科学が提示する世界観が、いわゆる一番合理的(科学的)な世界観であるとして受け入れるようになり、意識しようがしまいがそれに基づいた考え方・生き方をするようになった面があることは否定できないと思われる。
ところが、この唯物論的自然科学が提示する世界観は一見素晴らしく理路整然としている反面、無機質で、原初からただ厳然と存在するこの広大な物質宇宙の中のごく一部である太陽系の中の、更に点のような惑星である地球に、偶然の産物として誕生した地球表面のほこりのような我々人類という人間観を無意識の内に我々に植え付けてきたと言える。
特に、先に見た欧米の熱心なキリスト教徒のようにこれに代わる特定の宗教的世界観を信じて育った人以外は、当然のごとく上記のような無機質で機械論的な世界観の影響を受けて育つケースが多くなる訳である。この様な無機質でその存在理由も存在意義も不明な世界に放り出された人類は、啓蒙主義を経た近代合理主義により、それまで、彼らに与えられていた宗教的世界観・価値観からは“解放”され、さらに近代的産業革命による都市化によって、古来の共同体であった“村”の掟からも“解放”されたことにより、もはや自分で善悪の判断をし、自分であらゆる行動基準の根拠を見出し、自分自身の存在意義すらも自ら見出さなくてはならなくなったわけである。
‐唯一の“こころの拠り所”としての社会とそこからの疎外の結末‐
そうなってくると、“自分”にとって唯一頼りになるのは社会的評価や人間関係の中で自分の存在意義が認められることである。しかし、ここにも近代科学の手法である要素還元主義的なものの見方が、影を落とす。古典物理学的な独立した原子のように自分と他者の分断は本質的で固定的なあり方であり、ちょうどビリヤードの玉のように本来的にそれぞれ孤立しているものであるという人間観になりやすい状況が生じたのである。
そういう世界観・人間観においては、出来が良くて社会から評価される人や、それほど出来は良くなくとも家族特に親からの無条件の愛を受けた人は、そこに自己の“こころの拠り所”を見出すことが出来るが、出来が悪くて社会から評価されない人や、たとえ出来は良くても、親からの無条件の愛を感じることが出来なかった人は、“こころの拠り所”を見出すことや自己の存在意義を心底実感することが出来なくなる。そういう中では、“自分”はあたかも透明人間のように存在感の無いものと感じられ、他者から自分という存在を認めてもらえないのなら、他者の存在を自由に抹殺すると言う手段によってのみ、自己の存在を主張し実感しようとする人間も出てくるのである。もはや、それはニヒリズムの極致であるが、そのような極端な例は別にしても、本来、唯物論的自然科学が提示する世界観にはそう言うニヒリズムを生み出す素地がある事は否定できない。
先に述べたように、そのような無機質で自己の存在意義の不明と言う世界観の中では、それを補うものとして、人間同士のより深いつながりと相互理解・相互評価というものが健全な生を保証するものとして極めて重要になってくるであろう。とりわけ、家庭内における、幼少期からの親(又はそれに代わる人)による自己の存在意義の無条件の保証と言うものが、必要不可欠になるのではなかろうか。
しかし、そのような最低必要限の親からの“無条件の愛”が、親のエゴや世間体のために、過剰な期待、又は、良い子として振舞ったときにのみ評価するなどの“条件付の愛”に変質している場合は、子供としては本来の“ありのままの自分”がどんどん疎外されて行き、最悪の場合は、上記の様なありのままの自分が見えなくなってしまう透明人間的な精神的疎外状況の極致に陥ってしまうのであろう。
そう言う意味では、神戸のサカキバラ事件以降相次いでいる今日の日本社会に於ける未成年の“異常行動”も、きわめて当然の成り行きであるとも言える。
以上、当初、物質的原理と精神的原理の二元論を前提に確立された近代的自我というものが、その後の啓蒙主義によって社会的・宗教的権威から“解放”されて、個としての自由を得たものの、その後更に科学的実証主義が唯物論的一元論に傾斜していく中で、自由になった近代的自我は本来のもう一方の支柱であったはずの精神的原理という柱を失い、言わば、二階に上げられて梯子をはずされたような状況になった。
ここに、価値基盤の相対化と自らの精神的拠り所の不確実性という“現代的問題”が生ずるに至った。
2.世界観の“コペンハーゲン的”大転換
‐古典物理学的世界観と要素還元主義的手法の限界の露呈‐
古典物理学が打ち立てた無機質で機械論的な世界観とその手法である要素還元主義は人々の生き方にも大きな影響を与え、現代に至るまで、いわゆる“科学”と称されるものは、その多くがそのような古典物理学的な世界観を前提に構築されてきたのだが、一方、当の物理学の世界では、古典物理学がその前提として信じて疑わなかった物質の“客観的実在性”というものが、1920年代から発達してきたいわゆる「量子力学」(1)の理論によって根本的に見直さなければならないことが判ってきたのである。(2)(3)
いったんはニュートンの古典物理学によって完成したかに思われた物理学がアインシュタインの相対性理論によって基本的考え方を変換することになった。それでも、基本的にはどちらも物質と言うものの客観的実在性を大前提としている点では、同一線上のものと考えられる。違う点は、ニュートンの古典物理学が時空は絶対的なものと考えていたのに対し、アインシュタインはそれがあくまで、相対的なものでしかないと言う事を証明した事である。つまり、ニュートンはこの宇宙のどこへ行っても、距離や時間の流れは必ず一定で不変である(要するに絶対性を持っている)と考えたのに対し、アインシュタインはそれぞれの運動状態によって、距離も時間の流れも変わるので絶対的に客観的な距離や時間の流れなどと言うものはありえないと言うことを証明した。いわゆる時空の相対性を証明した訳である。しかし、二人とも、絶対性と相対性の違いはあるせよ、物質の客観的実在性と言うものを疑う事はなかった。そう言う意味では同じ立場にいたと言える。
ところが、デンマークのニールス・ボーアとその弟子達(いわゆる量子物理学コペンハーゲン学派の人々)はアインシュタインが最後まで納得できなかった理論と原理を着々と考案・発見していったのである。1980年代までは、そのアインシュタインの疑問が正しいのか量子物理学者達が正しいのかの論争が続いてきたが、特に残された大きな疑問であった“非局所性”の問題を問うことに成るいわゆるEPRパラドックス(4)についても、最近の実験装置の発達によってついに量子物理学者達が正しいことが実験で証明された。ここにおいて、それまでの唯物論的自然科学がその大前提とし、又、あのアインシュタインも最後まで信じて疑わなかった“単一宇宙における物質の客観的実在性”が根本から考え直されなければならなくなったのである。
そこで、量子物理学の成果についてここでやや詳しく見て行きたい。
‐量子物理学が示唆する新しい世界像‐
古典物理学により、物質は、原子から構成されていること、原子も原子核とその周りを回っている電子から構成されている事が分かって来た。ところが、もし電子が客観的実在性を持っているのであれば、原子核の周りを回っているとき、瞬く間に電磁波を発生してその回転エネルギーを使い切ってしまい、原子核の引力である電気力によって原子核と衝突してしまうこともやがて判明した。
電子が一瞬にして原子核に衝突してしまえばそれから構成されている物質も一瞬しか存在できないことになる。しかし、実際には物質はずっと存在しつづけているように見える。この大きな矛盾を解くためにシュレディンガーの波動方程式等の新たな理論が生み出されていった。
そこで、判ったことは「電子など物質の究極形態である素粒子と言うものは、波動性と粒子性の二面性を持っており、それが観測されるまではその実在の仕方は確定しない」と言う事であった。人間が観測するまでは、実在の仕方が確定しないとはどういう事かというと、人間が観測していないときは素粒子は実在以前の状態にあるという事である。
実在以前とは、具体的にはどういう状態かというと、無数の位置にある“可能性”が同時に“共存”あるいは“重ね合わせ”の状態にあるということである。無数といっても全ての可能性が同じように共存している訳ではなく、一番ありえそうな(確率が高い)位置から一番ありえそうにない(確率が低い)位置までのその中間の全ての確率を含めた可能性が共存しているのである。その可能性の範囲と各位置の共存度の確率をグラフ化すると関数グラフで表わされ、それを量子力学では波動関数(Quantum Wave Function)と呼んでいる。
つまり、人間が観測するまでは、その波動関数で表わされる確率の範囲内の全ての存在の可能性が同時に共存しており、観測と同時にその中の一つだけが選び出されてその実在の仕方が確定するのである。しかも、位置と運動量が同時に確定される事はなく、位置が決まれば運動量が確定できず、運動量が決まれば位置が確定できない。これを有名なハイゼンベルクの不確定性原理と言う。
つまり、物質の究極形態である素粒子は人間が観測して初めてその存在の仕方が確定するわけで、確定してもその位置と運動量のどちらかしか確定しないという、古典物理学まで信じられてきたような、人間の観測の有無に関わりなく自分で勝手に動き回っているような、客観的な位置と運動量の両方が確定している状態の素粒子など実在しないことがわかった訳である。
もし、これが正しいとするとそれら素粒子から構成されている夜空の月も人間が見ていないと実在の仕方が確定していない状態にあることに成る訳であるが、あのアインシュタインもそのような“不合理”な事は納得がいかないし、そもそも、それまでの古典物理学の基本原則であった、決定論的因果律の法則が適用できず、確率でしか語れないのは量子論が不完全な証拠であるとしてあの有名な「神はサイコロを振らない」という棄て台詞を残して、最後まで意地を張っていたのであった。実は彼自身も「光量子仮説」などによりその後の量子力学の発展のきっかけを作ったわけだが、最後までその観測問題と確率論には納得しなかったのである。しかし、アインシュタインが何と言おうとその後の数々の実験は量子力学の正しさを証明していった。そしてついに、その決定的証拠が、前述のEPRパラドックスの検証結果によって得られたのであった。
‐粒子の非局所性と分離不可能性の証明‐
このEPRパラドックスは、実は、量子力学の不完全性を証明するためにアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンらによって考案された思考実験である。まず双子の光子が正反対の方向へ飛び出したとする。光は偏光を持っているが、量子論によればこれは“観測されるまで”どの角度に偏光しているかは“確定していない”。いづれにしても、これら二つの光子はそれぞれの飛び出したときの相互作用によりそれぞれ正反対の角度に偏光しているはずである。しかし、いずれの光子もそれが観測されるまではその偏光の角度は“確定”していないので、どちらか一方が観測された瞬間に初めてその観測された方の光子の偏向の角度が確定し、それに応じてもう一方の光子の偏向の角度がその正反対に確定されることになる。これは、量子論によれば双方の光子がたとえ一億光年離れたとしても起こりうる現象なのである。
アインシュタインはそこに持論の相対性理論の「いかなるものも光速を超えるものはありえない」という前提をもって、もし量子論が正しいのなら、片方の光子の偏光の角度が観測によって確定された瞬間に、全く同時に“光の速さを越えて”その情報がもう一方の光子に伝わりそれによってその正反対の偏光の角度が確定する事になる。これは、明らかに相対性理論の原則に反するので、量子力学が不完全な証拠であるということを証明しようとしたわけである。
長年にわたり、この思考実験は観測装置の未発達などにより、実際に実験で検証することが出来ず、1964年にそれを証明するためのベルの不等式という数学理論が提案されたが、実験による正確な検証は出来ないまま、つい最近まで物理学の世界では実際にアインシュタインが正しいのか量子力学が正しいのかは判定できないという状況が続いた。しかし、1982年パリ大学のアラン・アスペらのチームによる厳密な実験(5)によって、ついに量子力学が正しいことが証明されたのである。
この実験の結果により、量子論の主張どおり、素粒子は“観測されるまでその実在の仕方が確定しない”ということと、その“非局所性”と“分離不可能性”が証明されたわけである。
基本的には、“非局所性”と“分離不可能性”は同じ意味であるが、用語が使われる文脈のちがいはある。
非局所性というのは、先の例の双子の光子に関して言えば、たとえ双方が一億光年離れていたとしても、一方の光子が、観測されることによりその実在の仕方が確定し、それにより全く同時にもう一方の一億光年離れた光子の方もそれに対応してその実在の仕方が確定することになる事から、それぞれの光子は“空間的距離を越えた繋がり”を持っており、その“相互の影響の及ぶ範囲は局所的なものではない”、ということである。
分離不可能性というのは、基本的には上記の双子の粒子間の関係を言うが、それのみならず、双子の粒子が飛び出す事により、その相互作用的影響は当の双子の粒子間に限らず、その周辺の粒子にも及び、その周辺の粒子の影響はそのまた周辺の粒子にも及び、厳密に言えばその影響は際限なく広がり最終的には宇宙全部に広がることから、一つの粒子を観測することにより、その“無限の相互連関”よって、全宇宙の粒子の実在の仕方が同時に確定することになるという意味で使われることもある。
この事実は、旧来の古典物理学的世界観とその要素還元主義的手法の前提を根底から覆すものであり、それこそ、それまでの世界観・宇宙観に、再度、“コペルニクス的”いや“コペンハーゲン的”大転換を迫るものである。
旧来のビリヤードボール的な原子論のように各部分は個々に独立した実在性を持つものではなく、“全ての粒子は相互に繋がりをもつ全宇宙的な相互連関の系として捉えなければならなくなった”ということである。
また、あの不確定原理を発見したハイゼンベルグのS行列(Scattering Matrix)理論を発展させたジェフリー・チュ-のブーツストラップ仮説(6)によれば、クォークレベルでは各粒子それ自体に独自の特性があるわけではなく、粒子相互の関係性によってそれぞれの特性が現れて来ると考えられている。卑近な例で言えば、ある人が、その人の親に対しては素直な息子であるが、子供に対しては頑固親父であり、上司に対しては忠実な部下だが、その部下に対しては非情な上司であるかもしれないと言う様なことである。つまり、「それ自体に固定的な実体や固有の性質がある訳ではなく、全ては相互依存的な関係性に依ってその見かけ上の特性が現出している」と言う事である。
なお、現在はこのブーツストラップ理論をさらに発展させ、その不備を補うような「超ひも論」(7)さらには物理学の究極理論と目されている「M理論」等が登場しているが、それらは「10次元あるいは11次元からなる振動体」と言うものを想定しており、我々が通常知覚できる3次元プラス時間の4次元時空間を越えた多次元を繰り込んだものである。その理論が解明されていけば、アインシュタインの一般相対性理論と量子力学を統合できるだけでなく、現在まで量子論によって解明されてきた以上の革命的世界観が開けることになると考えられている。ただ、それにはあと100年はかかるかもしれないと言われている。
‐量子の観測問題と人間原理‐
現在、量子物理学の最先端の現場では、もうその基本的な正しさを疑う人はいないが、唯一まだ論争になっているのは、いわゆる量子の観測問題の解釈についてである。
もし人間の観測行為によっていろんな存在可能性の中から一つの可能性が選択されて実在化するのなら、その瞬間にその他の選択されなかった可能性はどこに消えてしまうのかと言う大きな疑問が残ると言う事である。
この疑問に対しては、従来の正統派である量子物理学コペンハーゲン学派の人々は、観測の瞬間に波動関数の波束が収縮して一つの可能性だけが実在化してそれ以外の可能性は雲散霧消してしまうとしていた。
しかし、この解釈によると人間の観測行為と言うものが非常に大きな意味を持ち、突き詰めれば、この宇宙全体も人間が観測しないと存在の仕方が確定できない事に成る。宇宙の始まりの当初からは居なかったはずの我々人類が、大昔からあったであろう宇宙の在り方までその観測行為によって時間をさかのぼって規定してしまう事に成る訳である。
実際、コペンハーゲン解釈に素直に従えば、そういう結論になってしまう訳で、事実、ジョン・ウィーラーなどは、自ら創案した「遅延選択実験」が1984年に実際に実験によって検証され、観測行為が時間を遡って粒子の過去の様態に影響を及ぼす事が証明された事から、人間の観測行為が時間を遡って原初の宇宙のあり方まで規定するという説(8)を唱えている。
この様な、宇宙の成立過程における人間存在の影響のことを宇宙論では「人間原理」と呼んでいるが、上記のウィーラーのような人間原理の解釈は「強い人間原理」と呼ばれ、それに対して、一応人間存在の影響を考慮に入れるホーキングらの解釈は「弱い人間原理」(9)と呼ばれる。
そもそも宇宙論の構築に人間原理などという概念を導入せざるをえなくなったのは、ビッグバンによって宇宙が誕生したと考えるとき、人類が存在できるような宇宙を初期の特異点が偶然に創る確率は10のマイナス1230乗と試算され、偶然ではほぼ絶対に起こりえないような数値がはじき出されてしまったからである。
この奇跡的な事実を、量子力学のコペンハーゲン解釈で説明すると、宇宙の開闢当初からその宇宙内の粒子は誰にも観測されてはいないので、その実在の仕方は確定しておらず、無数(例えば10の1230乗通り)の可能性が“共存”あるいは“重ね合わせ”状態にあったが、人類が登場して観測したことによって、一気に波動関数の波束が収縮して、その無数(10の1230乗通り)の宇宙の“あり方の可能性の共存(重ね合わせ)状態”の中から、“地球と言う惑星が誕生しその中に人類が登場しうるような状態の宇宙のみ”が実在化し、他のあり方の可能性の宇宙はその瞬間に雲散霧消したと考える訳である。上記のウィ-ラーらの説はおおむねそう言うことなのである。
古典物理学とその世界観に基づく唯物論的自然科学によって、一旦は、地球表面のホコリ程度にまで貶められた人間存在が、コペンハーゲン解釈では、一躍宇宙の主役に踊り出て、しかも、宇宙全体の創造過程にまで関わってしまう。
このようなコペンハーゲン解釈では人間の観測行為と言うものがあらゆる物理現象で決定的な意味を持ってしまうと言うことと、もう一つは、コペンハーゲン解釈が主張する“波動関数の波束の収縮”と言うものは、必ずしも数式から導き出されるものでは無い事から、数学的にももっと“無理の無い”解釈が登場するに至った。
‐多世界解釈‐
それは、“多世界解釈”(10)(11)と言われるものである。この多世界解釈と言うのは、1957年ヒューエベレットによって最初に説かれたもので、観測の瞬間に波動関数の波束が収縮して一つの可能性だけが実在化するのではなく、波動関数で表わされる全ての可能性が同時にそれぞれ別々の世界に枝分かれして、それぞれの世界で実在化しているのだと考えるものである。観測者としての人間も同時にそれぞれの別々の世界に枝分かれして行くので、その枝分かれの中の一人の自分にとっては、一つだけの可能性が実在化した様に見えるだけだと考える訳である。
つまり、実在世界と言うものは、単一なものではなく、毎瞬毎瞬、可能性の数だけ枝分かれしていっており、その中にいる我々人間(同一人物)も同じように枝分かれしている訳だが、それぞれの自分は他に枝分かれしていった世界やその中にいる自分を自覚することは出来ない為、今の自分にとっては何時も一つの世界しかないように思えると解釈するのである。
この理論は、一見、主流派のコペンハーゲン解釈より更に非現実的に聞こえるが、この解釈が理論的にも最も整合性があり、一切の不自然さや人間原理などと言う超物理的要素を持ち込まなくても済むため、現在のこの解釈を支持する物理学者は増えている。
宇宙論においても、この多世界解釈に依れば、ビッグバンの当初から無数(例えば10の1230乗通り)の数の宇宙がそれぞれ分岐しながらそれぞれの世界で実在化したと考える。(12)そして、その無数の宇宙の中の一つにはたまたま地球が誕生しその中で人類が育まれる様な宇宙も実在化した。その中で人類がその宇宙を観測して過去の宇宙創造の歴史を振り返ると正に奇跡の連続のように思えるかもしれないが、実は他の無数の可能性の宇宙も実在化しているので、自分が存在しているという宇宙が実在化していることも奇跡でも何でもなく、いわば当然の事になるわけである。
そして、分岐している世界は今この瞬間においても可能性の数だけ毎瞬毎瞬分岐しながら実在化し続けており、観測者である我々一人一人にとっても、未来は一つではなく無数の可能性の未来があることになる。
ただ、この多世界解釈による場合でも、自分というものが枝分かれするとき、どの様にして意識が継続するのか?また、たくさんの枝分わかれの可能性の内のどの自分に意識が繋がって行くのかなど、答えられていない疑問も多くある。
最も、これらのことは物理学だけの研究分野と言うよりも、心理学・大脳生理学などとの共同研究の分野に成るべきなのだと思われるが、今の所、科学全般が未だに古典物理学的世界観にもとづいて、研究が行われている場合が多い為、そのような本格的な研究が行われるにはまだまだ時間を要すると思われる。しかし、既に、20世紀中ごろには、量子力学の立役者の一人であるパウリと深層心理学の巨頭ユングがお互いの研究分野が将来一つになる必要性を既に予想していた(13)(14)のも事実である。
いずれにしても、コペンハーゲン解釈にしろ多世界解釈にしろ、量子力学によって解明された双方に共通する新たな世界像に依れば、“粒子一つ一つはそれぞれがバラバラに自立して自存しているのではなく、それぞれ空間的距離を超えた繋がりを持っており、その繋がりは宇宙全体に及ぶと言うことである。したがって、そのような粒子から構成されている物体も我々人類も全てその様な無限の相互連関の繋がりの中にある”(15)と言うことになる。
また、各事物の見かけ上の特性はそれ自体の実体として自存しているものではなく、それぞれの相互依存的関係性の表出として現象しているということになる。
以上、古典物理学と要素還元主義の手法によって発展した近代科学によって提示された、固定的で無機質な世界観と、部分を固定的な実体を持ったものとして分断し分析していく手法は、近現代人の世界観とものの考え方・生き方に大きな影響を及ぼしてきたことを先に見てきたが、同様に、量子力学とその発展によって新たに提示された世界像は、それまでの世界観を大きく覆すものであり、それによってこれからの人類の物の見方を大きく変える可能性を秘めたものであるといえよう。
‐残存し続ける古典物理学的世界観とその結果としての現状‐
現在、多くの物理学者は量子力学の実用性のみに目を向け、それが示唆する世界像やその解釈については深入りしようとはしていない。
量子力学の理論はその実用性と有効性は早い段階から認められていたが、それが示唆する新たな世界像については、検証手段の未発達により、つい最近まで実際に確認することができなかった。それ故に、古典物理学的世界観を根本的に見直すことになるような問題については長い間不問にされてきた。そして、相変わらず、物理学以外の科学の分野や一般世間では古典物理学的な世界観のみが“常識”として定着し、アインシュタインの相対性理論によって、それに多少の修正が加えられた程度の状況がつづいたと言える。
この古典物理学的な世界観によって定着してしまった「事物はそれ自体が独立した自性をもった部分から成り、その部分の外的相互作用によって全体が成っている」という“常識”により、全体を把握するにはその各構成要素の特性とそれらの外的相互作用の力関係を分析すれば、全体も把握できると言う、“要素還元主義”も常識的な手法として定着してしまったのである。
そのようなものの見方は自然科学の分野のみならず、社会のあらゆる分野にも定着し、人間関係においてすらも、それぞれビリヤードのボール同士のような固定的な自性をもった各個人がビリヤードボール同士がぶつかり合うように、他者との外的相互作用と駆け引きよって、他者の行動に変化を期待したり、場合によっては、他者からの外圧によって自己の行動を変えたりするという、あくまで自己と他者との分断と独立は本質的で固定的なものであるという見方を前提とした、外交戦術的な人間関係を生み出す一因にもなってきたと言える。
それはまた、そのような他者からの“外圧”や他者との“駆け引き”が面倒になったり疲れたりして、いわゆる“引きこもり”状態になる人が増えたり、嫌な奴とは付き合わないで、気のあった人だけと付き合うという、分断的で硬直した現代的人間関係をもたらす背景にもなっていると思われる。
そこには、嫌な奴は“本質的”そして“永遠に”嫌な奴であり、逆に気のあった人は本質的に永遠に気のあった人であるという無意識の固定観念と幻想があるわけだが、その幻想が崩れると、その関係も破綻してしまう。しかも、一旦あらゆる束縛から“解放”された“近代的自我”は、そのような破綻した関係を修復するよりも自らの“自由”と“快適さ”の方に重きをおこうとするため、ますます人間関係が希薄化・外交化して行く。そして、最悪の場合はペットしか“友達”は居なくなると言う、まさに現代文明における近代的自我の“孤独”と“疎外”の象徴のような社会現象が生じるに至るのである。
‐新しい世界観による近代的自我の人間性の回復の可能性‐
しかし、このような現代文明における近代的自我の孤独と疎外の一因となったと思われる古典物理学的世界観に対して、前述の量子力学の革命的な発見による「この世界の全てのものは根源的な繋がりを持つもので、粒子レベルから、この世には、それ自体が独立した固定的な自性を持つものなど何一つ無く、それぞれの“関係性”によって相互の“内的変化”が励起され、その特定の関係性によって励起されたそれぞれの“内的状態”がその時のその粒子の特性であり、他の粒子間とではまた別の相互の内的変化が励起され、また別の特性が現れる」という“事実”は、実に示唆に富むものである。それは、先に述べたように、今後自然科学の物の見方に根源的な見直しを迫るものであるのみならず、我々の世界観、社会全体の今後のあり方と人の生き方にも大きな影響を及ぼすことになると思われる。
近年、すでに、上記のような量子論的世界観に基づき、新しい“自我”のあり方と他者との関係性、さらに今後の社会のあり方について模索する研究がなされつつある。(16)(17)しかし、まだ始まったばかりであり、今後多方面からの研究が待たれるところである。
昨今の“心の時代”と言われる社会状況の中で関心が高まっている、いわゆる“自己のアイデンティティー”というものも、量子論的な新たな見方で解釈し直してみると、「本来固定的な本質なり本性を持ったものではなく、“過去から現在までの様々な他者との関係性によって励起された自己の内的状態の総和”である」と言うことになる。
それは、当然、他者についても言えることである。我々にとって一見、他者の本質あるいは本性と思われるものは、それは決してその人の“本性”ではなく、あくまでその人の“過去から現在までの様々な他者との関係性によって励起されてきた内的状態の総和”の一面が、我々との関係性や現時点での状況によって一時的に表出したと言えるのものである。
この事は、逆に言えば、その人の過去の状況と人間関係をさかのぼって知ることが出来れば、何故その人が現在そのような内的状態の一面を持っているのかを充分に理解できるということであり、それによって、今その人にどのような状況と関係が必要なのかも見えてくることになり、それに貢献できるような自らの(その人に対する)内的変化および、外的行動を生み出すことも出来るわけである。
さらに、量子論が示唆する通り、宇宙の全粒子が一つの系として本源的な繋がりと一体性を持っているように、自己と他者は決して分断されたものではなく、その分断はあくまで仮想に過ぎないと言うことなのであり、その上、自己のあり方にも他者のあり方にも、“無数の存在可能性が共存”しており、その関係のあり方とその未来についても無限の可能性が開かれているということなのである。
同時に、無限の一体的ネットワークに繋がるどの一点も、それぞれそこに繋がる関係性のパターンは唯一無二のものであって、全く同じ関係性のパターンを持つ点などありえない訳であるから、そう言う意味では、どの一点も“掛け替えのない”ものであり、それがひとたび失われれば二度と再び全く同じ関係性のパターンは再現できないのである。
同じことは人間存在にも言えることで、どのような人であれ、その人に繋がる関係性のパターンは宇宙の中で唯一無二のものであり、その人が失われれば、もはや二度と再び戻っては来ないものであると言える。と言うことは、どのような人も唯一無二の掛け替えのない存在であるとういうことである。しかも、このことは、人間のみならず全生物・全存在について言えることなのである。そして、この様な事実認識は、自己を含めたあらゆる他者あらゆる存在に対する敬意と深い尊崇の念を呼び起こすものであると言える。
また、実生活の人間関係においても、どのような人も、その人に繋がる関係性のパターンは唯一無二のものである訳だから、どのような人からも自分には無い必ず何か学ぶべきものがあるはずであり、それはお互いについて言える事なので、その様な認識を人びとが共有するようになれば、人間関係全般が相互に学び合い、理解し合い、共に高めあうような、動的かつ創造的で温かみのあるのものになっていくものと思われる。
そこに至って初めて、かつて、与えられた価値観を放棄し、自らの自由と判断を志向するようになった“近代的自我”が、結果として自由は勝ち得たものの、気がついてみれば無機質な荒野の中で、自らの自由を邪魔しようとする無数の他者に囲まれていて、そこから逃げ出そうとすれば、孤独と疎外が待ち受けているという、現代の閉塞的状況から抜け出すことができるのではないかと思われる。
新たな世界観と人間観を習得することによって、それまで孤立していた近代的自我は、“自らの判断”で他者を尊重し、自ら進んで他者から学び共に高めあうという人間的な関係性をとりもどし、また相互連関的で有機的な世界との一体感をも獲得するようになるのではないかと期待されるのである。
<結び>
以上、近代合理主義によって確立された近代的自我が啓蒙主義によって自由を獲得し、更にその後の機械論的自然科学の発展によって、精神的基盤の根拠を喪失し、なおかつ、自らはその機械の部品の一部であると言う強迫観念からは自由になるために、あらゆる関係性を遮断し、結果的に孤独感と疎外感にさいなまれるという近現代的構図を概観し、その強迫観念の源泉であった機械論的自然観の前提が新たに登場した量子論によって覆り、全く新しい世界観と人間観を獲得するにいたる可能性が開けたことを見てきた。
この様な新たな可能性の前提ともなりえる量子論が示唆する新たな世界像については、1970年代ごろから台頭して来たいわゆるニューサイエンスといわれるジャンルに分類される様々な一般向け啓蒙書が出版されている。
それら啓蒙書の中には、量子論の示唆する世界像と東洋思想とくに仏教の空の思想との近似性を指摘するものも多い。しかし、その点については本稿の主題ではないので、ここではあえて触れなかった。
また、物理学以外の分野でも新たな世界観を示唆する発見が成されている。1950年代、アメリカの精神科医のスタニスラフ・グロフは薬物が人の意識状態に与える影響についての研究を開始した。そして、その後30年間に渡る臨床実験により、被験者達が薬物の影響下での実験の過程で、個人的には絶対に知りえないような家族・親族・先祖・民族・種としての人類の記憶や、場合によっては人類以前の生物の記憶まで保持している事を発見した。また、一見ただの幻覚と思われるような内容も、精査してみると、本人にはもちろん一般には知られていなかったような古代エジプトのミイラの製造技術の詳細などの歴史的事実や特殊な情報を含んでいる事例が多く発見された事から、個体の意識はその個体性を超えた家族・先祖・民族・種としての人類・生物全般まで広がる広大な領域にまで繋がっていると理解せざるを得ないとする研究発表がなされた。(18)それがきっかけとなって、現在トランスパーソナル心理学と呼ばれる新たな心理学の一分野が確立されるに至っている。
また、生物学の分野でもケンブリッジ大学のルパート・シェルドレークによって提唱された「形態形成場」の理論によって、生物も、場合によっては一部の鉱物も、個体性を越えた「形態形成場」というものを共有しており、それが進化の過程で重要な役割を果たしているとする新たな見地が提示されている。
しかしながら、これら物理学・心理学・生物学等の新発見を元に、それらを新たな思想運動として統合しようとする動きには注意しなければならないものがある。
いわゆる“ニューエイジ・ムーブメント”と言われるものの中には、背後にオカルト的神秘思想が潜んでおり先端科学の新発見を自らのオカルト的思想の裏づけあるいは宣伝に利用しようと言う“恣意性”が見て取れるものがある。
そのような我田引水的な多数の出版物によって、せっかくの新たな諸発見自体までもが胡散くさい眼で見られるようになるのは、人類にとっては大きな損失であると思われる。
それらの“恣意的”な解釈に依らず、これまで見て来た“新たな事実”とそれによって明らかになる世界観・人間観が、今後の人の生き方、社会のあり方をより健全で建設的なものにしていく上で、真に寄与できるようにしていく為には、各分野での更なる地道な研究のみならず、分野を横断した学際的な共同研究が必要になってくると思われる。現在、自然科学・人文科学ともに分業化と専門化が進み、相互にその成果を活かしあうことが充分になされていない。その為、物理学の成果は心理学や哲学の分野には充分に取り入れられて居らず、その逆も同様である。同じように医学、社会学、宗教学なども今後様々な問題でますます共同研究が必要になってくると予想される。これから明らかになってくるであろう世界・人間に関する、より深い洞察と発見は、各専門分野ごとの研究だけに終わっていては、“木を見て森を見ず”の結果に終わりかねない。今、人類の英知を結集し、新たな文明の方向性を見据える時が来ていると思われる。そして、その成否は今後の人類の存亡に関わってくると、筆者は考えるものである。
<参考文献>
(1) Werner Heisenberg Physical Principles of the Quantum Theory
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(2) Werner Heisenberg Physics and Philosophy: The Revolution in Modern Science (Great Minds Series) Prometheus Books ; ISBN: 1573926949 ; Reprint ed. (1999/05)
(3) Werner Heisenberg Philosophical Problems of Quantum Physics
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(4) Fred Alan Wolf Taking the Quantum Leap: Chapter 9. P153-P163
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(5) Michael Talbot The Holographic Universe: P52-P53
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(6) Fritjof Capra The Tao of Physics: P276
Shambhala Pubns ; ISBN: 1570625190
(7) Brian Greene、林一・林大訳「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する」草思社 ; ISBN: 4794211090 ; (2001/12)
(8) John Archibald Wheeler , Kenneth Ford, Kenneth William Ford Geons, Black Holes, and Quantum Foam: A Life in Physics : Chapter 15, P334-P339
W W Norton & Co Inc ; ISBN: 0393319911 ; (2000/02)
(9) Stephen W. Hawking、林一訳「ホーキング宇宙を語る」: P166-P167
早川書房 ISBN:4-15-203401-7
(10) 和田 純夫「量子力学が語る世界像―重なり合う複数の過去と未来」
講談社 ; ISBN: 4062570122 ; (1994/04)
(11) 和田 純夫「シュレディンガーの猫がいっぱい―『多世界解釈』がひらく量子力学の新しい世界観」河出書房新社 ; ISBN: 4309612016 ; (1998/09)
(12) David Deutsch The Fabric of Reality: The Science of Parallel Universes-And Its Implications
Penguin USA (P) ; ISBN: 014027541X ; (1998/08)
(13) Wolfgang Pauli, ed. by C.P. Enz & K.V. Meyenn, trans. to Eng., R. Schlapp Writings on Physics and Philosophy: Chapter 17, P150
Springer-Verlag ; ISBN: 354056859X ; (1994/10)
(14) C.G. Jung Synchronicity
Routledge,an imprint of Taylor & Francis Books Ltd ; ISBN: 0415136490 ; (1985/09/19)
(15) David Bohm & B Heley Foundation of Physics Vol.5: On the Intuitive Understanding on Non-locality as Implied by Quantum Theory: P96-P102
(16) Danah Zohar & I. N. Marshall Quantum Self: Human Nature and Consciousness Defined by the New Physics
Quill ; ISBN: 0688107362 ; Reprint ed. (1991/05)
(17) Danah Zohar & Ian Marshall The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision
Quill ; ISBN: 0688142303 ; (1995/07)
(18) Michael Talbot The Holographic Universe: P66-P72
Perennial ; ISBN: 0060922583 ; Reprint ed. (1992/04)
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